kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

頼近美津子とマーラーの『復活』と『9.11』と

右翼によるフジテレビ批判の底流にあるもの - kojitakenの日記 の続き。前の記事は、大部分を記憶に基づいて書き、一部をネット検索で補ったものだから、かなりいい加減なところがあったかもしれない。


10年目に『復活』 - Living, Loving, Thinking, Again より。

鹿内信隆鹿内春雄の父子確執の話は面白かった。鹿内に外されることをシカトされるというのか。さて、鹿内春雄の妻だった頼近美津子が「マーラー交響曲第2番『復活』を聴いて、鹿内春雄の死のショックを乗り越えた」ということを知る。何故そんなことに注目したかというと、911テロ10周年に因んで紐育フィルが現地時間9月10日にマーラー交響曲第2番『復活』を演奏するからだ(指揮はAlan Gilbert)。これは紐育フィルのサイトでウェブキャストされるほか、世界中のTV局が中継するということなのだが(中国の場合は「上海藝術人文頻道」)、日本でどうなっているのかは知らず。


ネットに当時の朝日新聞記事を誰かアップしていないかと思って調べたが、それはさすがになかった。しかし当該記事が1990年3月8日付の朝日新聞夕刊に掲載されたことだけは確認できた。私の記憶では、夕刊1面の左上に大きく掲載されていたのではなかったかと思うが、記憶違いかもしれない。

その朝日新聞記事への言及があるのは、大野和基という人が『週刊テーミス』の1990年4月4日号に書いた記事。同氏のウェブサイトに出ている(下記URL)。
http://www.globe-walkers.com/ohno/interview/shikauchi.htm


ここで注目されるのはURLの文字列。なんと "shikauchi" となっているではないか。いうまでもなく、「鹿内」は「しかない」と読むしかない。これではまるで "bakawashinanakyanaoranai"*1で悪名高い「城内実」ではないか。なお、「城内」は「しろうち」でも「じょうない」でもなく「きうち」と読むが、私はいつも「じょうない」とタイプして仮名漢字変換をしている。間違っても単語登録などするものかと固く心に誓っているのである。

その "shikauchi" について書かれた記事から引用する。

未亡人とはいえ、彼女はいまでも鹿内姓を名乗る鹿内家の一員である。彼女たち親子の米国行きに、鹿内家はどう対応し、いま、どんなやりとりがなされているのか。
彼女の表情が急に曇った。
鹿内家との連絡については、答えたくありません」
彼女のこれまでの人生の歩みは華やかであり、さながら「現代版シンデレラ」のようだった。まずNHKアナウンサーとしてデビューし、すぐに美人才女アナとして人気を博した。そして、フジテレビにそうした人気を買われて移籍。時を経ずして、当時のフジ・サンケイグループの総帥鹿内春雄氏に見染められての結婚。総師夫人として頂点を極める直前まで、彼女は順風満帆の道のりを歩んでいた。
が、春雄氏の急逝で彼女の人生は一転、悲劇の底に沈んだ。結局、彼女に残されたものは2人の息子と家、それに数億円の借金だけだった。
春雄氏の父・鹿内信隆氏がその後、娘婿の宏明氏と養予縁組みし、後継者に指名したとはいえ、鹿内美津子親子にフジ・サンケイグループからの何がしかのサポートがあっても、当然である。
しかし、春の太平洋を越えて来た同グループの反応は、北極海の氷のように冷たかった。
「彼女は鹿内家と血がつながっていないので、フジテレビとも一切関係ありません」フジテレピ広報)
これを、草葉の陰の春雄氏はなんと聞くだろうか。


赤字ボールドにした誤記から、この記事が雑誌からスキャナーで読み取ったものであることが容易に想像されるが、それはともかく「彼女は鹿内家と血がつながっていないので、フジテレビとも一切関係ありません」というのはすごい言い草だ。

これには理由があって、記事が書かれた当時は鹿内信隆がまだ生きていたのだ。以下Wikipedia「頼近美津子」から引用する。

春雄との間に2児を儲けるもわずか4年後の1988年、春雄は42歳で病死。フジテレビは春雄の後継問題と社内抗争で揺れ、鹿内家から距離を置きたいと思ったのか1990年、2人の息子と渡米。米ワシントンD.C.に居住。スミソニアン博物館でボランティアとして働く。春雄は豪邸の他、フジテレビの親会社にあたるニッポン放送株を大量に所有しており、実質的にはその株のほとんどを美津子未亡人が相続することになり、フジテレビは美津子の支配下に置かれかねない状況となっていた。これに慌てた春雄の父・鹿内信隆はなりふり構わずニッポン放送株を取り戻そうとした。美津子が相続した時価にすれば100億円は下らないニッポン放送株は鹿内家に6,600万で買い戻された。


ニッポン放送株やフジテレビ株とは昔からいろんな騒動を引き起こしたもののようだ。ホリエモンは生まれてくるのが15年遅かったかもしれない。鹿内信隆はこの騒動のあった1990年10月に死んだが、死の直前までこんなことをやっていたわけだ。権力者の「業」の深さを思う。


以下は余談。上記「Wikipedia」によって、頼近美津子は広島出身だったことを知った。生まれも育ちも東京だとばかり思っていたので意外だった。「出演番組表」を見ていて、偶然の暗合にちょっと慄然とした。

  • 溶けあう心の絵の具〜少年画家・浅井力也の世界 -BS10周年スペシャル-(1999年9月30日、NHK-BS2
  • 音楽のまち・かわさき(2005年9月11日 - 、ラジオ日本) ※阿部孝夫の代理

1999年9月30日といえば、東海村JCO臨界事故のあった日。そして2005年9月11日はあのNYのテロから丸4周年にして、小泉純一郎の「郵政総選挙」の投開票が行なわれた日だ。

そういえば、頼近美津子マーラー『復活』については、こんなブログ記事があった。
http://happinesszdenka.blog44.fc2.com/blog-entry-911.html

マーラーの復活と第3番には励ましの効果があると思います。


コンサート・プランナーとして有名だった故頼近美津子さんが、マーラー交響曲第2番「復活」に救われたという話を、15年近く前の『モーストリー・クラシック』で読んだ事がある。夫君(鹿内春雄氏)を亡くして絶望のどん底にいたある日、この交響曲の第4楽章のアルト・ソロ「おお、信ぜよ、我が心よ、信ずるのだ。/すべては汝から失われたわけではないのだ!」という一節を聞いたことで、前を向こうと思えた、と語っていた。以前、想い出(何年目かの結婚記念日に頼近さんをザルツブルグ音楽祭に連れて行く、と約束していたというエピソード)を綴った別のエッセイを読んでいたこともあり、非常に感銘深いものがあった。ベートーヴェンの「運命」やブラームスの第1番同様、「絶望から歓喜へ」という分かりやすい大まかなストーリーラインのある作品なので、精神的にどん底の人がこの曲に出会って励まされるというのはよくある話のようだ。


私は、引用したブログ主さんの意見とは違って、最後の審判とすべての死者の救済を歌ったマーラーの『復活』は、ベートーヴェンの『運命』や『第9』、あるいはブラームスの第1交響曲のような現世的な「苦悩から歓喜へ」を追求する音楽とは全く異なる性格の音楽であると考えている。だからこそ頼近美津子マーラーの『復活』に救いを求めたことが印象に残ったのだった。朝日新聞の記事を読んだ当時、彼女はやはり現世に救いを見出すことはできないのではないかと思ったのである。マーラーは後年に書いた第8番『千人の交響曲』で、やはり合唱付きの大がかりな音楽によって再度「光」を求めたが、最終的にそこにとどまることはできず、『大地の歌』と交響曲第9番によってその対極の世界へと向かっていったのだった。


ところで、上記はFC2のブログエントリだが、なんと記事番号が「911」番。こんな偶然にいちいち「慄然」とするなんて、まるで佐野眞一みたいだし、まかり間違えば陰謀論の世界に堕ちてしまいそうだが、正直言って不気味な暗合だと思った。


そして明日は「9.11」。NYテロから10周年にして、私が「戦後日本の政党政治」にとっての「命日」と考えている日から数えて七回忌でもある。奇しくも明日は6年前と同じ日曜日。