kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

河出文庫版『シャーロック・ホームズの思い出』(コナン・ドイル)を読む(1)

まず最初に、『シャーロック・ホームズの思い出』を未読で、今後読みたいと考えている方はこの記事を読まない方が賢明でしょう。ネタバレを含んでいます。ネタバレは、他のホームズ物語にも及んでいます。

さて、この記事、長くなりそうなのでシリーズにすることにした。それでこの記事にタイトルに「(1)」を付したが、それ以前に、「ゾーイー」か「ズーイ」か、「カッシング」か「クッシング」か - kojitakenの日記(2014年6月20日)で、『シャーロック・ホームズの思い出』に少し触れたことがある。これを改題して「(1)」にして、本記事を「(2)」にしようかとも思ったが、前回の記事にはほとんど内容がないので止め、本記事を「(1)」にした。前回の記事にあえて付番するなら「(0)」といったところか。

以下本題に入る。

ホームズ探偵譚の第2短編集である『シャーロック・ホームズの思い出』(1893)の2番目に収められている《ボール箱》だが、19世紀末のイギリスの倫理観に照らして短編集に入れるのが憚られるとして初版からは外され、20年以上のちの1917年になって、ようやく同探偵譚の第4短編集『最後の挨拶』に収録された。但し、現在では今回取り上げる河出文庫版の他、角川文庫版と光文社文庫版も《ボール箱》をこの第2短編集に収録している。

《ボール箱》は、殺人を犯した犯人が、被害者から切り取った耳を恨みのある人間に送りつけるというストーリーだが、日常マスコミが報じるニュースにも出てきそうな話である*1。そんなものが「19世紀末のイギリスの倫理観に照らして」とはいえ、短編集に入れるのが憚られるほどのものだったのか、子どもの頃から疑問に思っていた。



だから、オックスフォード大学出版局版のコナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの思い出』の解説文における下記のくだりに説得力を感じるのである。

 《ボール箱》の物語としての主題は、殺人と不義密通の暗示である。この二つに対する嫌悪こそ、コナン・ドイルが《ボール箱》を『シャーロック・ホームズの思い出』から外した、真の理由だったのかもしれない。しかし物語の展開をみると、不義密通に関してははっきりとした記述はない。ジム・ブラウナーの妻であるメアリと、アレック・フェアベアンとの間に、不倫関係が存在していたことは確かである。しかしブラウナーの語り口は、二人の関係の詳細については慎重である。ここで《白銀号事件》でも、不倫関係の存在が明かされていることに留意すべきだろう。これらのことから、コナン・ドイルが《ボール箱》を『シャーロック・ホームズの思い出』から除外することを決めたのは、アルコール依存症によって引き起こされる暴力の問題に対する、家庭内の神経過敏さの影響があった、と結論づけたくなる。ドイルによるブラウナーの描写は、それ自体一つの物語の様相を呈している。

コナン・ドイル小林司東山あかね訳『シャーロック・ホームズの思い出』(河出文庫,2014)623-624頁=解説文の筆者はクリストファー・ローデン、高田寛訳)

解説文を書いたクリストファー・ローデンもまた慎重な書き方をしているが、アルコール依存症に陥っていたのはアーサー・コナン・ドイルの父チャールズである。ドイル家には下宿人がいたが、ドイルの母メアリは下の3人の子どもたちを引き連れて(コナン・ドイルはついて行っていない)、下宿人ブライアン・ウォーラーと一緒に家を出て、ウォーラーの故郷であるメイソンギルという名前の農村に移り住んだ。

この母メアリの行いをドイルは許さなかった、というのが、本書の訳者である精神科医小林司(故人)の解釈である。小林は、ホームズ物語のあらゆる局面に、母に対するドイルの怒りが反映されているとみる。以下、河出文庫版『シャーロック・ホームズの冒険』の「訳者あとがき」から引用する。

 第一は、「ホームズ物語」にメアリという女性が九人登場するが、全員が悪人か不幸である。あなたが作家になったときに、自分の実母の名前を作中の不儀の女につけるかどうかを考えてほしい。(中略)《緑柱石の宝石》のメアリは盗みの共犯者で、恋人とかけおちをしている。《ボール箱》のメアリは姦通の現場を夫に見つかって、棒で婚外恋愛の相手と一緒に殴り殺されたあげくに、ナイフで耳までそぎ落とされている。

コナン・ドイル小林司東山あかね訳『シャーロック・ホームズの冒険』(河出文庫,2014)723-724頁「訳者あとがき」より)

もっとも、9人の中には、

短篇第一作、《ボヘミアの醜聞》のワトスン家のそこつなメイドの名前もメアリだ。(同723頁)

というたわいのない例もある。また、『四つのサイン』に登場し、ワトスン医師と結婚する女性の名前もメアリだが、

《四つのサイン》のメアリ・モースタン嬢は、幼時に父を失って貧乏暮らしをしたあげく、巨万の遺産を一瞬で手に入れ損なうという不運の女性だ。母親の名を以上のような運命の女性につけたドイルは母親を憎んでいたとしか思えない。(同724頁)

と書く。訳者は明記していないが、激しい憎しみと激しい愛情が表裏一体であることは明らかで、だからこそドイルは自分と同じ職業のワトスンの結婚相手の名前をメアリにしたとも解釈されるが、精神科医である訳者はそんなことは言わずもがなであると思って書かなかったものであろうか。

以下、本書『シャーロック・ホームズの思い出』の「訳者あとがき」から引用する。

(前略)『思い出』の最初の三編(《白銀号事件》、《ボール箱》、《黄色い顔》)が、いずれも婚外恋愛を扱っているのは意味のないことではない。(後略)河出文庫版『思い出』671頁)

 例えば、《ボール箱》を見よう。冒頭に出てくる、ゴードン将軍は同性愛者であり、ビーチャーは姦通をして訴えられた男であって、この作品が姦通に関係する物語であることを初めから暗示している。そして、これは姦通を罰する物語であって、しかもその姦通をしたヒロインの名前は、ドイルの母と同じくメアリとなっている。つまり、「わたしの母メアリは姦通しました。それを私は罰したいのです」と言わんばかりである。作中のメアリは、婚外恋愛の相手と一緒にいるところを夫に発見されて、こん棒で殴り殺されたうえに、耳までそぎ落とされている。この作品には母の婚外恋愛に対するドイルの憎しみの激しさが滲み出ていると見るべきであろう。(同671-672頁)

ここで訳者は、クリストファー・ローデンがぼかして書いたことをはっきりと、強い表現で書いている。それでいて、《ボール箱》が『思い出』に(当初)収録されなかった理由については、

(前略)《ボール箱》の内容が著しく性的だということで、それがやっと公認されるような時代になってから発行された『最後の挨拶』(一九一七年)にそれをまわし、(後略)(同669頁)

と、因襲的な説明にとどめて、ローデンの解説よりかえって後退しているかに見えるのは、首尾一貫していないとの誹りを免れないだろう。『最後の挨拶』が出版された1917年におけるドイル家の出来事として特筆されるのは、母メアリがウォーラーの住むメイソンギルを離れて、長男アーサー・コナン・ドイルが住む近くに引っ越したことだ。このことは、ネット検索で下記ブログ記事を見つけて知った。

http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/6-99c8.html(2011年7月19日)より

 尊敬すべき医師として今やドイル家に居着いたウォラーは、チャールズを施設に入れるのが本人のためだとメアリを(おそらくはアーサーをも)説得したのかも知れない。1881年国勢調査では、チャールズはブレアーノ・ハウスというアルコール中毒療養所の18人の入所者の一人であるという記録が残っている。メアリ・ドイルはジョージ・スクウェア23番地の「家長」で、家族は「医学生」のアーサー(21歳)、ジョン・イネス(8歳)、ジェイン(アイダ)(6歳)、ブライアン(ドードー)(4歳)、それにアイルランド人のメイド、メアリ・キルパトリック(17歳)がいた。アネット、ロティ、コニーの三人の娘はポルトガルで家庭教師をしていた。
 1883年にメアリ・ドイルは下の三人の子供を連れてエディンバラを去り、メイソンギル・コテージに引っ越した。コテージという名前がついていたが実際はかなり広い家でウォラーの地所に建っていた。彼女はここに家賃は払わずに30年以上にわたって住み続けることになる。長男が一緒に住みましょうと誘うのを断り続けたのである。ここにいる間にメアリはローマ・カトリックの信仰を捨て、ウォラーの宗旨である英国国教会に属するようになった。彼の影響がどれほど大きかったかが分かる。1896年にウォラーはセント・アンドリューズ大学の教授の娘と結婚したが、メアリ・ドイルへの愛着は変わらなかった。メアリと食事をともにして妻を悩ませることが多かったが、自分の好きなカレー料理の作り方を知っているのはメアリだけだと言うのだった。
 ウォラーの結婚には子供がなく、おそらく愛もなかった。冷淡で傲岸であり――小作人には帽子をとって挨拶させたし子供は目障りだから自宅から見えるところに近づけなかった――彼は妻に対しては元の下宿の女将に対して示したような愛情を示さなかった。妻は地所にメアリ・ドイルが住み続けて夫と関係(どういう関係であっても)があるのを恨んだ。この奇妙な三角関係は1917年になってメアリがようやく考えを改めて今や有名人になっている長男の近くに引っ越すまで続いた。彼女が去ってからウォラーは衰えはじめ、毎晩眠りにつくまで(しばしば夜明けまで)妻に本を朗読させた。ウォラーは1932年にメイソンギルで死んだ。
(p.44からp.47まで)

このブログ記事が引用しているのは、Russell Mirror著 "The Adventures of Arthur Conan Doile" (2008)であるらしいことは、同じブログの2つ前のエントリ*2から推測できる。日本語訳はブログ主自身によるものと思われる。

ブログ主は書く。

 結局、小林司氏が正しかったということになる。しかし英語では「性的関係の証拠はないthere is no evidence of a sexual relationship」という書き方をするのですね。

クリストファー・ローデン氏がぼかした書き方をしたのはそのせいだったようだ。「疑わしきは罰せず」といったところだろうか。

ここまで書いたところで既に相当長くなったが、書いておきたいことはまだまだあるので、この記事はシリーズものにすることにした。最後に、忘れないうちに本書で気になった点について書いておく。

それは、本書には明らかに誤記と思われる箇所があることだ。
以下、《グロリア・スコット号》より。トレヴァー治安判事が息子ヴィクター・トレヴァーに話しかける場面である。

『おまえも知っているだろう、トレヴァー』と彼の息子の方を向いた。河出文庫版『思い出』202頁)

トレヴァー治安判事が息子に向かって「トレヴァー」と呼びかけるのはどう考えても(考えなくても)おかしい。そう思った私は、さる書店で、新潮文庫版、角川文庫版、創元推理文庫版、光文社文庫版に当たってみたが、当然のことながらいずれも「ヴィクター」と表記されていた。さらに、もとの英文が次のようになっていることも確認した*3

‘You know, Victor,’ turning to his son,

だから、普通に考えれば河出文庫版の誤表記なのだが、「トレヴァー」でググってみればわかる通り、「トレヴァー」というのは姓にもファーストネームにも用いられる名前である。もしかしたら雑誌発表時なり初版発行時なりに原文に誤表記があった可能性もあるかもしれないが、この仮説の真偽を突き止めることはできなかった。ただ、河出文庫版に何の註もついていないところを見ると、訳者の勘違いがそのまま誰にも気づかれずに校閲をすり抜けて本になってしまった可能性が一番ありそうに思える。河出文庫版はもともとハードカバーの全集だったが、全集版でどうなっているかは未確認。

もう一箇所。結論から先に言えばこれから挙げる例の方は誤表記ではなかった。

《曲がった男》における元戦士ヘンリー・ウッドの回顧談より。

ナンシーや昔の戦友たちに、杖にすがってチンパンジーのようによたよたと歩く姿を見られるよりは、あの愛すべきハリー・ウッドは堂々と死んでいったと思ってもらった方がましだったのです。(同353頁)

ん? この男は「ハリー」ではなく「ヘンリー」ではなかったのかと思い、各社の文庫版を調べると、新潮文庫、角川文庫、光文社文庫はいずれも「ヘンリー」になっていた。しかし、創元推理文庫版だけは「ハリー」と表記していた。そして英語版は下記*4

I had rather that Nancy and my old pals should think of Harry Wood as having died with a straight back, than see him living and crawling with a stick like a chimpanzee.

実を言えば、創元推理文庫版でも「ハリー」と表記されていたのを確認した時から、「ハリー」というのが「ヘンリー」の愛称であることは想像はついていたが、その通りだった。なんでも、イギリスのヘンリー王子

英語圏では通常公式の場・非公式の場を問わずPrince Harry(ハリー王子)という通称で呼ばれている

とのことなのだが、私は日本の皇室にさえ関心を持たず、ましてやイギリスの王室のことなど知ったこっちゃないという人間だから、全然知らなかったのだ。
日本人が書いた絵本に「ヘンリーとハリーの大冒険」というのがあるようだが、この絵本の作者も知らないに違いない。但し、HarryはHenryの他にHaroldの愛称にも使われるそうだから、「ヘンリーとハロルドの大冒険」と解釈すれば、あながち間違いとも言えない。

しかし、残念ながら、ヘンリーという名前から私が真っ先に思い出すのは、あのユダヤ陰謀論者にしてネオナチ同然の政治ブロガーとして一部では知られている「ヘンリー・オーツ」なのである。あのクソジジイの愛称が「ハリー」かと思うとぞっとする今日この頃なのであった。

*1:たとえばつい最近にも、殺した人を「人形」として宅配便に運送させた日系ブラジル人のニュースがあった。

*2:http://sanjuro.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/4-0f55.html

*3:http://www.freeenglish.jp/holmes/h/glor-3-t.html

*4:http://www.freeenglish.jp/holmes/sa/croo-10-t.html