kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「社会的包摂」と「新しい公共」と民主党と

菊池桃子と「ソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)」と「一億総活躍(国家総動員)」と - kojitakenの日記 のコメント欄より。

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20151031/1446250621#c1446291903

id:murharnstkt 2015/10/31 20:45
菊池氏の資質も本意も疑うつもりはないが、政権側に転ぶ転ばないという以前に、政治的なメカニズムからどう考えても、これから換骨奪胎されるのは「社会的包摂」の概念のほうだと思う。
ikeike443氏やyuiseki氏のように受けとめる人も現れていることからも、言わば政府は「社会的包摂」という言葉が惹き起こす良いイメージだけを取り込むことに、すでに成功していると言えるだろう。これは笑い事ではない。
道徳教育強化・自民党憲法改正草案とも相俟って、再分配政策に替わるものとして、自助・互助・共助としての「社会的包摂」がますます前面に押し出されてくるだろう。再分配とセットでなければ社会的包摂など機能しないのは、イギリスの例を見ても明らかなのだが…。
今後リベラル派は「社会的包摂」という言葉を使うのに慎重にならざるを得ない。


上記コメントのうち、

自助・互助・共助としての「社会的包摂」

というくだりで思い出したのだが、実は菊池桃子氏の発言を報じた産経新聞記事*1についた「はてなブックマーク*2に、気になるコメントがあった。

Barak ソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)は「新しい公共」と一緒に民主党政権が結構言ってたんですけどね……(他の政策の所為でご覧の有り様ですが)


Barak氏の指摘通り、今も民主党は「社会的包摂」を「新しい公共」とセットにして取り組んでいる。「社会的包摂 新しい公共」を検索語にしてGoogle検索をかけてみると、民主党に関する記事が多数引っかかることがすぐに確認されよう。例えば昨年(2014年)10月15日に、民主党は「新しい公共・社会的包摂総合調査会第1回総会」を開いている(下記リンク先参照)。
https://www.dpj.or.jp/article/105035

この「社会的包摂」とセットにされている「新しい公共」は、鳩山由紀夫が力を入れていた政策だが、私はこれを「『小さな政府』を目指す新自由主義経済政策」の体の良い言い換えであるとしか考えていない。この日記で取り上げた頻度は少ないし、ごく目立たない形ではあったが、批判の矢を放ったこともある。

一番古いものとしては、民主党野田(「野ダメ」)政権時代に書いた下記記事がある。


上記記事に私は

特にひところ話題になったのは、3月28日付の朝日新聞に掲載された尼崎市長にして「みどりの未来」の元共同代表である稲村和美氏のインタビュー記事で、稲村氏は明らかに橋下を肯定的に評価していた。

と書いたが、文末に下記の脚注をつけていた。これは、上記朝日新聞掲載の稲村市長のインタビューに関して述べたものだ。

稲村市長が橋下を絶賛していた、として論難する向きもあるが、そこまでひどくはなかったのではないかとは思う。個人的にいえば、それよりも私が気になったのは、稲村氏が「新しい公共」の支持者だと明言していたことである。これは鳩山由紀夫が大好きな言葉で、2009年の「民主党マニフェスト」にもうたわれているが、(特に民主党政権下においては)容易に新自由主義に転化してしまう性質のものであって、軽々しくこの言葉を用いる人を、私はどうしても信頼できない。


また、今野晴貴『ブラック企業ビジネス』(朝日新書)を読む - kojitakenの日記(2013年12月21日)では、記事で取り上げた今野晴貴氏の著書『ブラック企業ビジネス』(朝日新書,2013)のあとがきを引用しながら、下記のように書いた。

民主党政権も、自民党政権規制緩和政策を止めるどころか、自民党と同じような思想に基づく政治を行い、流れを加速させた。本書の「あとがき」より引用する。

(前略)昨今、「市場に任せさえすれば、何事もうまくいく」という考えや、「ビジネスこそが社会問題を解決できる」という考え方が広がっている。民主党政権時代の「新しい公共」という政策コンセプトも、この動きを加速させた。「社会的起業」や「ソーシャルビジネス」という言葉は、今では当たり前に使われている。国家に解決できない社会の諸問題を、民間企業や団体が解決すべきというのである。
(中略)
だが、私はそうした「民間のチャレンジ」と「ビジネス」との間には似て非なる物があると思う。本書で繰り返し見てきたように、民間団体の場合には行政のような硬直性は免れやすいものの、事業の目的が「報酬」になってしまうと、ともすれば目的を見失い、事業そのものの社会的意義を掘り崩してしまう。その最悪の形態がブラック企業に加担する「ブラック企業ビジネス」であった。

(本書225-226頁)


さらに、「立憲主義」あれこれ(1) - kojitakenの日記(2015年7月7日)では、「きまぐれな日々」にいただいた杉山真大さんのコメントを引用しているが、その中に「新しい公共」への批判が含まれている。

一方、國分氏への異論を唱えるのはコメント欄にコメントして下さった杉山真大さん。太字や赤字は元のコメントに準じる。(引用文中の赤字ボールドは引用者による=2015.10.31引用者註)

http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1398.html#comment18919

「上から目線」に就いての問題って、1990年代頃の「参加民主主義」のムーブメントに乗って出てきた感があると思いますね。官僚や政治家に任せたら業界と癒着する・専門家と称する者だって連中とつるんでいるとか批判されたりして(実際薬害エイズ事件とかそういう案件も現に起きていた訳ですが)、それで"さらば「お任せ民主主義」"とばかりに"目覚めた"市民が行動しよう・自分で出来ることは自分でやろうって風潮を生んだ訳です。しかも、それが所謂民営化とか"小さな政府"などのネオリベとも巧く適合したりして、"自己責任"とかが声高に言われたりもしましたし、更には"新しい公共"とかいうのまで出てきた訳ですよ(イギリス辺りだったら保守派の主張だったりするのに!)。

(後略)


つまり、この件の先駆者たる民主党は、既に「社会的包摂」を「新しい公共」と組み合わせて、既に「自助・互助・共助としての『社会的包摂』」を「前面に押し出」していたといえる。それならば、民主党よりもさらに新自由主義志向の強い自民党が、民主党の方向性をそっくりいただき、真面目に「社会体包摂」に取り組んでいる菊池桃子氏を取り込んで、来年の参議院選挙の目玉候補に担ぐことも大いにあり得る。

菊池桃子は偉いなあ」などと拍手喝采して喜んでいたら、来年の参院選で痛い目に遭うばかりか、菊池氏や有権者が踏み台にされて、ますます日本の福祉や社会保障が痩せ細る恐れがある。

今後の経過を警戒しながらウォッチする必要がありそうだ。