kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

湯浅誠の朝日新聞紙面批評における「1億総活躍社会=ソーシャル・インクルージョン」論は最低だ。湯浅はもはや「強く批判されるべき対象」になった。湯浅は来年の参院選に自民党公認で立候補するのではないか

昨日(11/10)は早く仕事に出なければならなかったので日記を書けなかったのだが、昨日の朝日新聞オピニオン面に掲載された湯浅誠の紙面批評は最低だった。読んで怒り心頭に発し、これを批判する文章をすぐ書けないことに苛立ってしまった*1。湯浅の紙面批評の主旨は、安倍晋三が掲げる「1億総活躍社会」とは「ソーシャル・インクルージョン(社会的包摂)」のことだ。それを腐してばかりいる朝日はいったい何をやっているのか、という朝日批判だ。

湯浅が書いた文章を引用するのも腹が立つので、下記Twitterに貼り付けられた画像を参照されたい(字が小さいので読みにくいが)。なお、当該Twitterは下記のように、湯浅を痛烈に批判している。

https://twitter.com/cnvvlty/status/663860708581515264

tomo san
@cnvvlty

湯浅誠がアベ政権のキャッチフレーズ「一億総活躍社会」を絶賛!( ̄▽ ̄;) 「その程度」なのは、君、朝日新聞紙面審議会委員・湯浅誠ではなかろうか。開沼博もそうだが、東京大学は奇妙な「知性」を生み出すブラック大学なのか。

15:28 - 2015年11月9日


また別の方のTwitterは、より具体的な問題点を指摘して痛烈だ。

https://twitter.com/border1968/status/663874853313712129

Naoyuki Matsuda
@border1968

湯浅さん自身、少なくとも3年前のこの段階で(まで)「包摂」を評価する一方でその両義性、新自由主義との親和性、限界や課題を指摘している。いまの情勢下でこのあたりをどう考えておられるのか、伺ってみたいな。http://yuasamakoto.blogspot.jp/2012/03/blog-post_07.html

16:24 - 2015年11月9日


そう、湯浅はかつてこんなことを書いていたのだ。

湯浅誠からのお知らせ(ホームページを開設しましたので、今後はこちらを御覧ください→ http://yuasamakoto.org ): 【お知らせ】内閣府参与辞任について(19:30改訂、確定版)(2012年3月7日)より

(前略)
 鳩山元総理が「みんなに居場所と出番を」と表現した「社会的包摂(Social Inclusion)」は、1990年代以降の社会の劇的な変容の中で重要性を増していますが、政府としての取組は始まったばかりです。社会的包摂は、個々の政策に意味付与する理念であり、ある一つの政策があれば社会的包摂、なければ社会的包摂ではない、というものではありませんから、「何を」というのを個別政策として具体的に名指すことはできません。イメージとしては、現状において社会参加・政治参加に支障のあるさまざまな立場の人たちにとって(この状態を「社会的排除」と呼ぶ)、それが可能となるような条件づくりを多方面(給付やサービス、まちづくりなど)で行い、社会自身がユニバーサル(普遍的)かつ多様性のある状態に変容していくことを後押しする理念だと言えます。

 イギリスではブレア政権時にこの理念が強調され、推進部局として「社会的排除局」が設置されました。そこでは各省の個別政策で社会的包摂理念に沿うものをかき集めて「社会的包摂政策」としてまとめあげ、それを発表することで、さらなる推進を促していったそうです。同時に、ホームレス問題や子どもの貧困問題といった社会的排除の象徴的なテーマを順番に取り上げて、数年単位でそれらの課題に予算を重点配分していきました。その成果が、コネクションズやチルドレン・トラストなどの子ども若者支援体制の充実と2010年に制定された「子どもの貧困対策法」でした。首相のリーダーシップで社会的包摂理念を政府全体として盛り上げつつ、特定の課題に対する集中的取組を進めました。

 私が関わった社会的包摂政策は、社会的排除を受けた人々に生活支援や就労支援(生活・就労一体型支援)を行い、生活再建・就労実現を目的とするものでした。それは「排除を生み出してしまうような社会」の本格的な組み換えを伴うものではなく、組み換えは生活・就労一体型支援を行う中で見えてくる諸課題を社会的・政治的に提言することで、徐々に雰囲気を醸成していくべきもの、と位置づけられています。この「控えめ」なスタンスが、「社会的包摂なんていう言葉は、ほとんど誰も知らない」という日本の現状を反映していることは言うまでもありません。

 日本とイギリスの歴史的経緯には大きく異なる点があるし、社会的包摂理念を日本で強めれば、いまの諸課題がきれいに解決するなどということはありません。イギリスにおいても、福祉国家の挫折とサッチャリズムの後に出てきたブレア政権の「第三の道」路線には従来の左右両派からの批判があります。社会的包摂理念は新自由主義と親和的な側面もあり福祉国家論者の中には批判的な人も少なくありません。その意味で、社会的包摂の理念や政策には、あらゆる社会構想と同じく、限界も課題もあります。

 ただ、男性正社員片働きモデルを固定化する日本型雇用と、高齢と障害のみを社会保障の対象として、子育て・教育・住宅については高い私費負担を前提にする日本型福祉社会とのセットが支配的で、そこから排除された人々を自己責任論という名の社会的無責任論で片付けてきた日本社会において、社会的包摂理念のもつ意義は大きいと考えています。これからの超少子高齢化・人口減少社会に対応するためにこの理念をより強く打ち出し、より広く社会に浸透させる努力を積み重ねることは政府の責務であり、私としてはそのことを現政権に要望しておきたいと思います。


この文章を書いた2012年の野田政権当時から「鳩山由紀夫シンパ」臭のあった湯浅は指摘していないが、鳩山由紀夫自身が「社会的包摂」と(私が新自由主義政策の言い換えに過ぎないとみなしている)「新しい公共」とを組み合わせた張本人だったことからもわかるように、「社会的包摂」の新自由主義化の懸念は民主党政権時代からあった。ましてや自民党は、「自助・自立を基本に共助・公助を付加する」などと平然とほざく政党だ。それを考えると、私も前記つぶやきの主と同様に、

「その程度」なのは、君、朝日新聞紙面審議会委員・湯浅誠ではなかろうか。

と言いたくなる。

何より、先日この日記にいただいた下記のコメントが、早くも現実となってしまった。このことに強い怒りを禁じ得ない。

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20151031/1446250621#c1446291903

id:murharnstkt 2015/10/31 20:45
菊池氏の資質も本意も疑うつもりはないが、政権側に転ぶ転ばないという以前に、政治的なメカニズムからどう考えても、これから換骨奪胎されるのは「社会的包摂」の概念のほうだと思う。
ikeike443氏やyuiseki氏のように受けとめる人も現れていることからも、言わば政府は「社会的包摂」という言葉が惹き起こす良いイメージだけを取り込むことに、すでに成功していると言えるだろう。これは笑い事ではない。
道徳教育強化・自民党憲法改正草案とも相俟って、再分配政策に替わるものとして、自助・互助・共助としての「社会的包摂」がますます前面に押し出されてくるだろう。再分配とセットでなければ社会的包摂など機能しないのは、イギリスの例を見ても明らかなのだが…。
今後リベラル派は「社会的包摂」という言葉を使うのに慎重にならざるを得ない。


来年の参院選に、湯浅誠菊池桃子とともに自民党公認で立候補したとしても、もはや私は驚かない。

*1:昨日の朝日では、他に文化・文芸論の「新9条」特集にも頭に来た。