kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

安倍一強「忖度と崩壊の時代」の諸相(16)

昨日(4/22)いただいた鍵コメ情報も多量だった。今回の抜粋記事の中では、徐京植(ソ・ギョンシク)東京経済大学教授のハンギョレ新聞への寄稿の2本が読ませる。下記の引用記事はいずれも抜粋であって全文引用ではないので、読者の皆さまには是非リンク先に飛んで原文をお読みいただきたいと強く希望する。2本目の寄稿で徐教授が引用している、2012年にマーガレット・サッチャーが死んだ時のケン・ローチの弔辞は、あれで良いのだ、というより敵への弔辞はこのようでなければならないという良いお手本だ。死んだからっていちいち「ご冥福をお祈りします」などと書いて故人の業績を称えるなどという偽善的な文章を書く方が間違っている。第一、そんな白々しい弔辞は敵だってあの世で喜ばず、鼻で笑うだけだろう。わかったかね、id:gamatoくんよ(笑)

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170421-00000079-mai-pol(毎日)

北朝鮮ミサイル>着弾想定の住民避難訓練 都道府県に要請


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170422-00027140-hankyoreh-krハンギョレ新聞)

[社説]度を超した日本の“朝鮮半島危機説”煽り立て


https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170226-00026595-hankyoreh-krハンギョレ新聞=徐京植(ソギョンシク)東京経済大学教授の寄稿)

[寄稿]悪夢の時代

 ドナルド・トランプは選挙戦のキャンペーン中、障害のために身体が不自由なジャーナリストの動作をまねてみせて、あざ笑った。のちに、女優メリル・ストリープが1月8日のゴールデン・グローブ賞授賞式でのスピーチで、そのことを批判したのはさすがに立派だった。ストリープは述べた。「こうした衝動的な侮辱を公の舞台で権力のある人物が演じれば、それはすべての人々の生活に浸透します。なぜなら他の人々も同じことをしていいという、ある種の許可証を与えるからです。軽蔑は軽蔑を招き、暴力は暴力を駆り立てます」

 以前の私の常識では、身障者を嘲笑したこの一事のみをもってしても、トランプが辞任に追い込まれたとしても不思議はなかった。しかし、トランプはむしろ、ストリープを「ハリウッドでもっとも過大評価されている女優」とののしり、「ヒラリー・クリントンの『召使い』」とやゆしたのである。

 このやりとりを見物して、大多数ではないにせよ、かなりの数の一般人が、たんに面白がるか、むしろ、トランプ支持に傾いたようである。日本の「中立ヅラ」をした「知識人」の中にも、ストリープのような「エリート」の、「知的」な語りこそが「大衆」の反発を買うのだ、と解説してみせて得々としている者がいる。

 私は、このような「解説」を軽蔑する。
 下品で非人間的な言葉は、誰の発したものであれ、きびしく拒絶されなければならない。「エリート対大衆」という構図は、浅薄で悪意なつくり物である。ここには、「大衆」は知的でなく、自分の衝動的な欲望にのみ忠実であり、「エリート」たちの「知的」批判は現実政治にとって無力である、という(おそらく意図的な)偏見が仕掛けられている。この仕掛けはつねに権力者に有利だ。それにノセられてはならない。
 ここで「大衆」といわれているのは、人種的、性的差別意識を内面化した白人層のことである。「大衆」の中には進歩的な白人層もいるし、もちろん排斥の標的とされている移民・難民・少数民族・女性・障害者などがいるのである。

 実際にはいわゆる「エリート」の中に唾棄すべき差別者やファシストもいるように、いわゆる「大衆」の中に「寛容」「連帯」「共感」といった美徳を自然に実践している多くの人々がいる。分断線は「エリート」と「大衆」の間に存在するのではない。「寛容」と「不寛容」、「平等」と「差別」、「正義」と「不義」の間にあるのだ。

ニューヨーク近代美術館(MOMA)が、トランプ大統領に対する抗議の意思を込めて、入国禁止措置を受けた国々の芸術家の作品を展示しているという。「歓迎と自由という究極の価値が、この美術館と米国にとって不可欠であることをはっきりさせるために展示した」と解説文に記されている。

 MOMAといえば、ピカソの「ゲルニカ」が1939年から1981年まで「亡命」していたことで有名な美術館である。ピカソフランコ派の内乱に抗議し、1937年パリ万博のスペイン共和国政府館のためにこの大作を制作した。内戦は結局共和国側の敗北に終わり、「ゲルニカ」はヨーロッパ各国を巡回したのち、アメリカに渡ってMOMAに展示された。「スペインの闘争は民衆と自由に対する反動への戦いである。芸術家としての私の全生涯は、この反動と芸術の死に抗する絶えざる闘争以外の何ものでもない」そう宣言したピカソは「スペインに共和国が戻るまで」この作品のスペイン返還を拒否した。

 フランコ軍を支援するナチ空軍がバスク地方の小さな村ゲルニカを無差別爆撃した1937年、アジアでは日中戦争が始まり南京大虐殺が繰り広げられた。「ゲルニカ」以後80年、人類は第二次世界大戦ホロコースト、さらに幾多の戦争を経験した。「ゲルニカ」は教科書にこそ載っているが、それを描いたピカソの精神、その絵を泣きながら見つめた人々の心に、いまどれだけの人々が共感しているだろうか。

 芸術に戦争を抑止する力があるか、悪しき権力を打倒する力はあるか、疑問である。しかし、それは、いつどんな悪夢の時代にも寛容、連帯、共感を求める人間精神が生きていることを教えてくれる。

 トランプとその支持者(たとえば橋下元大阪市長)なら「ゲルニカ」を落書きと罵るだろう。芸術など「エリート」のゼイタク品だとうそぶくだろう。「大衆」はもっとわかりやすい娯楽を求めていると。この考えこそが大衆蔑視であり、反知性のきわみだ。かれらの言動を見て私は、闘技場でキリスト教徒(当時の被差別マイノリティ)を猛獣に食わせ、ローマ市民たちの供した古代ローマの支配者たちを想う。

 芸術にはまだなすべき仕事が残っている。「ゲルニカ」はまだ眠れない。


http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/27135.htmlハンギョレ新聞=徐京植(ソギョンシク)東京経済大学教授の寄稿)

[寄稿]悪夢の時代に見る映画

案の定、アメリカ国内で彼の支持率は上昇した。アメリカはその後、アフガニスタンで「核兵器に次ぐ破壊兵器」とされる巨大爆弾(MOAB)を使用した。これは北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)への威嚇行為であるとみられている。空母が朝鮮半島近海に向かっており、日本やグアムに存在する米軍基地は臨戦態勢をとっている。「北」は必要とあらば「超強硬手段」で応じると言明している。日本の安倍総理は誰よりも率先して、そんなトランプ大統領の「決意」を支持すると表明した。自らの妻も巻き込んだ疑獄事件の追及を受け、彼の支持率はこのところ下がり始めている。この状況を強行突破する好機と見て、戦争気分を煽っているのであろう。

 「悪夢の時代」の特徴は、理性が機能せず、対話が成立しない、というところにある。合理的に考えれば、あるいは過去の経験則によれば、起こりえないだろうと思われたことが起こってしまうということだ。最悪のシナリオはいうまでもなく朝鮮半島における本格的な戦争状態の勃発だ。「そうはならないだろう」という楽観には確たる根拠がない。幸いそこまで至らなかった場合でも、軍事的緊張状態の継続は平和と民主主義の機運を大いに損ねる。韓国では大統領選挙を控え、前大統領の罷免まで勝ち取った成果が霧散させられてしまう恐れは強い。日本では排外主義がいっそう高まり、全体主義が急速に強化されるだろう。その過程で反対派や少数者が理不尽な犠牲を強いられることになる。

 百田尚樹(ひゃくた・なおき)という作家がいる。安倍総理と個人的に親しく、その肝いりで2013年から1期、NHK経営委員を務めた。この作家が最近、みずからのツイッターでこんなことを公言した。「もし北朝鮮のミサイルで私の家族が死に私が生き残ったなら、私はテロ組織を作って日本国内の敵を潰しに行く」。このツイートに対して、多くの賛辞が寄せられているようだ。日本国民は1923年関東大震災当時の虐殺事件から何も学ばず、ナチスによるホロコーストカンボジアルワンダでの大虐殺事件からも何も学ばなかった。そういう社会で生きていくほかない少数者はいまどんな心境でいるか。こんなツイートを流す「作家」やそれに「いいね」と賛辞を送る人々が、どこまで本気なのか、たんなる遊び気分なのか、わからない。ただ確実に言えることは、それが確実に少数者の精神を蝕み、生命を脅かしているということだ。

 こんな悪夢の時代に、どんな映画を観るべきか。ある日、都心に出かけて、ケン・ローチ監督の最新作「わたしは、ダニエル・ブレイク」を観た。この映画は昨年の第69回カンヌ国際映画祭パルムドール(最高賞)に選ばれた。平日の午後だったが、映画館は満席だった。あとで知ったことだが、この種の映画としては「大健闘」といえるヒットなのだそうだ。

 2012年4月、サッチャー首相が世を去ったとき、ケン・ローチは新聞に「弔辞」を寄せた(The Guardian.2013.4.8)。「マーガレット・サッチャーは、現代において、もっとも分断と破壊を引き起こした首相でした。(中略)今日、私たちが置かれている悲惨な状態は、彼女が始めた政策によるものです。(中略)彼女が、マンデラをテロリストと呼び、虐待者であり殺人者であるピノチェトをお茶に招いていたことを想い起して下さい。私たちはどのように彼女を弔うべきなのでしょうか?彼女の葬儀を民営化しましょう。競争入札にかけて、最安値を示した業者に落札させるのです。きっと彼女も、それを望んでいたことでしょう。」