kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

羽田孜死去

某人が書いた「前原=共闘否定、枝野=共闘推進 という『常識』を検証する」と題された空しい文章を眺めながら、ああ、人間(関係)がわかってない人だなあと思った。木を見て森を見ないとでもいうべきかな。コンテキスト(文脈)を無視してテキストの字面だけを見てるんだよ。

前原と枝野それぞれの主義主張は、本来それほど離れていないというのはその通りだろうが、政治家は取り巻きの意向を無視しては動けない。前原が口を開くたびに「野党共闘」の見直しだとか小池ファ★ストへのすり寄りだのを口にするのは、それを言わないと許さない勢力を応援団に控えているからだ。同じ事情は昨年の民進党代表選での蓮舫にも当てはまっていた。蓮舫の応援団にはたとえば細野豪志がいた。蓮舫は実際に代表になると、民進党に働く惰性力の作用によって一定程度「野党共闘」の継続に傾かざるを得なかったが、蓮舫がその方向に動くと民進党から離党者が出るようになった。長島昭久細野豪志、それに小沢一派出身の木内孝胤らだ。

民進党新代表に前原誠司が選ばれることは間違いないが、前原は当選するや「野党共闘」継続の惰性力と、共産党との協力打ち切りと小池ファ★ストへのすり寄りを求める民進党内右派の圧力という相反する方向性を持った力によって、身が引き裂かれる思いで党運営に苦しむことは間違いない。小沢一郎が外野席で無責任に「前原が勝っても枝野が勝っても野党共闘は続く」と言うようにはならない(この男の言い分に未だに耳を傾けている人間が多数いるうちは、「リベラル」が活路を見いだすことはないと私は確信している)。前原が「野党共闘」を継続しようとすると、右から離党して小池ファ★ストへと流れる人間が続出するだろうし、野党共闘を解消すれば今度は勝てる選挙区でも勝てなくなる上、野党共闘から離脱しいたからといって小池ファ★ストがおいそれと民進党との合流などしてくれないことは絶対に間違いない。何度も書いている通り、小池ファの中核の人間(若狭、細野、長島ら)は小が大を呑み込んでイニシアチブを取らなければならないのだから、対等合併程度では小池ファにとってのメリットは何もない。だから、小池ファは都議選前と同様に自分たちに仲間に加わりたければ民進党を離党せよと迫るはずであって、現に長島や細野や木内はそういう行動をとった(若狭も自民党を離党した)。

例の小池百合子関東大震災時の朝鮮人虐殺に追悼文を送らない一件も、民進党右派人士の心理をくすぐる一策としての側面もあるのではないかと勘繰りたくなる。「私たちはこんなに右寄りの、それこそ自民党より右の極右政党なんですよ、民進党に同志たちよいらっしゃい」というメッセージの意味合いだ。

前原は、仮に国政選挙時に野党共闘の継続に踏み切らざるを得ないと決断する場合であっても、枝野が代表になったと仮定した場合と比較して、その決断が遅れて民進党の選挙結果に悪影響をもたらすであろうことは疑う余地がない。その党内支持基盤からいっても、安倍晋三にとっては前原の選出は万々歳に違いなかろうが、民進党は国会議員、地方議員、党員・サポーターのいずれをとっても前原が優勢という性格の政党であることがはっきりしたので、こんな政党にないものねだりをしても仕方がなさそうだ。

以上は実は前振り。実は羽田孜死去について書こうと思ってこんな文章になった理由は、故人について思い出したのは「小沢一郎に担がれた、○くて××な御輿だったよなあ」という印象だけだったからだ。取り巻きだった小沢一郎とその一派に振り回された世襲政治家、それが羽田孜だろう。

下記は毎日新聞の訃報記事。

訃報:非自民連立政権、元首相の羽田孜さん82歳 - 毎日新聞

訃報
非自民連立政権、元首相の羽田孜さん82歳
毎日新聞 2017年8月28日 13時23分(最終更新 8月28日 14時05分)

 非自民連立政権で1994年に首相を務めた羽田孜(はた・つとむ)さんが28日午前7時6分に死去した。82歳だった。

 自民党政権宮沢喜一内閣で蔵相、非自民の細川護熙内閣の副総理兼外相を務め、細川氏の首相辞任後の94年4月に首相に就いた。ただ、政権発足時に旧社会党が連立離脱して少数与党となり、自民党の内閣不信任案提出を受けて総辞職。首相在任は64日間で、現憲法下では最短だった。

 35年に東京都内で元衆院議員の羽田武嗣郎氏の長男として生まれた。58年に成城大卒業後、小田急バスに入社。69年に父の病気引退で小田急バス課長から衆院旧長野2区に立候補して初当選し、14回連続で当選した。

 初当選後は自民党田中派に所属。85年に田中角栄元首相を激怒させた創政会(旧竹下派)旗揚げに加わり、橋本龍太郎元首相、小渕恵三元首相、小沢一郎自由党共同代表らとともに「竹下派七奉行」と呼ばれた。

 92年には竹下登元首相ともたもとを分かち羽田派を結成。小沢氏と連携して政治改革推進派のリーダー格となった。93年6月の宮沢内閣への内閣不信任決議案に賛成して自民党を離党。新生党を結成して初代党首となり、93年衆院選自民党過半数割れに追い込んだ。

 下野後の94年12月の新進党結成に参加したが、96年12月には小沢氏とも別れて太陽党を旗揚げ。98年1月に国民の声、太陽党、フロムファイブの3党で民政党を作り、98年4月結成の旧民主党に参加した。同党最高顧問を務め、2009年衆院選での政権交代を見届け、12年衆院選に立候補せずに政界を引退した。

毎日の記事には「老衰」という言葉は出てこない(報ステでは老衰と言っていたし、朝日新聞記事*1には「老衰のため自宅で死去した」とある)。

上記の経歴のうち、小沢と袂を分かってからの羽田の印象はきわめて薄い。「2009年衆院選での政権交代を見届け」という表現は、報ステだったかNews23だったかでも用いられたが、もうその頃には病を得ていたこともあってすっかり「過去の人」のイメージだった。私など最初にニュースを聞いた時、あれ、羽田孜って民主党にいたんだっけ、と意外に思ったほどだ。羽田が民主党にいたことすら忘れていた。私にとって羽田は自民党新生党新進党のイメージしかなかった。羽田内閣といえば、できてからあっという間に潰れてしまった泡沫内閣という印象。そのあっけなさは宇野宗佑といい勝負だった。小沢に担がれた「○くて××な御輿」といえば、他に海部俊樹なども思い出されるが、「軽さ」において羽田と海部はいい勝負だろう。羽田が総理大臣になる前は、マスコミによって、あたかももっと大物政治家であるかのようなイメージが形成されていたが(私も幾分かはそれに騙されていた)、それが虚像に過ぎなかったことが早期退陣とその後の小沢との訣別以来、この人が全く生彩を欠いたことから明らかになった。羽田は「小沢がいなけりゃただの人」だったのだ。

まあ、世襲政治家などしょせんこの程度の人が多いのだろう。実力で政治家になったわけでもないのだし。