kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

野党は「『右も左もない』野党共闘」という野合の思想と訣別せよ

広原盛昭のつれづれ日記」は、いつも感心しながら読んでいるのだが、最新の記事にはちょっと首を傾げるところがあった。

民進党解体の〝戦犯〟前原氏が「後悔ない」「引退考えない」を公言する無責任さ、厚顔無恥さ、立憲民主を軸とした新野党共闘は成立するか(9)、改憲派「3分の2」時代を迎えて(その96) - 広原盛明のつれづれ日記(2017年12月27日)より

 不愉快極まる1年だった。この1年は、安倍首相夫妻の森友・加計疑惑などに象徴される国政私物化の横行や居直り、財務省国交省官僚の公文書破棄による事実隠蔽など「安倍1強体制」の下で権力腐敗が加速度的に進行した1年だった。にもかかわらず、政権に返り咲いた安倍首相は2017年12月26日で丸5年を迎えたという。これだけの腐臭をまき散らしながら安倍内閣が長期政権として命脈を保っているのは、ひとえに自公与党が選挙戦で勝利し、野党がその一角も崩せない状態が続いているためだ。

 ところが、これまで不可能だと思われていた安倍政権に対する野党共闘が、共産の自共対決路線(単独路線)から野党共闘路線(協力路線)への転換によって2016年参院選の選挙区(1人区)で成立し、2017年総選挙ではその延長線上に野党共闘が本格展開を見る段になっていた。その矢先、前原前民進党代表の手によって野党第1党の民進党が解体され、野党共闘は大きく後退した。漁夫の利を占めたのは安倍政権だった。

 前原氏が、神津連合会長の後押しで小池東京都知事とタッグを組み、小池新党を立ち上げるために民進党を解体するという前代未聞の政治的策謀(野党再編)は、文字通り「国家的謀略」とも言える大事件だった。前原氏個人に関して言えば、これほど大それたシナリオを独りで組み立てられるほどのキャパシティもなければ、決断力もない。そこにはおそらく、松下政経塾の人脈に連なる国際的ネットワークの後押しや、首相官邸とのパイプラインなどとも絡んだ見えない支援組織が介在し、その代表役として神津連合会長が動いたと考えるのが自然だろう。いまや、前原氏は安倍長期政権を支える最大の功労者であり、安倍首相の?影の盟友?と言ってもいい存在なのだ。(後略)

(「広原盛明のつれづれ日記」2017年12月27日付記事より)


違和感を持ったのは、引用文中赤字ボールドにした部分だ。

その直前に青字ボールドにした前原誠司評はその通りだと思う。しかし「松下政経塾の人脈に連なる国際的ネットワークの後押しや、首相官邸とのパイプライン」とはいかにも陰謀論臭が強過ぎる。そんなことじゃない、もっと「身から出た錆」的な敗因があるんじゃないか。そう思った。

今回の衆院選での「野党共闘」の破綻と敗北は、国際的ネットワークや前原と官邸とのパイプラインという「巨大な力」に屈したのではなく、「野党共闘」それ自体に内在する問題点が露呈したとみるべきではないか。

私のみるところ、敗因は「小池百合子を利用して勝とうとした」ことだ。さらにいえば、「小池百合子から共産党までが組めば与党に勝てる」とする考え方それ自体にあった。これは固有名詞を挙げればいうまでもなく小沢一郎の思想だが、そんなものは2012年の衆院選における日本未来の党の惨敗で既に破綻が実証されている。小沢は2012年当時橋下徹と組もうとしたが、水面下では石原慎太郎にも接触していた(小沢の石原へのアプローチは、岸井成格ナベツネと思われる人物から得た情報として佐高信との対談本で2013年に暴露していた)。

2012年当時は小沢の「共闘」構想に共産党は入っていなかったが、2015年にSEALDsを介して小沢と共産党との共闘が成立した。もちろんSEALDsは言われるままに行動しただけのパシリに過ぎない。当時SEALDsと共産党を厳しく批判した人に、辺見庸がいる。

あまり小沢小沢とばかり書いても(なにしろ私には「小沢信者」に対する個人的な怨恨があるのでどうしてもそうなりがちなのだが)論点が逸れてしまうので本論に戻ると、要するに「右も左もない」野合で自公政権を倒すという安易な思想が、共産党やその支持者に至るまで広く行き渡ってしまったことが最大の敗因だった。このように私は考えている。

こうした「野合の思想」に違和感を持つ人は、共産党支持層にも少なくなかろうと想像するが、無党派のリベラル層にはさらに多かった。だからこそ小池百合子希望の党の「チャーターメンバー」から「排除」された人たちが作った立憲民主党に支持が集まり、私が立党直後には獲得議席ゼロと予想していた同党が55議席を獲得したのだ。

もともと民主党というのは、極論すれば政権交代だけを目的とする野合政党だった。その民主党に2003年に加わった小沢一郎の「保守二大政党制」の理想は、今にして思えば民主党とはベストマッチングだった。だから「右も左もない」野党共闘は、以前から広く唱えられていた。

たとえば私が属していたブロガーのムラ社会でも、2006年には既に「野党共闘」がキャッチフレーズになっていたし(当時それを批判していたのは共産党支持系ブログだった)、当時「野党共闘」系のブログがしきりに持ち上げていたのは、2005年の小泉郵政選挙で小泉に刺客を送られた極右政治家の平沼赳夫城内実だった。

しかし2009年に民主党を中心とした政権が成立すると、「政権交代」という目的を達成した民主党の政治家たちは直ちに政権内部での権力抗争を始めた。特に2011年の東日本大震災・東電原発事故の直後にさえ平気で自民党と組んで菅政権打倒に熱中していたのが小沢・鳩山一派であって、以後彼らの政党あるいは派閥が有権者から強い支持を受けることはなくなった。彼らの菅政権や野田政権に対する批判には一定の理はあったが、それは政権を担う人間は誰でも政策に働く惰性力から自由ではいられないから批判を受けるのは当然だ。私は、たとえば2010年秋の民主党代表選で小沢一郎菅直人に勝ったとしても(この代表選では私は菅よりも小沢に勝って、責任を果たしてもらいたいと思った)小沢は菅と同じような政治しかできなかったに違いないと思っている*1

また小沢批判へと逸れてしまったが、要するに「野合の衆」ではうまくいかないという印象を民主党政権有権者に強く与えてしまった。

それなのに、いつまで経っても「右から左までが寄り集まれば自公政権を倒せる」という考え方を捨てられないのであれば、いつまで経っても「野党共闘」は負け続けるだけだろう。そもそも、人間には一人一人異なった思想信条があるのだから、機械の部品みたいに思うように動かせるはずがない。手前味噌だが、私は今年8月2日の時点で小池百合子による「排除」をこの日記で予想して的中させた*2。今回の衆院選における小沢一郎の構想は、戦う前から破綻が約束されていたと言っても過言ではない。

この「『右も左もない』野党共闘」という野合の思想と訣別することが、まず野党陣営が第一になさなければならないことではないかと強く思うのだ。

そんなことを思っているうちに、「サンデー毎日」の新年号に小沢一郎インタビューが掲載された。ここで、小沢一郎は実に怪しからんこと「も」言っているのだが、同時に今年の衆院選前の政変劇を知る上で、「小沢の言い分」という強いバイアスはあるものの格好の資料なので、何年ぶりかで金を払って同誌を買ってしまった。これについては項を改め、このあと一服してから続きを書く。

*1:東日本大震災や東電原発事故、特に後者への対応に関しては、小沢(や安倍晋三)だったら目も当てられない惨状を呈したに違いないとも思っている。

*2:http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20170802/1501632632