「平成」も終わりが近づいてきたせいか、昭和末期から平成初期にかけて一時代を画し、かつ強烈な「負」の部分を持つ人たちの訃報が相次ぐ。星野仙一、西部邁など。
そして、野中広務も死んだ。70歳でがん死した星野仙一や78歳で自殺した西部邁より上の世代で、享年92歳。
野中広務・元官房長官死去 92歳、自民幹事長など歴任:朝日新聞デジタル
野中広務・元官房長官死去 92歳、自民幹事長など歴任
2018年1月26日19時02分
小渕、森政権で官房長官や自民党幹事長などを歴任した元衆院議員の野中広務(のなか・ひろむ)さんが26日、死去した。92歳だった。幅広い情報収集と鋭角的な発言で政敵に切りつける政治手法が「政界の狙撃手」と評された一方、平等や平和といった戦後民主主義の価値を重視する姿勢を貫いた。1951年に25歳で京都府園部町議に当選して以来、同町長、京都府議、府副知事を経て、83年衆院補選で初当選した。57歳と遅咲きの国政転身だったが、92年の竹下派分裂と翌年の自民党野党転落をきっかけに存在感を発揮。細川護熙首相の献金問題を追及した。
自民党が政権復帰した村山政権で自治相兼国家公安委員長として初入閣。オウム真理教の一連の事件に対応した。小渕政権で官房長官となり、自自公連立政権の立役者となった。小渕恵三氏が病に倒れた際、後継に森喜朗氏を推した「5人組」の一人として批判を浴びたが、森政権では党幹事長に就任。関係が深かった加藤紘一氏が内閣不信任案に同調する動きを見せた「加藤の乱」では、鎮圧に回った。
長年対立した小沢一郎氏率いる自由党との連立では「悪魔にひれ伏してでも」と言って関係改善に踏み切るなど、権力維持のためには手段を選ばぬ側面があった。2001年に首相となった小泉純一郎氏と激しく対立。03年の総裁選で小泉氏を支持した同僚議員を「毒まんじゅうを食った」と激しい言葉で批判した。この年に政界を引退。「毒まんじゅう」は流行語大賞に選ばれた。
戦争体験に基づく「護憲派」「ハト派」的な言動でも知られ、その後もテレビ番組や講演などで精力的に発信。論客として存在感を失わなかった。
(朝日新聞デジタルより)
赤字ボールドにした部分は、野中最大の悪行と言って良い。当時は「真空総理」と呼ばれた小渕恵三首相時代だったが、連立政権を組んだ小沢一郎は、次々と右翼タカ派な政策を小渕にのませていった。1989-91年の海部俊樹政権時代、93-94年の細川護煕政権時代と並んで、小沢の「剛腕」がもっとも強く発揮された時代だったといえる。この小渕時代に次々と成立した右翼立法が、今日の安倍晋三政権のレールを敷いたと言っても過言ではない。
そんな野中だったが、自民党の大物政治家や小沢を含む野党の政治家から野中の死を悼む声が相次いだ。
野中氏を惜しむ声 小沢氏「深い哲学持ち、果断に行動」:朝日新聞デジタル
野中氏を惜しむ声 小沢氏「深い哲学持ち、果断に行動」
2018年1月26日22時19分
野中広務氏の往時を知る政界関係者からは、惜しむ声があがった。森喜朗・元首相 個人や党を超えて、国家としての政治の安定を何より望んでおられた。小沢一郎さんにひれ伏してでも、「国家のために」と協力を求めた。いまの政界には、野中さんのような人はもういない。人間としても、政治家としても、多くを学ばせてもらった。心から感謝している。ひとつの時代がこれで本当に終わった。お世話になりましたと申し上げたい。
古賀誠・元自民党幹事長 92年の人生のすべてを国家と国民に尽くされた政治家。政治生活を一緒にできたことを誇りに思う。
青木幹雄・元自民党参院議員会長 野中先生の奥様が島根の竹下登と同じ地元。ご縁もあり、昔から非常によくおつきあいをさせて頂いた。非常に残念だ。
小沢一郎・自由党代表 私が政治改革を志して、その道を進み始めたときから、考え方や政治的な立場は異なったが、政治的手腕・力量は他の追随を許さず、同じ政治家としていつも感服していた。また、ご自身の体験・経験に裏打ちされた深い哲学・思想を持ち、常にそれに基づいて果断に行動されてきた信念の政治家。存在そのものに大きく重く説得力があった。
鈴木宗男・元官房副長官 巨星墜つという感じを持っている。一番は平和主義者だった。戦争経験者として戦争に対する特別な思いを持っていた。町議にはじまり遅咲きで国会議員に、自治相まで務めた。絵に描いたようなたたき上げ、地方議員出身の国会議員のモデルといって良い。
亀井静香・元自民党政調会長 まさに巨星墜(お)つ。大変な政治家だった。
二階俊博・自民党幹事長 偉大な先輩を失って、大変残念でさみしい。当選早々にして早くも大先輩の風情で党内を圧倒していた。細かいことから大きなことまで細大漏らさず一生懸命やっていた。もう少し指南役として、ご指導をお願いしたい気持ちは私だけではあるまい。
石破茂・元自民党幹事長 田中派事務所の職員として、野中さんの最初の選挙の1983年の衆院補選で、(京都府の)舞鶴に1カ月泊まり込んで選挙を手伝った。演説が非常に上手だった。弱者への思いやりとか、今の自民党から失われつつあるようなものを持っていた政治家だった。
額賀福志郎・自民党額賀派会長 正義感に燃えた素晴らしい政治家だった。日本にとって大きな存在を失った。
辻元清美・立憲民主党国会対策委員長 野中さんは社会党委員長だった土井たか子さんとも非常に親しく、お二人とも戦争体験者で、戦争だけは絶対あかん、憲法9条は絶対守るという意志が非常にお強い方。平和のともしびが消えてしまった。日本のひとつの良心だった。この時代に、もう少し頑張ってほしかった。
野田聖子総務相 郵政相就任時も今回もとても喜んでくれた。お祝いに頂いた高級ペンは大臣室の私の傍らにある。尊敬する先生をまた一人失い、悲しい気持ちでいっぱいだが、「その分しっかりとした政治家になるんだぞ」といま一度背中を押されている気がする。
(朝日新聞デジタルより)
これらの追悼の言葉に接した後に、下記こたつぬこ(木下ちがや)氏のツイートに接すると、正直言っていささか奇異の念を禁じ得ない。
https://twitter.com/sangituyama/status/956836269203456000
こたつぬこ
@sangituyamaしかし、野中広務ともっとも敵対した京都共産党や小沢一郎が心を込めた哀悼を示す一方で、自民系がダンマリなのが時代を感じさせますね。
https://twitter.com/ozawa_jimusho/status/956834981933805568小沢一郎(事務所)
@ozawa_jimusho
野中広務先生とは、私が改革を志してその道を進み始めたときから、政治的な立場は異なりましたが、その政治手腕には感服しておりました。ご自身の体験に裏打ちされた哲学に基づいて果断に行動されてきた信念の政治家でありました。偉大な御功績をしのび、心よりご冥福をお祈り申し上げます。 小沢一郎
2:23 - 2018年1月26日2:28 - 2018年1月26日
はあ? 何言ってるんだ???
まず朝日の記事に見る通り、「自民系がダンマリ」は事実に反している。「清和会系がダンマリ」とさえいえない(森喜朗がコメントしている)。「ダンマリ」なのは、せいぜい「安倍晋三の周囲」くらいのものだろう。
そして、小沢について言えば、野中は小沢にとって、小政党の党首に成り下がった自らに接近して、数々の右翼タカ派的な法律を成立させてくれた大の恩人だ。その死を心から悼むのは当然だろう。それは90年代の小沢であって、今の小沢は転向しているとの反論をする向きもあるかもしれないが、小沢自身が90年代の右翼タカ派的な数々の悪法を成立させたことが誤りだったとみとめたとは、寡聞にして私は知らない。
こたつぬこ氏のツイートには、いまどきの共産党系の学者はここまで右傾化しているのかと驚くばかりだ。
そのエピゴーネンたちに至っては目も当てられない。下記のお追従ツイートなど、みっともない限りだ。
https://twitter.com/DariNegaraUtara/status/956873805376274434
Mickey
@DariNegaraUtara
共産党や小沢一郎には、民主政治という競技ルールの中でのある種のスポーツマンシップを感じますね。今の安倍自民党にはそういう一種のスポーツマンシップというか政治家のノーブルさがない。
4:57 - 2018年1月26日
何が「政治家のノーブルさ」だよ。牙を抜かれた野党支持者ほど腹立たしい役立たずはいない。
ところで、野中広務の「光」の部分としての「差別との闘い」はやはり記しておかなければならないだろう。これについては、ネットの贅言に接するよりも、下記2冊の本をお読みいただくことをお薦めする。いずれもやや古い本だが、図書館やブックオフなどには置いてあるところもあるだろう。
- 作者: 魚住昭
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