3年前の2016年に「令和」を言い当てていた人がいたというので話題になっている。昨日(4/2)の夕刊フジの大見出しにもなっていた。
話題のツイートには今でもアクセスできる。
明治大正昭和平成令和
— しゃん (@syaaaan_) July 13, 2016
違和感ないね!
私には違和感ありまくりだよ!というのはともかく、この2016年7月13日という日付がまたすごい。3月20日に出た原武史の『平成の終焉』(岩波新書)を読んだばかりだから気づいたのだが、「天皇明仁による退位の意向表明」(同書2頁)がNHKニュース*1でスクープされた「その日」なのだ。天皇はその時点で既に82歳の高齢だったから次の元号が用意されていて、その最有力候補が「令和」だったことは、その時点で既に右翼民族主義的とされる安倍晋三*2が政権に返り咲いて3年半以上が経過していたからあり得ることだと思うが、それにしても不思議な話だ。
なお、呟きの主は現在は別アカウントで呟いていて、旧アカウントは放置していたようだ。
あの、、すみません、、
— しゃん (@syaaaan_) April 1, 2019
私新しいアカウントにしてしまったのでフォローしてくださった方には申し訳ないのですが、今後特になにがあるわけでもないです
そこの所はご理解ください
あと私は世間から煙たがれる所謂キモオタクです
可愛い女の子の絵最高!えっち絵はちゃんとRTするんだぞ!! https://t.co/UjplJsr67K
新元号がらみでは、出典の出典である漢籍の詩が、後漢の安帝という暗君を皮肉って作られたものだったという話題があって、最初四月馬鹿かと思ったが史実らしい。
以下引用する。
これは興味深い。「令和」のネタ元は、愚かな為政者「安帝」をこき下ろす詩か。張衡が辞めたのは息子の順帝のときですが、安帝の閻皇后が「後漢の安倍昭恵」とでも言うべき、大問題な人で、国が乱れる元をつくったようですね。安帝をきっかけに後漢が傾いたのは事実のようです。そして息子の順帝の頃には大混乱。地震も追い討ちをかけた。そして幼帝が続いた後、桓帝、霊帝と無茶苦茶になり、董卓とか登場し、三國志に突入します。(後略)
(『広島瀬戸内新聞ニュース』2019年4月2日)
なお東晋(!)にも安帝という皇帝がいたが、こちらは「重度の知的障碍者」で、「担ぐ御輿は軽くて○○がいい」という発想で担ぎ上げられた気の毒な皇帝だったようだ。
以下引用する。
396年に孝武帝が死ぬと、
あとを継いだのは
安帝である。
この安帝は重度の知的障碍者であったが、
司馬道子により擁立された。
司馬道子は兄の孝武帝と権力争いをしており、
孝武帝を継ぐ者が
自身に反抗しない者を選ぶ必要があった。
安帝の知的障害レベルは、
一切の意思表示ができないという痛ましいものであった。
頼みもしないのにしゃしゃり出てきて意思表示をしまくる現代日本の暗君たる「安帝」とはどえらい違いだ。東晋の安帝はひたすら気の毒だが、現代日本の安帝はひたすら腹立たしい。その現代の暗君が選んだ元号を、「リベラル」のはずの瀬戸内寂聴あたりまでもが絶賛したせいか、安倍内閣の支持率が一気に10ポイント近くも跳ね上がったという(共同通信の世論調査。むかつくのでリンクは張らない)。それにしても、昔の中国にも小沢一郎みたいな奴がいたらしいことは興味深い。
この日記にいただいたコメントからも新元号に関する話題を紹介しておく。コメントは昨日のエントリにいただいた。
Lint
この梅花の歌三十二首の序は、詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。と終わるのですが、下記サイト
http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu5_815jyo.html
の現代語訳では
中国にも多くの落梅の詩がある。いにしへと現在と何の違いがあろう。よろしく園の梅を詠んでいささの短詠を作ろうではないか。
となっています。
経済も技術も中国に追い抜かれるのは150年ぶりくらいということになるのでしょうが、そういう時期に、わざわざ典拠に国書を選びながらその表現は漢籍を踏まえたものであり、さらに中国を踏襲することを明確に述べている文章だというのは大変示唆的ですね。