kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

横田滋氏死去

  ついにその日が来た。横田滋氏が死去した。

 結局安倍晋三はこの7年半の間、自らの看板の一つだったはずの拉致問題で何一つ成果を挙げられないまま横田氏の87歳での老衰死に至ったわけだ。

 それもそのはず、2002年に北朝鮮が死亡したと発表した横田めぐみさんを含む8人の拉致被害者北朝鮮の言う通り死亡していたと2009年に発言して提訴され、敗訴したのは田原総一朗だった。下記は田原の発言当時にJ-CASTニュースに掲載された記事へのリンク。

 

www.j-cast.com

 

 また、下記は田原が提訴された頃に書かれた「江川紹子ジャーナル」の記事。これは今でも必読だ。

 

www.egawashoko.com

 

 上記リンクの記事で江川氏は、田原ではなく田原への提訴を主に批判している。そして、横田めぐみさんの「遺骨」問題に関して、下記の指摘をしている。

 

(前略)「遺骨」は、2004年11月に日本に引き渡され、警察庁科学警察研究所東京歯科大学帝京大学の3か所で鑑定が行われた。このうち帝京大学では、遺骨のDNA鑑定に成功したとして、結果を政府に報告した。
 報告されたのは、①めぐみさんのDNAは検出されなかった②めぐみさんとは異なる人物2人のDNAを検出した――という内容だったようだ。
 これを受けて細田官房長官は、次のように発表した。
 
遺骨は横田めぐみさんのものではないという結論が出た。今回の北朝鮮側の調査結果で非常に核心的な部分でもあるし、先方の調査が真実でなかったと断じざるを得ない。きわめて遺憾だ」

 日本国民は憤慨した。メディアも、その怒りの激しさを競うようにして、北朝鮮を非難した。
 
 ところが、2ヶ月後にイギリスの科学雑誌『ネイチャー』が、この鑑定に疑義を呈した。執筆者の同誌東京特派員のデイビッド・シラノスキー記者は、1200度もの高温で焼かれた骨からDNAが検出されたことに疑問を投げかけたうえで、鑑定を行った吉井富夫・帝京大医学部講師(当時)の「私も(検出されたことに)実に驚いた」という言葉を紹介しつつ、次のように書いた。

吉井講師は、今回の鑑定が確定的なものではないこと、そして鑑定試料に他人のDNAが混ざり込んでいる可能性があることを認めた。「試料の骨は硬いスポンジのような状態で、いろんなものがしみ込んでしまう可能性があります。この骨を扱った誰かの汗や脂を吸い取ってしまえば、どうやっても取り除くことはできません」と吉井講師は述べた。
(中略)複数の日本政府高官は問題のDNAは再検査したいと述べているが、吉井講師は試料は最大で1・5グラムほどしかなく、5つとも鑑定のために使い切ってしまった、と言う。日本と北朝鮮側の意見の対立が解消する見込みはなさそうだ>(同誌05年2月3日号)
 
 鑑定を行った吉井講師自身が、「遺骨は別人のもの」とは結論づけていないのだ。なのに、どの段階で「別人のもの」という結論にすり替わってしまったのだろうか
 日本政府は『ネイチャー』誌の指摘に反発し、再鑑定を行うことを否定。これに対して、『ネイチャー』誌は、3月17日号で次のような批判を行った。
 
<日本の政治家は、いかに不愉快であっても、科学的な不確かさを直視しなければならない。北朝鮮と戦うには外交的な手段を用いるべきであって、そのために科学の倫理を犠牲にしてはならない。(中略)日本が、北朝鮮の発言をいちいち疑ってかかるのはもっともだ。しかし、このDNA鑑定の解釈については、政治の干渉から自由であるべき科学の領域に、政治が立ち入ってしまっている。(中略)遺骨に他人のDNAが混入している可能性があることは、逃れようもない事実である。この悲惨な出来事の中で、この骨がどこをどう辿ってきたかなど、誰が知るだろう。北朝鮮によれば、遺体は2年間埋められ、その後掘り起こされて1200度で焼かれ、夫の家で保管されていた。日本に引き渡されたのは、その後なのだ。北朝鮮の説明が虚偽である可能性は大いにある。しかし日本が根拠にしているDNA鑑定では、遺骨が誰のものかを解決できない。問題は科学的方法にあるのではなく、もっぱら政治が科学的領域に首を突っ込んでいるところにある。科学というものは、実験については、そこで生じた疑問点や問題を含めて、すべて明らかにして精査されるべき、という前提の上に成り立っている。日本の複数の科学者が、この鑑定はもっと大きなチームでやるべきであったと述べているが、これは実にもっともである。なぜ日本政府は、一人の学者が自分だけで鑑定を行うのに任せてしまったのか>
 
 つまり、日本政府は政治的な目的のために、科学的事実を犠牲にしていると、この科学誌は指摘するのだ。
 
 さらに問題は、政府の発表には科学的根拠がなく、重大な疑義が生じていることを、国民の多くが知らされていない、ということだ。
 『ネイチャー』誌の最初の記事が出た後、細田官房長官は、吉井氏が「(記事は)単なる電話インタビュー。きわめて不十分で言っていないことも書かれた」と語っていると説明。記事は不正確だと反論した。ところが吉井氏は、自身の口で国会やメディアの取材で発言をすることはないまま、大学から姿を隠した。
 なんと吉井氏は、いつの間にか警視庁科学捜査研究所の法医科長に就任していたのだ。複数のジャーナリストが吉井氏に接触を試みたが、警察が盾となり、インタビューは実現していない。『ネイチャー』誌は、この問題に関する第3弾として、吉井氏の突然の「転職」が「日本の拉致問題の解明を阻害する」と断じた。
 日本のメディアでは、遺骨鑑定の科学性に疑問を呈されていることは、あまり報じられていない(『ネイチャー』誌についても、日本語で出版されているダイジェスト版には、この問題についての記事は載っていなかった)。データベースで新聞各紙を調べてみたが、報じられても、内側のページに目立たぬようにひっそりと掲載されているだけ。一面に大見出しで「遺骨、めぐみさんと別人」と断定したとのは、大きな違いだ。
 なので、「遺骨」は「別人のもの」「偽物」と科学的に断定されたと信じている人が、ほとんどなのではないだろうか。
 
 人の生死に関わる問題に報道が慎重になるのは当然だ。しかし、外交に重大な影響を及ぼす事実や政府の判断について検証するのは、メディアの重要な役割のはずだ。なのに日本のメディアがその役割を果たさずにいる状況について、ニューヨーク・タイムズ紙東京支局長のノリミツ・オオニシ記者は同紙の系列紙インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙2005年6月2日付で、次のように伝えている。
 
<半年前、日本政府が北朝鮮はわざと偽の遺骨を引き渡したと発表した時に、日本国民の北朝鮮に対する怒りは沸点に達した。日本政府が真相を包み隠さず述べているかどうか疑問が浮かんでいるのに、日本政府はこの問題をきちんと説明してこなかった。それどころか、ナショナリズムが日本社会で高揚していく中、政府の北朝鮮に対する政策について疑問を呈することもタブーとなってきており、日本のメディアはほとんどこの問題を無視している>

 横田さん夫妻への同情や共感、北朝鮮への不信と怒りが渾然一体となって、「遺骨」が本物である可能性を論じることが憚られる雰囲気が日本中を覆っている。政治家もメディアも、こうした「世論」を気にして、鑑定に問題がある可能性を議論することもできないし、「遺骨」が本物である事態にした対策を話し合うこともできないでいる。
 感情が理性を凌駕し、拉致問題はタブーと化している。被害者家族の意向に反する報道や議論ができにくく、人々は冷静な判断をする材料を得られない。メディアも政治家も、被害者家族をおもんぱかって慎重になっているというより、「世論」(=視聴率や支持率)の反発を恐れて、報じるべきこと、やるべきことから逃げてはいないだろうか。特にメディアの場合、被害者家族は取材対象でもあるから、関係を悪くして取材拒否にあいたくない、という気持ちもあるだろう。その結果、家族の意向に沿う報道だけしか報じられなくなり、「世論」をますます特定の方向に導く悪循環に陥っているような気がする。
 外務省を「だらしない」と叱咤するなら、その言葉は、政治家やメディアにも向けられなければならない。
 しかも、5人の生存者の帰国やその家族を取り戻すのに尽力した外交官は、むしろ「売国奴」だの「北朝鮮のスパイ」だの「土下座外交の戦犯」だのと激しいバッシングを受け、挙げ句に自宅に爆弾を仕掛けられた。しかも、暴力を非難するより、石原都知事などのように、「爆弾を仕掛けられて当たり前」と発言まで飛び出す始末。こうした暴言は、厳しく諫められずに垂れ流され、新たな外務省批判の材料になった。
 外務省の肩を持つ気はさらさらないし、こういう反発の中でも、国益を考えて果敢に行動してこそ、真の外交官なのだろう。
 けれども、彼らを「だらしない」と叩く資格が、メディアの人間にあるのかな、という気はする。
 
 先日、以前拉致被害者の家族会で事務局長を務めていた蓮池透さんに話を伺う機会があった。その際、蓮池さんはこう語っていた。
日本がこういう世相だと、北朝鮮は本当のことを語らないのではないか。万が一亡くなっている人がいても、それを言えば、『また嘘をついている』と決めつけられるのなら、言わないだろう。それでは、いつまで経っても今の状況は変わらない。交渉で、相手に真実を語らせる努力をしていかなければならない。真実であれば、あらゆることを日本は受け入れるという状況にしなければ、事態はなかなか前進しない
 本当にその通りだと思う。
 
 だからこそ、メディアや外交官や政治家たちの中で、「家族会の意向の反することはやめておいた方が無難だ」という風潮が、これまで以上に広まっていくことを心配する。今回の提訴をきっかけに、事なかれ主義がさらに蔓延していけば、拉致問題のタブー化は進み、北朝鮮に真実を語らせる日はいよいよ遠のいてしまう。(後略)

 

(「Egawa Shoko Journal」2009年7月16日付記事「タブー化する拉致問題田原総一朗氏への提訴」より)

 

出典:http://www.egawashoko.com/c006/000296.html

 

 私の記憶では、第1次安倍内閣のあとを受けて2007年9月から1年間政権を担った福田康夫内閣時代に、日朝関係を進展させようとする努力がなされていた。田原総一朗が外務省からレクを受けたのは、その福田政権時代ではないだろうか。当時、岩波の月刊誌『世界』にも北朝鮮特集が載ったことがあった。私は、当時安倍晋三の最大の政敵だった福田康夫は、8人の死亡を認める方向で日朝交渉を進めようとしていたのではないかと当時から想像していた。

 しかし、「福田では選挙に勝てない」などとして公明党が「福田降ろし」をやり始めると、福田は政権を投げ出してしまった。後任の首相は麻生太郎であって、麻生が拉致被害者の死亡を認めるはずもないことはわかり切っていた。そのあとの民主党政権でも、拉致被害者の死亡なんかを認めたら、それでなくても鳩山由紀夫菅直人も首相就任と同時に急降下していった内閣支持率をさらに下げるだけだから何もやらなかった。それに菅政権の後半から野田佳彦政権にかけては原発事故対応などで拉致問題どころではなかった。

 結局、福田康夫が政権を投げ出した時の状態のまま、安倍晋三の総理大臣復帰を招いてしまった。安倍にとっては拉致問題など、自らの内閣支持率浮揚に役に立つ材料でしかなかった。だから、安倍が横田滋氏に娘と再会させることなど最初からできなかったし、やるつもりもなかったのだ。そもそも本当にめぐみさんを含む8人が死亡しているのであればできるはずもない。

 訴訟に敗訴して以来、田原総一朗はあからさまに「8人は北朝鮮の言う通りに死亡していた」とはさすがに言わなくなったが、本音では今も意見を変えていないことは、2014年の下記記事からも読み取れる。

 

dot.asahi.com

 

 以下引用する。

 

(前略)もちろん、私もできる限り多くの拉致被害者たちが無事に帰国することを願ってはいるのだが、それにしても交渉にあたっている人間たちの困惑感はなにゆえなのか。北朝鮮側は、本当に調査の初期段階だとして、日本側に拉致被害者たちに関する情報を一切示していないのだろうか。

 私は北朝鮮が「調査の初期段階」と言うこと自体が信用できないのだが、仮に「初期段階」だとしても、その段階の情報を日本側の担当者に示してもよいのではないか。それを示すことが、「誠実さ」を日本側に感じさせることになるのではないか。

 あるいは、北朝鮮が情報を示すのを先延ばしにしているのは、調査した結果が、日本側の満足を得られないと感じているのだろうか。もっと踏み込んで詮索すると、北朝鮮の「調査の結果」が、日本側の期待度とは大きな差異があることも、交渉の当事者たちは察知していて、それが困惑感となっているのではないのか。ここで言う「交渉の当事者」というのは、北朝鮮と日本の双方の当事者ということだ。そして双方が公表の仕方と時期とを考えあぐねているということではないのか。

週刊朝日 2014年10月17日号

 

出典:https://dot.asahi.com/wa/2014100700099.html?page=1

 

 引用文中赤字ボールドにした部分は奥歯に物が挟まったような言い方だが、田原が実際に言いたいのは「北朝鮮の『調査の結果』」が「拉致被害者8人は既に死亡している」とした2002年の発表の再確認に過ぎないのではないか、ということは明らかだろう。

 現在の欺瞞に満ちた状態を終わらせるためにも、安倍晋三に退場してもらうしかない。そして、拉致問題の全容解明は、それをやれば世論に「右バネ」が働いてしまうためにやりにくい現在の野党ではなく、自民党政権でやってもらわなければならない。安倍の失政の尻ぬぐいをやるべきは自民党の心ある政治家なのだ。

 そんな、かつての福田康夫のような人が今の自民党にいればの話だが。