kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

生方幸夫の立民千葉県連会長辞任・公認辞退は過剰反応ではないか。拉致問題の「タブー化」に手を貸す枝野幸男や志位和夫は、12年前に江川紹子が書いたコラムをよく読むべきだ

 山本太郎の一件もそうだったが、このところ立憲民主党(立民)の国会議員たちが浮き足立っている。たとえば小川淳也が香川1区の維新の候補予定者に、出馬するなと直接維新の集会にまで出掛けて談判して、平井卓也一族が出している地元紙に書き立てられたという。映画にまで出て名前(だけ)は知られてきた小川氏が、大臣を留任できなかった平井(自民党の政治家としては決して選挙に強い部類ではない)を相手に何をびびっているのかと思う。また、生方幸夫(千葉6区)が北朝鮮拉致被害者で生きている人はいないと発言し、所属する立民の枝野幸男に「激怒」しているとコメントされたうえ、共産党委員会の志位和夫からも批判された。生方氏は立民の千葉県連会長を辞職した上、千葉6区の立民公認も辞退することになった。2人とも、選挙の情勢を自分から悪化させたようなものだ。

 私は、小川淳也に対しては、なんて軽率な人なんだと思うだけだ。13年前の8月31日、これは福田康夫が総理大臣職の辞意を表明する前日だったが、反貧困キャラバンが高松市に来た時に小川氏の挨拶を聞いて、「熱血っぽいけど上滑りしているところがあるな」と感じた印象が今も変わっていない。小川氏ならああいうやらなくても良い、というかやったら自分で自分の首を絞めることをやりかねないなとも思う。

 一方、生方氏については、発言の反作用を計算せずにああいうことを言ってしまったこと自体は軽率ではあるが、発言に対する枝野や志位のコメントは過剰反応だと思う。

 思い出したのは、12年前の2009年に田原総一朗が「朝まで生テレビ」で横田めぐみ氏を含む拉致被害者8人は死んでいると発言したことだ。この時にも田原は猛烈に批判されたが、当時江川紹子が田原批判一色になって拉致問題を「タブー化」することを批判する記事をネットで発信した。当時から私は江川氏の意見に大いに共感したが、昨年(2020年)6月6日に公開した横田滋氏の訃報記事で、江川氏の2009年の当該コラムを引用したことがある。下記にリンクを示す。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 江川氏の記事にもリンクを張っておく。

 

www.egawashoko.com

 

 昨年6月の記事では江川氏のコラムから長々と引用したが、今回はポイントの部分のみ以下に引用する。それでも結構な長文になる。

 

(前略)人の生死に関わる問題に報道が慎重になるのは当然だ。しかし、外交に重大な影響を及ぼす事実や政府の判断について検証するのは、メディアの重要な役割のはずだ。なのに日本のメディアがその役割を果たさずにいる状況について、ニューヨーク・タイムズ紙東京支局長のノリミツ・オオニシ記者は同紙の系列紙インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙2005年6月2日付で、次のように伝えている。
 
<半年前、日本政府が北朝鮮はわざと偽の遺骨を引き渡したと発表した時に、日本国民の北朝鮮に対する怒りは沸点に達した。日本政府が真相を包み隠さず述べているかどうか疑問が浮かんでいるのに、日本政府はこの問題をきちんと説明してこなかった。それどころか、ナショナリズムが日本社会で高揚していく中、政府の北朝鮮に対する政策について疑問を呈することもタブーとなってきており、日本のメディアはほとんどこの問題を無視している>

 横田さん夫妻への同情や共感、北朝鮮への不信と怒りが渾然一体となって、「遺骨」が本物である可能性を論じることが憚られる雰囲気が日本中を覆っている。政治家もメディアも、こうした「世論」を気にして、鑑定に問題がある可能性を議論することもできないし、「遺骨」が本物である事態にした対策を話し合うこともできないでいる。
 感情が理性を凌駕し、拉致問題はタブーと化している。被害者家族の意向に反する報道や議論ができにくく、人々は冷静な判断をする材料を得られない。メディアも政治家も、被害者家族をおもんぱかって慎重になっているというより、「世論」(=視聴率や支持率)の反発を恐れて、報じるべきこと、やるべきことから逃げてはいないだろうか。特にメディアの場合、被害者家族は取材対象でもあるから、関係を悪くして取材拒否にあいたくない、という気持ちもあるだろう。その結果、家族の意向に沿う報道だけしか報じられなくなり、「世論」をますます特定の方向に導く悪循環に陥っているような気がする。
 外務省を「だらしない」と叱咤するなら、その言葉は、政治家やメディアにも向けられなければならない。
 しかも、5人の生存者の帰国やその家族を取り戻すのに尽力した外交官は、むしろ「売国奴」だの「北朝鮮のスパイ」だの「土下座外交の戦犯」だのと激しいバッシングを受け、挙げ句に自宅に爆弾を仕掛けられた。しかも、暴力を非難するより、石原都知事などのように、「爆弾を仕掛けられて当たり前」と発言まで飛び出す始末。こうした暴言は、厳しく諫められずに垂れ流され、新たな外務省批判の材料になった。
 外務省の肩を持つ気はさらさらないし、こういう反発の中でも、国益を考えて果敢に行動してこそ、真の外交官なのだろう。
 けれども、彼らを「だらしない」と叩く資格が、メディアの人間にあるのかな、という気はする。
 
 先日、以前拉致被害者の家族会で事務局長を務めていた蓮池透さんに話を伺う機会があった。その際、蓮池さんはこう語っていた。
日本がこういう世相だと、北朝鮮は本当のことを語らないのではないか。万が一亡くなっている人がいても、それを言えば、『また嘘をついている』と決めつけられるのなら、言わないだろう。それでは、いつまで経っても今の状況は変わらない。交渉で、相手に真実を語らせる努力をしていかなければならない。真実であれば、あらゆることを日本は受け入れるという状況にしなければ、事態はなかなか前進しない
 本当にその通りだと思う。
 
 だからこそ、メディアや外交官や政治家たちの中で、「家族会の意向の反することはやめておいた方が無難だ」という風潮が、これまで以上に広まっていくことを心配する。今回の提訴をきっかけに、事なかれ主義がさらに蔓延していけば、拉致問題のタブー化は進み、北朝鮮に真実を語らせる日はいよいよ遠のいてしまう
 少なくともメディアに関しては、被害者や家族への配慮は必要だが、何よりも、多様な言論や様々な角度からのレポートによって、真実に近づく努力をしていくことが、最大の使命であることを、私自身もしっかりと自覚したい。

 

(「Egawa Shoko Journal」2009年7月16日付記事「タブー化する拉致問題田原総一朗氏への提訴」より)

 

出典:http://www.egawashoko.com/c006/000296.html

 

 12年前に江川氏は「事なかれ主義がさらに蔓延していけば、拉致問題のタブー化は進み、北朝鮮に真実を語らせる日はいよいよ遠のいてしまう」と書いた。

 今回、自民党ではなく「野党共闘」の二大政党である立憲民主党共産党の党首が、口を揃えて生方幸夫を非難した。Twitterの反応を見ても、立民支持層も反自公系の無党派層も、実例は確認していないもののおそらく志位発言のお墨付きを得た共産支持層も、ほとんどの人間が生方氏を一方的に非難しているだけに違いない。

 それで良いのだろうか。

 枝野も志位も、立民支持層も共産支持層も反自公系の無党派層も、皆が皆同じ立場に立って生方氏を非難し、拉致問題の「タブー化」に加担している。

 江川紹子氏は周囲に阿らずに自分の意見をどんどん主張する人で、その中にはコロナ対策より「経済を回す」方が大事ではないかとの意見を第1波減衰期に発信したために、弊ブログが「江川紹子の害毒」と評したこともある。しかし、間違いは誰にでもある。コロナ問題で「経済を回せ」という意見は、反自公政権側では少数派だったが、江川氏は意に介さなかった。第3〜5波で菅義偉政権がコロナよりGoToキャンペーンや東京五輪を優先させて失敗したことから明らかな通り、江川氏の主張は誤りだったと思うが、それとは別に、周囲の意見にとらわれることなく自分の意見を発信する氏の姿勢そのものは高く評価できる。ただ、私は新型コロナに関する氏の主張が間違っていると思ったから「害毒」と表現したまでだ。しかし、言論人としての氏は、同調圧力に容易には屈さないという、言論人にはもっとも必要な資質を備えている。この点は高く評価できる。

 そんな江川氏に引き比べて、枝野幸男志位和夫はなんと不甲斐ないことか。私が思うに、生方幸夫の立民千葉県連会長辞任や衆院選での公認辞退は、どう考えても過剰反応だ。拉致問題の「タブー化」に加担した上、衆院選でも情勢を自らが率いる政党や「野党共闘」に不利な方向へと導く枝野(や志位)が正しいとは、私には全く思えない。