kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

松竹伸幸『「容共は戦争当夜の声」』(『超左翼おじさんの挑戦』2023.3.22)

 松竹伸幸氏のブログは毎日読んではおらず、たまにまとめ読みする。一昨日(3/22)の記事には共産党ばかりではなく立憲民主党に対する松竹氏自身及び現在の日本のマスメディアの痛烈な視線が看取できるのに感心した。もちろん共産党に対する批判はさらに強烈である。

 

ameblo.jp

 

 以下引用する。

 

 明日が知事選挙の告示日である。昨日紹介した党中央への手紙の最後にあったように、私としては「赤旗」で名指しの批判などがないかぎり、統一地方選挙が終わる4月後半まで、除名問題をめぐって党のことを批判的に取り上げることはしないでおこうと思っている。

 

 本日は、その前日となる。だから、最後にちょっと批判をしておきたい。

 

 「反共は戦争前夜の声」――これが統一地方委選挙に向かう共産党のスローガンになっているようだ。あまりに現実とズレていて、これでは勝利を望めないと感じる。

 

 何よりも、現在の世論状況を「反共」と捉える見地が歪んでいる。確かに、除名問題をめぐる共産党への批判は大きい。しかし、それは共産党のこの問題への対応のマズさがつくりだしたものであって、反共勢力が意図的に仕掛けてきたものではない。

 

 それどころか、こうなる以前、共産党に対するメディアへの期待は大きいものであった。私は『シン・日本共産党宣言』の出版が決まったので、刊行日の一か月ほど前から、メディアに私の真意を伝えるようにしてきた。その際、どのメディアも一様に強調していたのは、自民党政治に対する野党の存在を確固としたものにする上で、もはや立憲に期待できるようなこともなく、あとは共産党が変わるという選択肢しかないねということだった。そういう問題意識をみんな持っていたから、私の記者会見にも多くが参加してくれたのだ。

 

 ところが、共産党の対応は、そういう期待を裏切るものだった。その後も、ずっと同じ過ちが続いている。このままでは、「容共」だったメディアが、「反共」に変わってしまいそうで怖い。

 

 もう1つは、「反共は戦争前夜の声」という蜷川さんの言葉(1950.4.3)を、過去の回想にとどめていない点のズレである。いまの現実の政治状況に重ねることによって、過去の大失敗をくり返しかねないと感じる。

 

 「反共は戦争前夜の声」があらわしていた「戦争」とは、いうまでもなく朝鮮戦争1950.6.25開始)のことである。その頃、確かに日本の共産党は占領軍から敵視され、反戦を掲げた共産党への弾圧は激しいものがあった。政治全般が「逆コース」と呼ばれる道を進んでいく。

 

 しかし、当時の共産党反戦とは、アメリカが北朝鮮に対して戦争を仕掛けたという認識にもとづく「反戦」であった。だが現実には、侵略して戦争を起こしたのは、共産主義国である北朝鮮だった。「反共は戦争前夜の声」どころか、「容共は戦争当夜の声」が、目の前で進んでいる現実だったのだ。それなのに、共産党北朝鮮を支持して国民世論から乖離したことが、50年問題による党の分裂をより深刻なものとした。

 

 いま共産党が「反共は戦争前夜の声」を強調するのは、目の前で岸田政権の大軍拡が進んでいることと、共産党への批判が高まっていることを結びつけたいからである。そのことによって、共産党への批判が強いのは、反動勢力が軍拡反対勢力の共産党への批判を強めているからだという構図を描きたいわけだ。

 

 けれども、岸田政権の大軍拡も、中国が台湾の武力解放を公言し、尖閣への侵入をくり返しているもとで、それへの対抗策として打ち出されているものだ。1950年に戦争を起こしたのが共産主義国である北朝鮮であったのと同様、現在も戦争を起こす可能性を明言しているのは、共産中国なのである。

 

 それなのに「反共は戦争」というのでは、あまりにズレまくっていないか。朝鮮戦争当時、共産党北朝鮮を支持し、戦争をしたのはアメリカだと描いたように、現在は岸田政権とアメリカを批判するあまり中国を支持するのか。このスローガンを聞いた国民が感じるのは、そういうことであろう。残念ながら、これでは選挙には勝てない。

 

(『超左翼おじさんの挑戦』2023年3月22日)

 

URL:https://ameblo.jp/matutake-nobuyuki/entry-12794863132.html

 

 まず立民についていうと、先日の弊ブログに醍醐聰氏のツイート経由で紹介した通り、NHK世論調査では18〜39歳の岸田内閣支持率がそれ以上の年齢層の同支持率と比較して有意に低い。これは相対的に若年の人々が現在の岸田政権、というより自公政権の政策の延長では日本は立ち行かないと認識しているとしか私には解釈できない。しかるに一昨年の衆院選敗北の責任をとって枝野幸男が辞任したあとを受けて立民代表になった泉健太は最初「提案型野党」路線をとり、日本を現在のような状況にした元凶である安倍晋三国葬に対して当初「静かに見守る」と言い、その後も自らが国葬に参列する可能性を示唆するなど、自公政権にむしろすり寄るような姿勢を見せた。しかも「ゆ党」と揶揄される日本維新の会に対しては積極的にすり寄っている。

 このような状況においては、共産党が何もしなければ立民に失望したリベラル・左派層の受け皿となって選挙で得票を伸ばすことが見込まれる。いや、リベラル・左派層に限らず、この範疇に属するとは思われない政治学者の中北浩爾氏が昨年出した中公新書日本共産党』が大いに売れた。これは共産党に対する人々の期待の反映だった。

 しかし、こともあろうに共産党松竹伸幸氏の除名騒動を自ら引き起こしてしまった。その前段階としては、せっかく党外にあって共産党に一定の関心を持つ人々のニーズに応える書物だった前記中北氏の『日本共産党』を黙殺するという「塩対応」をとった。共産党員の紙屋高雪(神谷貴行)氏はブログに下記の書評を公開しているのだが。

 

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 中北氏は共産党の反応に大いに心証を害し、現在ではしばしば痛烈な共産党批判を行なっている。

 以上が本記事の前半。以下の後半部では「反共は戦争前夜の声」という蜷川虎三(1897-1981)が1950年4月3日に発した言葉を借用した現在の共産党の宣伝文句に対する松竹氏の批判を取り上げる。

 松竹氏は

「反共は戦争前夜の声」があらわしていた「戦争」とは、いうまでもなく朝鮮戦争1950.6.25開始)のことである。

と、いつものようにさらりと書いているが、この事実を念頭に置いていた人などほとんどいないのではないか。私もその一人だったので「あっ、そうか」と感心してしまった。

当時の共産党反戦とは、アメリカが北朝鮮に対して戦争を仕掛けたという認識にもとづく「反戦」であった。だが現実には、侵略して戦争を起こしたのは、共産主義国である北朝鮮だった。

という指摘は歴史的事実だ。私が思い出すのは先月亡くなった伊藤誠(1936-2023)という宇野弘蔵*1マルクス経済学者が書いた平凡社新書に、当時はアメリカの仕掛けだと信じていたが実は北朝鮮側からの侵略だったとあけすけに書かれているのを読んで唖然とした記憶がある。だが、唖然としたのは歴史を知っているからに過ぎず、私も1950年に生きていたならアメリカの仕掛けに違いないと思った可能性が高い。伊藤の平凡社新書は複数冊(たぶん2冊)買って読んだ記憶があり、売ったり捨てたりした記憶はないので引っ張り出して調べれば出典がわかるはずだが、今はその時間がない。

 そんな事実があるのに、また今現在の岸田政権の度外れた軍拡政策も「中国が台湾の武力解放を公言し」ていることに起因するのに、そんなスローガンを掲げても共産党は人々の理解を得られるはずがないと松竹氏は言う。その通りだろう。

 私は岸田政権に対しては、そんなこと言ったって今軍事費なんかを激増させたらそれでなくても貧弱な日本の社会保障や福祉はガタガタになって日本は急坂をまっさかさまに転げ落ちるぞ、だからなんとか理屈をひねり出してアメリカその他の要求に抵抗しろよと考える人間で、だから「大規模な軍事費増額自体に反対」との立場を崩さないのだが、たとえば立民でこの主張を掲げる人は衆院愛知10区候補予定者の藤原規眞氏くらいしか知らない。私はそういう立場なので、松竹氏の安全保障政策は支持しない。

 しかしそんな私でも、正直言って「反共は戦争前夜の声」なんて実に嫌なキャッチフレーズだなあと非常に強い反感を持った。なぜなら「反共」という言葉があまりにも安易にレッテル貼りのために濫用されているからだ。実際、ネットを見ていてもつい一昨年までは論敵から「リッケンカルト」とレッテルを貼られていた権威主義的な立民(枝野)信者だった人が、泉健太を批判する点では私と同じではあるものの、今度は共産党権威主義的に支持あるいは信奉(信仰)する人たちと一緒になって、長年赤旗を配り続けている熱心な共産党支持者による自らの支持政党への批判を「反共」であるとして攻撃している。これはいくらなんでも理不尽だろう。そう、某道産子氏のことだ。

 一昨年の衆院選での敗北の責任を志位執行部が取らなかったこと以来、共産党の選択は間違いばかりだっと思う。いや、本当はそのずっと前から道を誤っていたのだろうけれど。たとえば野党共闘にしても、仕掛人の一人、というより首謀者だったことが確実な小沢一郎に、志位和夫小池晃があまりにも心酔し過ぎた。小沢は2017年の希望の党騒動でも関与したというより首謀者だったことが確実だが、その小沢が小池百合子に切られて「野党共闘」陣営に戻ってきた時、共産党社民党ともども小沢の復帰を温かく迎え入れてしまったし、現在では志位執行部を痛烈に批判しているこたつぬこ(木下ちがや)氏も共産党と歩調を合わせていた。当時の私は「あんな奴を受け入れるなよ」と切歯扼腕していたのだった。

 2019年4月の衆院大阪12区補選は小沢が主導する「野党共闘」路線の限界を露呈した選挙だったが、同じ月の最初の日である4月1日に弊ブログの3大NGワードの1つである現元号名が発表され、まさにその日のうちに山本太郎元号を党名に冠した政党を設立したのだった。元号をひらがな表記にして党名に冠することを最初から決めていたに違いない。

 その山本の元号政党に最初に接近して合意を結んだのが共産党だった。下記は当時の朝日新聞・前田直人氏のツイート。

 

 

 この頃には共産党の転落は相当進んでいたというほかない。いや、もっと遡れば野党共闘路線を走り始めた途端に、天皇が「お言葉」を発する国会の開会式に出席することを決めたりしていたから(2015年12月)、遅くともその時点では間違え始めていたと思われうるけれども。

 そういえば、これは間違いとは全くいえないけれども、共産党統一地方選を「いっせい地方選挙」と言わなくなったな。2015年までは言っていたが、2019年から言わなくなったようだ。野党共闘路線の開始は2015年秋以降だと思うが、それと関係があるかどうかは知らない。

*1:従って伊藤誠日本共産党とは別系列の人である。