kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

摂津・播磨・吉備・安芸(兵庫・岡山・広島)の境界と言葉の話

 下記記事のコメント欄より。コメントは某新選組とは全く関係ない。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 bluenote1969

1960年9月から1998年12月まで、阪神電鉄本線で運行されている特急電車の梅田〜三宮間の停車駅は、西宮・芦屋・御影の3駅のみでした。神戸市東灘区の中心である御影が、西宮・芦屋と並び、特急停車駅とされていたことは、東灘区一帯が、神戸市内でありながら、西宮・芦屋両市と並ぶ「阪神間」の中心のひとつと目されていることの、ひとつの証かも知れません。

また、阪神御影駅前に2008年に開業した商業施設「クラッセ御影」でも、当初は食品売場を阪神百貨店に任せ、庶民的な色合いを前面に押し出したものの深刻な売り上げ不振に陥り、やむを得ず阪急系の高級食品スーパーに切り替えたところ、売り上げが回復し、現在も堅調であるそうです。この現象も、東灘区の住民に「阪神間」の一員としての高級志向が強いことの表われであるように思います。

 

 阪神御影駅は懐かしいですね。私の住所からは最寄りの駅ではありませんでしたが徒歩で行ける範囲内でした。

 ご紹介のお話は、あのエリアならありそうなことだと思いました。2008年というと阪急阪神ホールディングスは既に発足してましたよね。しかも阪神沿線なのに。

 下記は阪急御影駅から阪神御影駅まで歩いた人が書いた記事ですが「クラッセ御影」の写真が出ています。ふーん、今ではこんなのがあるんですね。

 

kitarokko.com

 

 bluenote1969

また鉄道の話で恐縮ですが、岡山県備前・備中地方と広島県東部の備後地方の結びつきの強さを示すのが、国鉄時代の鉄道管理局の境界で、岡山鉄道管理局と広島鉄道管理局の境界は、両県の県境である笠岡〜大門間ではなく、広島県三原市内の糸崎〜三原間でした。これはJR西日本に変わってからも変わらず、岡山支社と広島支社の境界は、やはり糸崎~三原間のままでした。両支社の境界が、実際の両県境である笠岡〜大門間に変更されたのは、昨年10月のことです。現在のダイヤでも、岡山からの普通列車には糸崎行、または三原行が多く、広島方面への普通列車へは、どちらかの駅で乗り換えを要することが多いです。また、岡山〜福山間の快速列車も、長年にわたり運行されていました。なぜ、備後と安芸を同一の県にしたのかは、それこそ大久保利通あたりに訊いてみないと分からないのでしょうが、人の流れに合っていないことは確かです。

 

 えっ、岡山〜福山間の快速サンライナーがなくなったのかと驚きました。調べてみたら昨年に廃止されてたんですね。

 

ja.wtmnews.net

 

 県境をなぜ備中と備後の間にしたのかはわかりませんでした。昔、高松から今治尾道宇野港を経てフェリーで高松に戻るという自転車の旅を何度かの週末に分けてやったことがありますが、広島と岡山の県境はいともあっさり越えられるので拍子抜けしました。でもネット検索をかけたら備後と安芸の国境もたいしたことなさそうです。

 

bingo-history.net

 

 一方、兵庫県岡山県の県境は、昔青春18きっぷで何度も越えましたが本当に険しいところです。船坂峠と言って標高は低いですが山地はやたら広大で、駅と駅の間隔は長くてトンネルも多いし、何よりあのあたりを境に方言ががらっと変わります。兵庫県側の赤穂は関西弁エリアですが、倉敷市に隣接している総社市から通勤していたかつての同僚によれば、岡山県側の日生(ひなせ)の言葉は当然ながら岡山弁らしいです。でもそうなるのも当然だよなあと体感しました。

 しかし両地域を結ぶバイパスの海岸沿いは険しくないためにそこそこ人の往来があり、そのことと関係があるかどうか、備前の一部が岡山県から兵庫県に移ったことがあるようです。

 

www.nikkei.com

 

 以下引用する。

 

播州・赤穂に「備前」の駅? 生活圏一体訴え越県合併

とことん調査隊

関西タイムライン

2020年10月6日 2:01

 

兵庫県の地図を眺めていると県南西端に「備前福河駅」を見つけた。備前国と言えば現在の岡山県の南東部を占める地域を指す。しかし駅の所在地は兵庫県赤穂市(旧播磨国)である。なぜ「播磨福河駅」ではないのか。歴史をたどると、住民の熱き戦いがあった。

神戸・三宮から在来線で約2時間のJR西日本赤穂線備前福河駅。駅構内にさっそく手掛かりとなる掲示を見つけた。「1955年、岡山県和気郡福河村当時にできた村唯一の駅」。同駅は昔、岡山県内にあったのだろうか。

裏付けるように駅近くに、うっすら「東備タクシー」と読める古びた建物を発見。東備とは備前国東部を指す。60年ほど前、この会社で運転手をしていた吉栖敏隆さん(85)は「駅のある福浦地区はもとは岡山の一部。本社は隣町の日生(ひなせ)町(現・岡山県備前市)にあった」と教えてくれた。赤穂市になってから廃業を決めたという。

関西電力より安いので助かる」。住民の60代女性がこう話す理由は、中国電力が電力供給しているためだ。赤穂市でも福浦地区だけという。

福浦地区がなぜ兵庫県に変わったのか。「赤穂市史」などを調べると、岡山県の福河村は1889年に発足。福浦と寒河(そうご)地区を合わせた名前だ。戦後、赤穂線が延び、備前福河駅が1955年に開業する。この時点では岡山県だ。同年、隣の日生町と合併し、新・日生町となる。しかし福浦の住人が赤穂市への編入を県や国に訴え、ついに日生町から分離、63年に合併に至った。

「生活圏は日生より赤穂。父は(覚悟を示すため)座棺を持って国会前で訴えた。約2週間も座り込んで痔(じ)になったとか」。地元の宮本幸則さん(67)が振り返る。住民の嘆願書(57年)を見ると、赤穂市との合併計画地域として兵庫県に54年に申請。「産業や文化が融合し、歴史的に不離一体」として、福浦住民の91%が合併に賛成したという。一方の赤穂側も「『血は水より濃い』。福浦を合併したいという念願が古くから赤穂市民の心の底に流れていた」(60年の嘆願書)と合併受け入れに積極的だった。

しかし越県合併は困難を極めた。特にもめたのが漁業権だ。当時の福河村漁業協同組合は「被害者は福浦村民である漁民。合併が一度されれば漁場の回復は永久に希望なし」と反対意見書を村長に提出。日生漁業協同組合(備前市)の天倉辰己専務理事は「生活の糧を得る漁場だけは死守しようと必死だった」とみる。

結局、海の大部分を岡山県に残して決着した。象徴的なのは赤穂港沖700メートルの小さな無人島「取揚(とりあげ)島」の扱い。昔から島内に備前と播磨の国境が引かれていたが、合併後も漁業権を岡山側に残すため県境が残った。日生の名産であるカキは同島付近でも養殖されている。

気になるのは兵庫県編入された際に駅名から「備前」を外さなかった理由だ。住民によれば経緯は不明という。今では唯一の岡山県時代の公的な名残となった。「今度は岡山県が欲しがるような魅力的な町にしなきゃ」。こう意気込むのは福浦の町おこしを進める奥道一二美さん(67)。名産品化を目指し、綿栽培を2016年から始めた。

兵庫県岡山県の旧美作国の一部も明治期に編入している。鹿児島大学の北崎浩嗣教授は「市町村からの圏域ごとの再編は、経済的に自立できるなら、あってしかるべきだ。広域行政的長所が生かせれば望ましい」と話す。

兵庫県はかつての摂津、但馬、淡路、播磨、丹波の5カ国からなる「兵庫五国連邦(U5H=ユナイテッド・ゴコク・オブ・ヒョーゴ)」として、地域の多様性をアピールする。さらに備前国美作国を含んだ「U7H」と言ってもいいのでは?

(沖永翔也

 

日本経済新聞より)

 

URL:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO64627260V01C20A0AA1P00/

 

 上記記事の例に見る通り生活や文化の境目に住む人々の感情には微妙なものがある。同じ地域に住んでいても岡山に親近感を持つ人と関西(赤穂)に親近感を持つ人がいるようだ。

 気になるのは福浦の方言が関西弁と岡山弁のどちらであるかということだ。ネット検索をかけると下記のツイートが2020年に発信されていた。

 

 

 

 上記ツイートに「京阪式ではない」と書かれているがこれはやや不正確で、赤穂を含む播磨国の西部は、岐阜県の垂井(たるい)など同じ「垂井式アクセント」の地域に含まれるが、これは東京式よりも京阪式にずっと近いアクセントだと私は認識している。福浦の通学圏が赤穂側になっているのなら、言葉も垂井式アクセント、つまり京阪式に近い可能性が高い。方言地図を見ても、瀬戸内側の東京式と(垂井式を含む)京阪式の境界線は岡山県兵庫県の県境(北半分を除く)と一致している。

 

 

 これは母語が京阪アクセントである人間にとっては大いに事情が異なり、私は地域によるアクセントの変化には敏感なのだ。例えばよく中国・四国と括られるが、四国は南西部の一部地域を除いて京阪式で、中国は島嶼部の一部地域やそれに近いごく例外の地域を除いて東京式だ。

 そのごく例外だが、私は倉敷市在住時代に同市に含まれる下津井(しもつい)地域の方言が京阪式アクセントであることを知った。職場に関西弁を思わせる言葉をしゃべる人がいたのだが、彼は下津井の出身なのではないかとひそかに想像していた。しかしそれを確かめる機会はなかった。このあたりについては2016年頃に当時の常連コメンテーターの方とずいぶん話し込んだことがあった。この方はコメント欄での他の(当時の)常連の方とトラブルになって出て行ってしまわれた。その後さるブログでそちらの常連コメンテーター(この人は私の宿敵でもある)と大喧嘩になり、そちらからも出て行ってしまわれた。このあたりの人間模様もなかなか微妙だ。

 下記はその方について多少ご存じであろうsuterakusoさんのコメント。

 

 suterakuso

興味を持ったので、横やり失礼します。管理区間でなく、運行区間の話をすると、福山、糸崎、三原のことは、山陽本線だけでなく呉線のことを考えなければならないというのがやはりあると思います。山口側から見ると、今はほぼないのではないかと思いますが、山口県内始発で山陽本線の白市行き、呉線の広行きという便がつい最近まで何便かありました。そしてそれらは、どちらも広島通勤圏のおおよその境で、それを過ぎると、しばらく(といっても調べてみたら山陽線は2・3駅だけですが)利用客の少なそうな駅が続きます。山陽線側はなんにもないのどかな日本の田舎の代表のような景色の地域で、呉線側は瀬戸内観光鉄道のような景色の地域といった感じでしょうか。山口県民なので、そんなに行ったことがないので、このあたりはkojitakenさんの方が詳しいと思います。ですので、岡山側からは、普通電車で三原を越えて広島側に行く利点が少ない上に、広島側からは山陽線の三原‐福山間は、2路線が乗り入れて必要な区間にそれなりに便がある区間になっていると思います。福山‐笠岡間は、車で通っても、電車で通っても、やはり境を感じさせる人口の少ない地区があるように思います。国土地理院地図をみましたが、笠岡など、福山と倉敷の間は、海岸線に低山が続く平野のない地域で、地形的にもやはり境になると思います。県境については、wikipediaしか見てみませんが、幕府直轄の福山が中心である備後の扱いをどうするかということがあったのかなと思います。

 

 suterakuso

上の福山‐笠岡間は、福山‐倉敷間の方が適当ですかね。さらにwikiを見ましたが、笠岡の一部は、地形的にも福山との境がなく、福山への編入を求める運動が盛んだったことがあるようですね。福山出身者とそれと意識して関わったことも、福山に数時間も滞在したこともないので分かりませんが、岡山と倉敷とではそれぞれの地元意識が違うように、福山もまた別で、あくまでも広島は広島、福山は福山、倉敷は倉敷、岡山は岡山なのでしょうね。呉なんかは広島に同化されつつあるようには思いますが。尾道は、島嶼部との関係や広島から呉より遠く、福山とは街の成り立ちが違う関係で、また独特かもですね。

 

 尾道以東はその後の四国(某たかまつ*1ではなく高松)時代を通じて馴染みがあり、前述の通り自転車で瀬戸内海周辺をめぐるループを2004年春と秋に2度描いたこともありますが、尾道より西になると途端に馴染みが薄くなり、呉線は1999年に三原から竹原まで乗ったことがあるだけです。でも倉敷から広島まで鈍行を乗り通したことは2回あります。そのうち一度だったかそれとは別にだったかは忘れましたが、三原駅で降りた記憶もあります。

 それにしても広島は本当に遠かった。手元に時刻表の2019年3月号があるが、鈍行だと途中糸崎または三原で乗り換えて2時間半かかる。最初に行ったのは2002年のプロ野球開幕戦で、スワローズではなくベイスターズカープの試合を見に行った。当時の広島市民球場は土曜日の試合であれば当日券で入場できることを知っていたし、当時弱かったカープが本拠地で開幕戦を開催できる機会は珍しいのだから行ってみようかと思い立ったのだった。

 二度目は同じ2002年の青春18きっぷの使えない紅葉狩りの季節(11月)に厳島神社まで行った時で、これは年末に四国に引っ越すことが決まっていたので、鈍行で厳島神社に行ける最後のチャンスだと思って行った。この時には、尾道駅が近づいた時に車内放送で車掌がいきなり

海が見えた。海が見える。五年振りに見る、尾道の海はなつかしい。

という、林芙美子『放浪記』の一節をアナウンスして尾道観光の宣伝を始めたのに驚かされた。ネット検索をかけたらJR西日本の下記リンクが引っかかる。

 

www.westjr.co.jp

 

 無粋にも上記リンクには画像が表示されないのでリンク先をご覧いただきたい。別にJR西日本の片棒を担ぐつもりはないが。

 当時はまだ『放浪記』を読んだことはなかった。いつかこの一節を読む時に尾道駅に近づくタイミングになるように計算して鈍行列車の中で読もうと決めていたが、2019年にそれを実行した時には少しタイミングがずれてしまって、尾道駅に近づくかなり手前(小倉から東京まで途中大阪で一泊して戻ったので尾道よりも西)でこの一節が現れたのだった。なお、車中では『放浪記』とともに原武史の『皇后考』を読んだ。読んだのは2015年のハードカバー版ではなく2017年の講談社学術文庫版で、『放浪記』の方は2014年に出た岩波文庫版で読んだ。それぞれ、青春18きっぷで超長旅をするまでは読まずに「積ん読」にしておいたとっておきの本だった。

 

bookclub.kodansha.co.jp

 

www.iwanami.co.jp

 

 ところで、国や自治体や地域の境目には興味深い現象がいろいろ見られる。

 私が現在住んでいる東京東部もそうで、江戸時代の最初の世紀である17世紀に武蔵国葛飾利根川下流(元江戸川)の西側を下総国から奪った。のことらしい。今でも東京東部は千葉県固有の領土だとの主張を何処かで見たような記憶がある(笑)

 東京東部内でも荒川(放水路)を越えて江東区から江戸川区に入ると景観が変わるが、さらに江戸川を越えて市川市に入るともっと劇的に変わる。外国でもカリフォルニアのサンディエゴを南下すると何もない地帯が延々と続くのに、国境を越えてメキシコに入るや否やいきなり人家が密集する。これらの光景を見ると、社会にどのような力(引力あるいは斥力)が働くかが体感できる。中国・四国在住時代に私が広島や愛媛よりも京阪神の方にばかり行っていたのも、某岸・佐藤・安倍一族にゆかりの土地からの強い斥力を受けてのことだったかもしれない、ってこれは関係ないか。しかし10年以上もいたのに山口県島根県にはどうしても足が向かず、ようやく4年前に山口県を通過したのだった。鉄道のプラットフォームを除いて同県に降り立ったことは1986年を最後にもう37年もない。子ども時代には、あの「おいでませ、山口へ」という「や」に強勢をおいた発音が印象的なテレビのコマーシャルに日常的に接していたものだが。

 ところで今回の記事を書くためのネット検索で知ったが、兵庫県備前の東端のみならず美作の一部までも略奪していたらしいことを知った。これは古い話で、兵庫県の略奪に合わせて播磨と美作の国境も変更するという歴史修正が行われたらしい。

 

uub.jp

 

[46981] 2005 11 29日(火)16:59:37

hmt さん

地勢図で「県界変更史跡」めぐり

 

hmt 「県境」の変更

 

[46937]今川焼 さん

佐用町の北部(旧石井村・旧江川村)は明治29年までは旧美作国岡山県吉野郡)でした。

 

これは知りませんでした。

早速、20万分の一地勢図「姫路」で現状を確認してみたところ、兵庫・岡山の県界と、播磨・美作の国界とは一致していました。

 

この県界変更が行なわれた明治29年(1896)は、明治23年に公布された「郡制」が全国的に施行の時期を迎えた時代です。

兵庫県についての直接の資料は持っていませんが、埼玉県では同じ明治29年に、中葛飾郡(最近春日部市と合併した旧・庄和町など)が北葛飾郡に併合されました。

 

実はこの地域は、もともと利根川が太日川として東京湾に注いでいた時代の川筋(庄内古川、現在は中川の一部)の左岸(つまり下総側)でしたが、17世紀に江戸川の開削によって下総台地の本体から切り離されました。しかし、ずっと下総国の一部であり、明治8年に千葉県から埼玉県に移管されて中葛飾郡という名が付いてからも相変わらず下総国でした。

ところが、明治29年になると、わざわざ「埼玉県下国界変更及び郡廃置法律」によって、武蔵と下総の国界を庄内古川から江戸川に移し、埼玉県全体は武蔵国の一部になりました。

このような「国界変更」が行なわれことは、旧国が実質的な地域名称として機能していたことを示しています[36159]

 

美作国吉野郡石井村・江川村が兵庫県佐用郡に移管されたのは、これと同じ明治29年です。県界変更と同時に播磨・美作の国界も変更され、県界との一致を保ったものと思われます。

 

つまり、兵庫県内には「美作国」の地域はなく、1896年の時点では、摂津(一部)・播磨・但馬・丹波(一部)・淡路の五ヶ国でした。1963年に日生(ひなせ)町の一部(旧・福浦村)編入により備前の一部が加わった後は六ヶ国となり、首位の座を固めています。

 

旧国が既に実質的な地域名称として機能を失った戦後の県界変更になると、それに伴なって国界を変更して一致させる必要性はなくなりました。

そのために、20万分の一地勢図上ので県界と国界との不一致として「県界変更史跡」が残されることになりました。

 

備前国兵庫県備前福河[46914]は地勢図「姫路」で、丹波国大阪府の旧・京都府樫田村[31152]は地勢図「京都及大阪」で県界変更の跡を見ることができます。

越前国岐阜県になった旧・福井県大野郡石徹白(いとしろ)村[31291]は、「岐阜」と「金沢」にまたがっています。手持ちの昭和43年発行の地勢図「岐阜」を見ると、石徹白付近に白鳥町の注記はあるものの、13年も前にできた筈の岐阜・福井県境が描かれていません。

 

同じく1955年に愛知県に越境合併した旧・岐阜県三濃村の一部の「県界変更史跡」は、地勢図「豊橋」にあります。この付近を中心として、北の現県界、東の明智川、南の矢作川、西の国界(表示なし)に囲まれた範囲が美濃で愛知県です。

 

出典:明治の県境国境変更(落書き帳 記事集)

 

 大体において強い方が弱い方を飲み込むことが多いのかなとも思ったが、私自身に関わりの深い大きな例外があったことにすぐ気づいた。それは摂津国の西部が兵庫県に含まれることだ。摂津と播磨の国境は神戸市の須磨区垂水区の区境だ。

 

 上記サイトによると、

境川が国境です、現在は区境

神戸市垂水区須磨区に入ります

日本の中心であった畿内(首都圏)と畿外との境という重要な意味もあった。

須磨という地名は、この畿内の隅(スミ)がなまってスマとなり、

「須磨」の字が定着したといわれています。

とのこと。千葉県の夷隅郡を思い出した。

 

www.kobe-np.co.jp

 

 阪神間と神戸市東部には子ども時代から高校を卒業するまで十数年住んだが、旗振山には行ったことがない。神戸に行く機会があれば一度行ってみたい。なお大阪弁神戸弁の境界は住吉川だとの説があるらしい。確かに神戸人がよく言う「知っとう」(標準語の「知ってる」の意)とは大阪人は言わないが、言葉の境目が住吉川かどうかは知らない。しかし住吉川は芦屋川などと並んで水害を多く引き起こした天井川だからあり得ない話ではない。現在あのあたりには内田樹が住んでいるはずだ。

 

www.kkr.mlit.go.jp

 

 とはいえ言葉は生き物だ。今回の調べもので私が一番驚いたのは、最近の関西の若年層で標準語の「しない」を「しやん」という人が急増しているらしいことだ。

 

anond.hatelabo.jp

 

関西弁の否定表現「~へん」が消えるかもしれない?という話

三重なんだが、「来ーへん」より「来やへん」とか「こやん、きやん」とかなのでヘンも付いたりする。東からは関西弁と言われ西からは似非関西弁と言われたりしたので、チャンスだ攻めろくらいに思っておく。

2021/07/19 08:16

b.hatena.ne.jp

 

関西弁の否定表現「~へん」が消えるかもしれない?という話

まったくもって同じようなことを考えていた。最近の若者の「やん」浸透度には驚く。ただ正直、育ちが良い子は「〜やん」使わない印象あるんですよね。これなんでなんかなーって

2021/07/18 20:58

b.hatena.ne.jp

 

 後述するが、上記ブコメは誤った偏見だと思う。

 

関西弁の否定表現「~へん」が消えるかもしれない?という話

僕の若い頃は国をまたいだ言葉は「あんたの関西弁は、へん」と自らのお国言葉に立脚して否定してた気がする。神戸から京都に行って神戸に還ってくるとちゃんぽんになって「おかしい」とよく言われた。おおらかになっ

2021/07/19 23:11

b.hatena.ne.jp

 

 私は言葉に神戸弁が混ざるとコテコテの大阪人の母親に咎められた。それでいて京都に対する対抗心も強かったから困ったものだ。

 

関西弁の否定表現「~へん」が消えるかもしれない?という話

もっと西の方の「せん」ですむ地域を知っていると、「せえへん」だの「しいひん」だのなんか長ったらしいなと思うことがある。

2021/07/19 17:02

b.hatena.ne.jp

 

 少なくとも昔の阪神間(大阪も同じだと思う)は「せえへん」一本槍だった。

 

関西弁の否定表現「~へん」が消えるかもしれない?という話

私も神戸生まれで、大阪に出てきて初めて「~しやん」「~できやん」を聞いた記憶。でも私の観測範囲ではこれらは単体で聞くより、「〜しやなあかん」(〜しないといけない)という形での方がよく聞く気はしたり。

2021/07/19 11:53

b.hatena.ne.jp

 

 私は「しやん」と言う大阪人に出会ったことは一度もない。1980年以前の話だが。ただ、奈良から出てきた人が「しやなあかん」と言うのはよく聞いた。奈良弁の口真似で「奈良では『しやなあかん』てゆうねんで」などと言ったことはある。阪神間にも神戸にも山陰から来たズーズー弁の人もいたから、松本清張の『砂の器』に使われた方言のトリックはわかった。東北とは限らないじゃないか、山陰かもしれんぞと思ったのだ。倉敷に引っ越した時に来た新聞の勧誘員も山陰出身で、このあたりは人情が薄いなどと岡山の悪口を言っていた。確かに鳥取や島根は旅人にも対しても異様に親切な土地柄だとは昔からの経験で思ってはいたが*2

 

関西弁の否定表現「~へん」が消えるかもしれない?という話

三重から大阪に進学して「〜やん」が通じなくて矯正された世代としてはすごい隔世の感

2021/07/19 08:42

b.hatena.ne.jp

 

 実は三重にも1980年代に短期間居住経験があるので三重で「やん」を言うのは知っていた。大阪の大学で矯正されたというのはいかにもありそうなことだ。

 

関西弁の否定表現「~へん」が消えるかもしれない?という話

この「やん」は「やへん」「まへん」の変形なのかな。「や」と「ま」が落ちて長音に変わったと思われるのがよく聞くやつだけど。

2021/07/18 21:02

b.hatena.ne.jp

 

 上記ブコメが正解だろう。

 「せーへん」も「しやん」も、いずれも現代の標準語で言えば「しはしない」「したりしない」という意味で、原型は名古屋弁には今でも残っているらしい「しやせん」ではないだろうか。「や」が落ちて「せん」が「へん」に変わったのが「せーへん」などの北部関西弁で、それとは違って「せ」が落ちたのが南部関西弁の「しやん」だと思われる。従って、「育ちが良い子は『やん』は使わない」というのは悪しき偏見だろうと思う次第。なお京都では発音がイ段に引っ張られがちなので「しーひん」になり、大阪や神戸ではエ段に引っ張られがちなので「せーへん」になるんだろうと思う。文法的には「す」の連用形が「し」なので「しやん」の「し」が正しく(だから「せやん」とは言わない)、後半は「す」の未然形「せ」に助動詞「ず」の連体形「ぬ」から母音が落ちた「ん」なので、「や」が落ちて長音になり、かつサ行がハ行に変わる関西弁に多い転訛が起きれば「しーへん」になるはずだが、これでは発音しにくいので「しーひん」と「せーへん」に分化した。しかし「や」が残って「せ」が落ちるぶんには母音の転訛は必要ないので素直に「しやん」という。そんなところだろう。なお(私の子ども時代の)大阪や阪神間では「せんならん」(「しないとならない」の意)というストレートな言い方も多かったように記憶する。「せなあかん」(「しないといけない」の意)とも言ったが。

 実は古文は苦手中の苦手だったので、以上はネット検索で古文の文法を調べながら書いた。まあ中学校の春休みかなんかの宿題のレベルにはなっているんじゃなかろうかと勝手に思っている。

 鉄道の話からいつの間にか昔「探偵!ナイトスクープ」(大阪ABC制作のテレビ番組)でやった「全国アホ・バカ分布考」みたいな話になってしまったが、またしても記事が1万字を超えたのでこれでおしまいにする。

*1:たかまつななと某党信者(党員かどうかは知らない)のギンタは高松市の印象を悪くする二大要因として苦々しく思っている。

*2:愛媛や高知も同様だが、香川や徳島は岡山と同じでさほどではない。でも京阪神や東京などよりはよほど親切だと思うが。