kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「『上級国民』家族が背負う十字架 バッシングを激化させた情報とは?」(佐々木央)

 昨日(10/14)注目したのは、下記共同通信の佐々木央編集委員の署名記事。リンクは共同通信Yahoo! JAPANの2つがあるが、内容は同じ。

 

www.47news.jp

 

news.yahoo.co.jp

 

 この日記でも先日取り上げた阿部恭子氏が「現代ビジネス」に発表した記事を引用しつつ、佐々木記者は感想を述べている。以下引用する。

 

(前略)事件事故を担当する社会部記者として仕事をしてきて、こういう事態を知らないわけではなかったが、目を背けてきた。いや、加担してきたと認めるべきか。だが、阿部さんのリポートを読んで、メディアや個々の記者にできることはあると感じた。

 

 ■対象への接近という基本

 

 大事件や大事故の発生直後、現場は混乱し、不確かな情報も氾濫する。それに惑わされたり、拡散してしまったりしないためにどうするか。あるいはそうしてしまったとして、その後、どうするか。

 

 阿部さんを通じて加害者家族が訴える“誤情報”について、具体的な対応を考えてみた。それは対象への接近という、記者にとってはとても基本的なことだ。

 

 まず、加害者が息子に電話をかけた時刻を厳密に確認する。警察だけでなく、飯塚元院長や息子にも聞きたい。予約したという店を訪ねる。どんな店なのか。行けば、来店時の元院長の様子も聞くことができるだろう。

 

 運転を控えるよう指示したと報じられる医師にも会いたい。患者のプライバシーに関わるからハードルは高いと思うけれど、元院長や息子が許したら、話してくれるかもしれない。  そして何より、懲罰的な気持ちを捨てて、元院長や家族に話を聞きたい。

 

 本稿の最初の方で「2種類の弱者」と書いた。しかし、重大な事件が起きたときに傷つくのは被害者側と加害者側だけではない。それに比べれば、はるかに小さいけれど、社会もまた傷つき、おののく。そして、その集積は強い力を持つ。このたびの池袋事故の被告への厳しい反応もその現れだろう。

 

 加害者側の真摯な応答は、そうした傷を癒やすのに役立つと、私は信じる。  この原稿を書き終えたら、元院長や家族に会えないか、阿部恭子さんに頼んでみるつもりだ。

 

(佐々木央「『上級国民』家族が背負う十字架 バッシングを激化させた情報とは?」=47NEWS 2020/10/14 07:00; 10/14 19:34 updated)

 

出典:https://www.47news.jp/47reporters/5370514.html

 

  ところがこのような問題になると、「はてな民」も「ムラ社会」、あるいは「世間」ぶりをむき出しにする。ブックマークの多いYahoo! JAPANの方から、数少ないまともなブコメを下記に示す。

 

「上級国民」家族が背負う十字架 バッシング激化させた情報とは?(47NEWS) - Yahoo!ニュース

メディアが本来為すべき仕事を冷静に綴った良記事。大袈裟に情感たっぷりでお涙頂戴の記事を撒き散らして大衆を扇動するのはメディアの仕事じゃない。そして相変わらずブコメ欄は醜悪。

2020/10/14 16:03

b.hatena.ne.jp

 

「上級国民」家族が背負う十字架 バッシング激化させた情報とは?(47NEWS) - Yahoo!ニュース

未だに事件初期に出た「怪情報」を真実として、加害者家族を叩いてる連中がいるのが本当に救えない。同乗者がICU行きだったってこの記事にすら書いてあるのに、目に入ってないらしい。

2020/10/14 23:25

b.hatena.ne.jp

 

 

 加害者家族の問題といえば、これを題材とした東野圭吾の小説『手紙』にもこのところ繰り返してこの日記で言及しているが、作者の東野圭吾自身が「加害者家族は差別されて当然だ」と認識しているとの情報を下記読書ブログの記事のコメント欄にお寄せいただいたので、以下に紹介する。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 オーウェル

 

初めまして。ブログをいつも拝見させていただいております。
「手紙」に込められた東野圭吾の意図ですが、「加害者家族が差別されるのは当然である」というものであったと記憶しております。平野社長こそ、著者の忠実な代弁者ではないかと。
なぜ、著者の意図についていえるかと言いますと、「手紙」の初の映画化の際に、記事の中で、本人がはっきりと言っておりました。どの雑誌や書籍に乗っていたのかは、失念してしまいましたが・・・。
また、下記の2005年5月の中央公論の記事にも、大体同趣旨の内容が書かれていたはずです。
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I7307150-00
わざわざこのような事を書かせていただいたのは。同人が加害者家族などの問題に理解がある、差別に反対している、という誤解が、定説として定着しつつあるように思えるからです。

 

 東野圭吾の小説で時々思うのは、これまでにも何度か指摘したと思いますが、作中に労働問題などが取り上げられても、そのテーマが深まっていかず、その点で松本清張の小説と強い対照をなすことです。

 たとえば一般には知名度が低いであろう清張の『湖底の光芒』は、途中までドタバタを演じていた小説後半のヒロインが、最後下請けの労働者たちに思いを致すようになって印象的な結末を迎えますが、逆に東野作品では労働問題がいつの間にか雲散霧消してしまう。そのあたりの「怪しさ」がいつもつきまといます。また、『容疑者Xの献身』では、愛する人のためにあろうことか無辜のホームレスを殺すという外道もいいところの犯罪を犯しておいて「純愛」もへったくれもあるものか、あんなのに「感動」する人の気が知れないと思いました。だから、ご指摘のようなこともあり得るんじゃないかとはうすうす思っていましたが、やはりそうでしたか。

 残念に思いますし、この点は批判していなければならないでしょう。