kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「上級国民」バッシングは「世間」が仕掛けた

 こんな一件があったそうだ。

 

 

 私は、ことに昨年春以降の山本太郎が大嫌いだし、元号を冠した彼の政党を全く支持しないが、これは大阪府経を批判し、山本太郎を擁護すべき件だろう。

 しかし、下記ツイートによれば、この件で警察側に「理解」を示す、反山本太郎にして立憲民主党びいき(というより「立民信者」というべきか)の御仁たちが少なからずいるらしい。

 

 

 そういう「リベラル」がどの程度いるのか私にはわからないが、ある程度はいても不思議ではないと思う。逆の側の例でいえば、立民(あるいは旧民主時代でいえば「反小沢系」)憎さのあまり、「希望の党」騒動の時には前原誠司枝野幸男との民進党代表選で前原に軍配を上げ、最近では玉木雄一郎に傾斜している御仁もいる。実名を挙げれば山岸飛鳥という人だ。

 山本太郎を弾圧しようとした「リベラル」たちも、オザシンの山岸飛鳥氏も、ともに「世間」の人なのだと思う。かたや「『リベラル』村」あるいは「立民信者村」の住民と、「オザシン村」の住民。双方の住民とも、私は友達には絶対になれない。

 以上は前振り。一昨日以来続けている「世間」の話が本論。

 

sumita-m.hatenadiary.com

 上記記事から引用する。

 

「上級国民」という言葉が流行したとき、とても嫌な感じがした。所謂〈法の下の平等〉というのは民主社会の存立にとっては不可欠な建前だろう。しかし、その信憑性(plausibility)はあからさまに低下している。少なからぬ人が「上級国民」なる特権層を仮構して、自らを二級市民であるかのように思い込んでいる。本国にいながら、殖民地の先住民の如くであるようだ。
まあ、上からの煽りによる差別や排除というのは、殆ど常に、架空の特権(層)を構築して、劣等感などをフックとしつつ、妬み(envy)のような劣情を煽るという仕方で行わる。「在日特権」なるデマはまさにその例である。生保バッシングも然り。最近では、日本学術会議への政治介入スキャンダル*3を、かつての公務員バッシングと同様の仕方での学者バッシングで乗り切ろうという動きがある。
さて、「上級国民」バッシングは上から仕掛けられたものでもないし、特定の政治勢力によって操作されているわけでもない。謂わば自然発生的に沸き起こったものだ。或いは、「世間」が仕掛けたと言えるだろうか。さらに、質が悪いことに、この「上級国民」バッシングは、政治的スペクトラムの何処にいる人にも、右翼にも左翼にも、権威主義者にもリベラルにも、共鳴を惹き起こしてしまったということだろう。そのため、このエコー・チャンバーから抜け出すのはとても困難だ。

 

出典:https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/10/12/150801

 

 引用文中、赤字ボールドにした部分は本当に鋭いと思った。

 私も「上級国民」バッシングが始まって、多くの人がそれに乗っかった頃、なんともいえず嫌な気持ちがした。「上級国民」の検索語で自ブログ内検索をかけると、公開したばかりの記事を除くと下記の1件だけが引っかかった。昨年5月に公開した記事だ。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 以下引用する。

 

 「上級国民」の件は、「リベラル」のみならず右翼からも憤激を買っており、リテラなどは人々のルサンチマンを煽りまくっている*1。だが、私はこの流れに同調する気など全く起きない。

 その理由は、下記『週刊朝日』の記事が指摘しているのと同じだ。

 

dot.asahi.com

 

 この記事で、橋本健二早稲田大学教授が

社会活動家の声など一時期よりは建設的な意見が増えてきたが、ほとんどは意味がない。政策の変更を求めることもなく、社会的な公平性を実現するのに役に立っていない。

とコメントしている。また、田中将介記者は記事の終わりの方で

 「上級国民だから逮捕されない」といったようなことをネットでつぶやいても始まらない。

と書いている。その通りだと思う。

 

出典:https://kojitaken.hatenablog.com/entry/2019/05/12/104126

  

 だが、上記の文章は私が当時感じた「この流れに同調する気など全く起きない」理由を語り尽くしてはいない。今にして思えば、「『世間』が仕掛けた」バッシングだったからこそ、言いようのない嫌悪を感じたのではなかったか。

 sumita-mさんの記事からの引用を続ける。

 

「「加害者家族バッシング」は日本特有の現象」https://kojitaken.hatenablog.com/entry/2020/10/12/085434

 

このエントリーを読んで、思い出したのは発達障害の息子を殺した元農林事務次官熊沢英昭のこと。熊沢の娘は兄のことを口実にして縁談が破談となり、自殺している*4。私は「破談」や「自殺」のことよりも、(熊沢を含めて)みんなこの「破談」や「自殺」について疑問を感じたり憤ったりしていないということの方が不思議だった。

 

出典:https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2020/10/12/150801

  

 「加害者家族への差別」をテーマにした東野圭吾の小説『手紙』にも、兄のことを口実にして恋人との仲を引き裂かれる箇所がある。小説の中盤に当たる第三章で描かれているが、小説の中でも最も長いこの第三章は、本当に読むのが辛かったし、自分がこんな目に遭ったら立ち直れないだろうなと思った。しかし、これに類したことが実際に起きているのだ。

 小説への言及を続けると、その後主人公は白石由実子という女性と結婚することになる。彼女は、読者にとっては主人公の失恋を埋め合わせしてくれる存在なのだが、私にとっては平野社長とともにあまり好感を持てないキャラクターだった。なぜなら、主人公あるいは物語にとって都合が良すぎて、リアリティが感じられなかったからだ。「読書メーター」の感想文を見ると、白石由実子は平野社長と並んで人気の高いキャラクターだが、私の感想は彼らとは大いに異なっていたのだった。「読書メーター」あるいはアマゾンカスタマーレビューにも「世間」があるのかもしれない。

 もちろんもっと深刻なのは、おそらくは「世間」によって熊沢英明の娘が「破談」と「自殺」に追い込まれたことであるのは言うまでもない。