kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「加害者家族バッシング」は日本特有の現象

 昨日、下記記事を公開したあと、鴻上尚史佐藤直樹の対談本『同調圧力 - 日本社会はなぜ息苦しいのか』(講談社現代新書)を読了した。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

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 この本の後半に、昨日の記事で引用した阿部恭子氏に、加害者家族バッシングの問題と絡めて佐藤直樹氏が言及している箇所があったので、以下に引用する。

 

なぜ世間に謝罪するのか――加害者家族へのバッシング

 

鴻上 コロナ禍において、世間はさまざまな「敵」をつくりあげました。同調圧力によって、まさに「世間様に顔向けできない」人びとを生み出してきたのですが、そのメカニズムを考える際に重要だと思ったのは、対談の冒頭で佐藤さんが触れた加害者家族の問題です。犯罪者だけではなく、その家族がバッシングされるという話。佐藤さんはこの問題を追いかけていますね。そこで聞きたいのですが、欧米でもこうした問題は起きているのでしょうか。

 

佐藤 ないです。少なくとも日本のように家族が誹謗中傷を受けるといった陰湿なバッシングは聞いたことがありません。例えば、加害者家族支援をやっている阿部恭子さん(NPO法人「World Open Heart」理事長)が、アメリカの加害者家族と支援団体のメンバーや研究者などで構成される学会に出席したそうです。するとね。向こうではみんなスマホで写真を撮り合っていて、そのままSNSに載せるというんです。阿部さんは「活動に対する抗議はないのか」と聞いたそうなのですが、「そのような経験はほとんどない」と。そうした問題よりも、むしろ身内から犯罪者を出してしまった家族の苦しみや罪悪感を社会に理解してもらうほうが大切だというわけです。だから社会が全然無関心なのが問題なんだと、そういうことを言われたというので、阿部さんもカルチャーショックだったと著書『息子が人を殺しました』(幻冬舎新書)に書いていました。

 

鴻上尚史佐藤直樹同調圧力 - 日本社会はなぜ息苦しいのか』(講談社現代新書,2002)112-113頁)

 

 最後に読書ブログに書いたことをここでも繰り返すが、日本ではあまり注目されてこなかった加害者家族の問題をテーマにして2001年から翌2002年にかけて毎日新聞日曜版に連載されたのが東野圭吾の長篇小説『手紙』だった。

 ところが、この長篇にはある問題人物が登場する。それは、音楽活動から排除され、恋人との仲も引き裂かれた主人公が就職した、東京の江戸川区西葛西にある家電量販店の「平野社長」だ。

 この平野社長が差別を受けて苦しむ主人公に「差別はね、当然なんだよ」と言い放つ場面があるのだ。それは主人公に対して「事実を直視しろ」という励ましでもあるのだろうが、反面、差別を正当化することによって、使用者が労働者に対して都合の良い言い分を押しつけたともいえる。ところがアマゾンカスタマーレビューや「読書メーター」を参照する限り、読者の多くは主人公に対する激励の意味のみに気をとられてか、「平野社長、ありがとうございます」などと、平野社長の言葉に「感動」していたのだ。私はこれに大いに腹を立てたので、読書ブログの記事に

平野社長の言葉には、私自身を含む『手紙』の読者の大部分である「差別する側の人間」が決して軽々しく「感動」などしてはならないと私は強く思うのだ。

と書いた。それどころか記事のタイトルにも

平野社長の言葉に「感動」した人とは友達になれない

 と書いたのだった。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 平野社長の言葉は、日本の「世間」や「同調圧力」を肯定する有害な言説に過ぎない。作者・東野圭吾の意図が奈辺にあったのかは知る由もないが。ただ、小説では主人公は結局その家電量販店を辞めるし(そのきっかけも近所に越してきた同僚夫妻に兄の犯罪を言いふらされたからだった)、平野社長も主人公の退社を引き留めもしなかった。上記記事にいただいた下記コメントに記されている通りだ。

 

F-name

 

「手紙」の平野社長についての感想につき共感します。彼には悪意はないのかもしれませんが、それでも主人公は退社することを決め、彼は引き留めていないのですから。Amazonのreviewは見ていませんが、平野社長礼賛のものばかりあるなら近付かない方が良いかもしれないですね。

 

 昨日批判したオザシンが属している「世間」についていえば、安倍晋三の前に「忖度」がネットで取り沙汰されたのが小沢一派(リアル、ネットとも)だったことが思い出される。「忖度」批判は前記鴻上・佐藤の対談本『同調圧力』にも出てくる。佐藤直樹は70年安保安保で敗れた全共闘の人たちについて、下記のように喝破している。

 

佐藤 あの人たち、負けたんですよ。何に負けたかと言えば。警察や国家権力じゃなくて「世間」に。全共闘の敗北は「世間」に対する敗北です。それをかれらは全然自覚していないですよ。で、負けた後に自ら「世間」になってしまった。「世間」に飲み込まれたというよりは、自ら「世間」になった。だから抑圧してくるんです。僕も学生時代に無党派で活動していたことがありますが、官僚主義に染まった人たちがたくさんいました。ああ、こいつら「世間」なんだなあと思いました。

 

鴻上 だから、どんなに理想とか革命とか○○イズムなどを語っていても、結局日本人の根っこは「世間」なんですよね。ましてや党派なんてのは結局、組織という「世間」を守ることが至上命令になったりしますからね。

 

佐藤 連合赤軍なんか、日本軍と同じ体質でしたよね。欲しがりません、勝つまではの世界を生きていた。

 

鴻上尚史佐藤直樹同調圧力 - 日本社会はなぜ息苦しいのか』(講談社現代新書,2002)168-169頁)

 

 山本太郎のブレーンに新左翼の斎藤まさし(毛沢東主義者にして、長くポル・ポトを肯定していた)がいるし、それ以前にオザシンに新左翼あがりが多いことはよく知られている。だからオザシンやヤマシンには特に「世間」の弊害が強く表れているのかもしれない。昨日も、さるヤマシンが嘘を拡散して中西なおみ逗子市議会議員から強い抗議を受けていた。

 

 

 このように、「世間」の弊害が強まると、平気で人の道を外れた言動をやるようになってしまう。今のヤマシンは、もはやその域に達してしまっている。

 なお、「世間」といえば阿部謹也だが、佐藤直樹は1999年にその阿部謹也たちと「日本世間学会」の設立総会を開催したとのこと*1

*1:前掲書の「あとがき」(177頁)より。