kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

加害者家族を苦しめているのは「世間」の人たちだよ

 昨日公開した下記読書ブログ記事に直接関連する事例があった。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 それは、安倍恭子氏が下記「現代ビジネス」の記事に書いた件だ。

 

news.livedoor.com

 

 以下引用する。

 

【阿部恭子】「上級国民」大批判のウラで、池袋暴走事故の「加害者家族」に起きていたこと 家族は「逮捕してもらいたかった」と話す

 

2020年10月9日 6時0分
現代ビジネス

 

加害者家族の人生も激変


10月8日、東京地裁。2019年4月19日、東京・東池袋で当時87歳の被告人が運転していた車が暴走し、2名が死亡、9名が負傷する大惨事となった「池袋暴走事故」の初公判が開かれた。

 

「はじめに、今回の事故により奥様とお嬢様をなくされた松永様とご親族の皆様に心からお詫び申し上げます。最愛のお二人を突然失った悲しみとご心痛を思うと言葉もございません。また、お怪我をされ苦しまれた方々とご親族の皆様にも深くお詫び申し上げます。起訴状の内容については、アクセルペダルを踏み続けたことはないと記憶しており、暴走したのは車に何らかの異常が生じたため暴走したと思っております。ただ暴走を止められなかったことは悔やまれ、大変申し訳なく思っております」
被告人は罪状認否でこのように述べ、過失を否定した。

 

「なぜこんなことになったのか、これからどうしたら良いのか……」

 

2019年4月下旬、筆者が代表を務めるNPO法人WorldOpenHeartの「加害者家族ホットライン」に、父親が運転していた車が事故を起こし、多数の被害者を出してしまったという家族から電話が入る。

 

被害者の方々の容態が心配で、車に同乗していた母親も生死にかかわる重傷だという。何日も食事が喉を通らず全く眠れていない。言葉は少なく、憔悴しきっている様子が伝わってきた。

 

精神的に相当追い詰められている相談者に対し、筆者は精神科に行くよう促し、無事を確認するため何度か電話を入れていた。相談は匿名で、事件の詳細をあれこれ聞くことはしない。相談者が、「池袋暴走事故」の加害者家族だと判明したのはだいぶ後のことだった。


バッシングに苦しむ日々

 

「正直、逮捕してもらいたかったです……」

家族はそう話す。

 

被告人が逮捕されなかったのは、旧通産省の官僚だったからだという「上級国民」バッシングが始まった。ネット上では、「死刑にすべき」といった厳しい批判や被告人への罵詈雑言で溢れ、被告人の自宅には嫌がらせの電話や手紙が届くようになった。バッシングは被告人だけにとどまらず、「家族も同罪」「家族も死刑」といった書き込みもあった。

 

危険なのは塀の中より社会である。家族にとっては、被告人が警察署内に拘束されている方がよほど安全で気が楽なのだ。

 

ところが、ネット上では加害者の不逮捕に家族も関係した可能性があるという憶測が飛び交っていた。被告人は事故発生直後、「救急車が到着する前」に息子に携帯電話をかけていたと報道された。

 

しかし、実際、息子が電話を受けたのは事故から55分後だった。この報道によって、被告人が息子に揉み消しや不逮捕を依頼したのではないかという疑惑が生じたようである。

 

本件を報じるテレビ番組では、「フレンチに遅れる」といった「上級国民」を強調するテロップが使われバッシングは過熱したが、被告人が向かっていたのは、遅れても構わない馴染みのごく普通の小レストランであり、「フレンチ」という表現には違和感があるという。

 

「医師から運転を止めるように言われていたにもかかわらず運転していた」など、悪質性を裏付ける報道が続いたが、そのような事実はなく、車を擦ったりぶつけたりといった家族が不安になるような問題も起きてはいなかった。

 

それでも加害者家族は、罪を犯しても逮捕されない卑怯な「上級国民」として形成されつつある世論に抗う術はなかった。報道陣は家族のところも来たが、加害者家族の立場で発言しても揚げ足を取られ、さらにバッシングが酷くなるとしか考えられず沈黙を貫くほかなかったのである。

 

行き場のない処罰感情の犠牲になる家族

 

「被害者やそのご家族の気持ちを思うと居たたまれない」

 

本件の加害者家族と話をするにあたって、被害者を気遣う言葉が出なかったことはない。親子を見るたび事故のことが思い出され、胸が詰まる思いだという。

 

車に同乗していた母親は、ICU20日間入る大怪我を負った。命はとりとめたものの自らを責め続け、悲嘆にくれる毎日を過ごしている。

 

母の様子を見るたびに、事故で怪我をされた被害者とその家族も、相当に辛い思いをされていると思い心が苦しくなるという。

 

「あの事故を忘れた日はありませんし、これからも永遠に忘れることはありません」
加害者家族もまた人生を狂わされ、重い十字架を背負うことになってしまった。家族として、事故を起こした父親に対して怒りが抑えられなくなる瞬間もあるという。

 

2018年1月9日、車の暴走によって高校生一人が死亡、一人が重傷を負った事故の一審・前橋地裁で無罪判決を受けた当時85歳の男性が、家族の意向により、控訴審で有罪を主張するという異例のケースも報道されている。

 

この背景には、加害者家族に向けられる終わりなき社会的制裁が少なからず影響している。

 

加害者が高齢者で被害者が若年者であった場合は特に、世間の処罰感情は強く、加害者が厳罰を逃れるならば、代わりに家族が制裁を受けるべきというようにその矛先は家族へと向けられる。

 

甚大な被害に対して、誰かが相応の責任を取らなければ収まらない世間の処罰感情に応えるように、加害者家族が自ら命を絶つケースもあり、世の中は事件の幕引きを図ってきたのだ。

 

しかし、加害者家族が代わりに罪を引き受け犠牲になることは、一時的な世間の処罰感情を満たすだけであって事件の本質的な解決にはならない。
本件において、被告人の子どもたちは被告人に対して、影響力を有する関係にはなかった。被告人は一般的には高齢であるものの自立した生活を送っており、子どもたちがコントロールできるような親ではない。したがって、被告人の言動に対して子どもたちにまで責任があるというには無理がある。


「上級国民」バッシングは、近年、加速しているように見える格差社会の間で無力感に苛まれている人々の復讐であり、不満の捌け口にもなっている。

 

しかし、家族も含む加害者側への行き過ぎた制裁は、「被告人はすでに社会的制裁を受けている」という減刑の材料にもなり、厳罰化の主張に対して逆効果を招くことさえあるのだ。


再発防止に向けて何ができるか

 

近年、高齢者ドライバーによる死亡事故が社会問題化し、メディアも大きく取り上げる機会が増えたことから、高齢者と暮らす家族の緊張感も高まっている。事故が起こると必ず、「家族はなぜ止めなかったのか」という議論になり、家族に社会的制裁が及ぶからである。


しかし、家族連帯責任によって事故抑止を図ろうとするならば、家族関係は悪くなり家族間の暴力や虐待といった別の問題が生じるリスクを伴う。現実として、家族が日常生活のすべてを管理することは不可能に近いのである。

「何度言っても親は運転をやめない」

という悩みを抱える家族は少なくないが、子どもの言うことを素直に聞く親など稀である。医師から助言してもらうか、一定の年齢以上運転免許を停止する法律を制定するほかない。公共交通機関が未発達で、タクシーもほとんど通らないような地域もあることから、全国一律ではなく地域の実情に即した政策が求められる。

 

事件を風化させることなく、再発防止に向けた教訓を導くこと――それが今、社会に求められている役割である。

 

出典:https://news.livedoor.com/article/detail/19026987/

 

 下記はこの記事を江川紹子氏が論評したツイート。

 

 

 上記江川氏のツイートに下記の反応があった。

 

 

 さらなる反応に東野圭吾の『手紙』が言及されている。

 

 

 ところが、江川氏のツイートに噛みついた人がいた。

 

 

 これに江川氏が反論している。

 

 

 江川氏は「社会」と書いているが、私が昨日公開した前述のブログ記事で言及した佐藤直樹氏の流儀に倣うと「世間」が加害者の家族を苦しめている、ということになろう。

 

 ところが、この江川氏の反論を気に入らない某オザシンがいた。

 

 

 ああ、やっぱりこのオザシンも「世間」の人なんだなあとつくづく思う。

 私が2009年にブログの反自公の「ムラ社会」からパージされた時に、憎んでも憎み足りない首謀者の「喜八」に加担したのがこのオザシンであったことを苦々しく思い出す。

 そんな私怨はともかく、東野圭吾の『手紙』に当てはめると、確かに強盗殺人犯である主人公の兄からの手紙は、主人公の足を散々引っ張った。「加害者の家族を苦しめているのは加害者本人」だというのは前記のオザシンが言う通りだ。

 しかし、「世間」の人たちもまた、さんざん主人公を苦しめてきた。このように、「加害者の家族を苦しめているのは加害者本人」であることは、「世間」(江川氏の表記では「社会」)の人々が加害者の家族を苦しめていることと矛盾せず両立するのだから、上記オザシンの寝言は江川氏のツイートの反論になどなり得ないのである。

 やはり何年経ってもオザシンとは進歩しないものなんだなあと改めて呆れた次第。

 まあ一度『手紙』を読んでみることだな。もっとも、「世間」の人間なら平野社長の言葉に「感動」してしまうかもしれないが(笑)。

 

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