kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

谷保恵美さんの「谷保」姓は確かに珍しいが/本物のアホだった故勝谷誠彦/「ひがしの」と「とうの」

 プロ野球千葉ロッテマリーンズのホームゲームで場内アナウンスを長年務めた谷保恵美さんが今季限りで引退する件を書いた下記記事の続き。前の記事は「谷保」姓は確かに珍しいと書き、そこで切り上げていた。

 

kojitaken.hatenablog.com

 

 名字で「谷」を「たに」と読ませるのは関西に多く、関東ではたいてい「や」だ。阪神間で育った私には「谷」がつく姓の同級生が多かったが、一人を除いて全員「たに」だった。だから1970年に新人王になった中日ドラゴンズ谷沢健一の名前を初めて新聞で見た時「たにざわ」と勝手に読んでいたが、ある時中日戦(というよりおそらく読売戦)のテレビ中継を見て、初めてこの選手の姓を「やざわ」と読むことを知った。関西人の「谷沢」といえば文芸評論家にして右翼で、1980年頃に隔週で百目鬼恭三郎(1928-1991, 朝日新聞編集委員だったが当時の朝日には珍しい右翼だった)と交代で『週刊朝日』にコラムを書いていた谷沢永一(1929-2011)が思い出されるが、この人は「たにざわ」だった。

 だが谷保さんは関西でも関東でもない北海道の出身だ。北海道といえば日本ハムファイターズの新本拠地・エスコンドームが北広島市にあることから移民の地であることは明らかだから、移り住む前の地が西日本だったんじゃないかと思って谷保姓の分布を調べてみた。

 

name-power.net

 

タニホ 【谷保】4 日本姓氏語源辞典

 

石川県北海道広島県。タニヤスも含む分布。

地形。谷と好字の「保」から。石川県小松市長谷町は江戸時代に記録のある地名。同地が本拠。同地では農業に従事していたと伝える。推定では江戸時代。北海道帯広市西17条北1丁目では石川県鹿島郡中能登町良川から1924年に来住したと伝える。

広島県東広島市安芸津町木谷発祥。南北朝時代に記録のある地名。地名はキダニ。木谷の「谷」を使用。同地では「保」は保塁からで同地に戦国時代に赤崎城があったと伝える。伝承での発音はタニヤス。

東京都国立市谷保発祥。江戸時代に記録のある地名。地名はヤホ。

 

 谷保さんの読みは「たにやす」でも「やほ」でもなく「たにほ」だから、石川県からの移民の子孫である可能性が高いのではないだろうか。石川県は行政区分では東日本に入るが、文化的には京都の影響が強いから西日本文化圏に属すると思われる。

 なお「保」は好字、つまり「人名・地名などに好んで使われるめでたい文字」とのことだから、もともとは「谷」さんだったのだろう。そういえば谷姓は阪神間でも多かったが(元オリックス選手にしてあの政治関係でも悪印象の強い元小沢一郎系の谷亮子の夫である谷佳知も大阪の出身だ)関東ではあまり聞かないなと思って分布を調べてみたら、やはり京阪神や滋賀、三重、愛知など、西日本東部から中部地方にかけて多い姓らしいが、大阪と兵庫の次に多いのは北海道だそうだ。東京や神奈川にもそれなりに多いようだが、北海道の谷さんや谷保さんと同様に西日本からの移民の子孫ではないかと思われる。彼らの読みも間違いなく「たに」であって「や」ではあるまい。もっとも谷と書いて「こく」と読む姓もあるらしい。初めて知った。

 

name-power.net

 

 なお「保」がつく固有名詞として山口県の「厚保(あつ)」が思い出されるが、この場合は「保」は「好字」ではないようだ。

 

ekilove.net

 

 上記記事によると、厚保駅の近くに駅名の由来が解説された立札というか案内板があるらしい。画像と文章が載っている。以下引用する。

 

「あつ」の地名については「延喜式」によると長門国阿津、 鹿野・意福」とあり山陽・山陰の連絡路の駅家ウマヤ)の所在地を示している。

「阿」は湿地の意味で「津」は 交通位置を示す地名であったようだ。「厚保」となったのは後のことである。

「保」は公地の行政単位の庄・郷・保とあり、その「保」で「厚」を後で加えたものであるという。

又、他説によると その昔、神功皇后三韓遠征の時、兵をあつめたとので「厚保」と言うようになったと伝えられ近くに郷社・神功皇后神社がある。広島鉄道管理局発行「駅長さんの書いた駅名ものがたり」から一部分引用

 

出典:厚保駅(JR美祢線) | 駅ラブ ~鉄道駅・駅舎の画像紹介サイト・写真を多数掲載~

 

 神功皇后云々の話は出鱈目に決まっているから無視して良いだろう。

 ところで上記リンクの冒頭に「あほではありません」と書かれていたのに笑ってしまった。私が思い出したのは、かつて朝日新聞日曜版に「阿保親王」を「阿保天皇」と誤記されていたのを見て、鬼の首を取ったように「朝日が天皇を『アホ』と書いた」と大喜びした故勝谷誠彦(1960-2018)のことだ。ネット検索をかけたら2008年に私がFC2ブログに書いた記事が引っかかったので引用する。

 

caprice.blog63.fc2.com

 

とにかく勝谷の文章はレベルが低い。勝谷はかつて「さるさる日記」に書いていたウェブ日記で、朝日の日曜版が「阿保親王」を「阿保天皇」と誤記していたのを、まるで鬼の首を取ったように、「朝日は『アホ天皇』と書いている。不敬だ」と大騒ぎしていたが、あれは「あぼしんのう」と読むのである。勝谷の実家がある兵庫県尼崎市から2つ西の芦屋市に「阿保親王塚」があり、阪神間では結構有名なはずなのだが、勝谷はたぶん知らなかったのだろう。阿保ならぬアホである。その程度の人間が書く朝日新聞批判だから、程度が低いのも当然だ。

 

URL: http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-766.html

 

 弊ブログでも記事にしていたようだ。勝谷が死んだ翌年の2019年に蒸し返していた。sumita-mさんのブログに引用されている。

 

sumita-m.hatenadiary.com

 

 そういえば、問題の勝谷が馬鹿騒ぎならぬ「阿保騒ぎ」したのは千葉ロッテマリーンズが今年「アレ」を達成した阪神タイガースを「334」で鎧袖一触にした2005年だった。勝谷や「きっこ」が書いていた「さるさる日記」は現在存在しないが、当日の勝谷の日記を転載したブログ記事を発見した。下記にリンクする。

 

blog.livedoor.jp

 

 あの初鹿明博が東京都議会議員だった頃に初鹿を応援していたブログかと思いきや、実は初鹿をdisっていた人間(おそらく江戸川区在住のネトウヨと推測される。今も元気だろうか)が運営するブログの2005年7月9日付記事に、問題の勝谷の「さるさる日記」が転載されていた。以下勝谷の記事のみ引用する。

 

勝谷誠彦の××な日々。

■2005/07/09 (土) 各メディアご注目。朝日新聞の皇室価値観が暴露。

 

4時半起床。朝日新聞の購読者の皆さん。いつも読まずに捨てている『be』というあの折り込みを今日ばかりはとっておきましょう。朝日新聞の前代未聞の大誤植が楽しめますので。講読していない方は近くの駅かコンビニに走れ!(笑)。『be』には赤版と青版があるがその赤版一面の「愛の流刑地」じゃなかった(笑)「愛の旅人」で今回は在原業平を取り上げている。2面に業平を巡る系図があるのだがなんとその父親として<阿保天皇という名が!もちろんかかる天皇は存在しない。阿保親王が正しいのだがただ<親>と<天>との誤植では済まないだろう。よりによって天皇をアホ呼ばわりしてしまったわけである。昨夜このことがわかった築地は騒然とした。全国の築地機関に潜入している私の工作員たちから頻々と電話が入る。築地首脳は苦悩したらしい。その時点ならばまだ配達を止めることが出来る。これまでいくつもの出版社が皇室をめぐる誤植を起こしてきたが89年の『SPA!』を始めとしてほとんどが回収をしている。写真の裏焼きだけでももちろん即回収だ。過ちは誰にでもあるのであって問題はそれにどう対処するかなのだ。ところが朝日はここで異様な判断をした。なんと830万部をそのまま配布することにしたのである。止めれば止められたはずの<アホ天皇>が全国の家庭に配達されることになったのだ。と同時に第2社会面に小さく訂正を入れた。もちろん謝罪はなしである。9日の記事の訂正が9日に載るというのも前代未聞であう。出版社は雑誌を回収すると莫大な損害を被る。それに比べると配達前に『be』を抜くことにどれほどの手間がかかるというのだろう。日頃おべんちゃらを書いていても朝日新聞社にとっての皇室はこの程度のものだったのだ。8日は朝日の東京創刊117周年で記念式典で社長が挨拶をした。そんなことをやっている隙があるならば全社員総出で『be』を抜く作業でもしたらどうかね。ちなみにこの記事を書いた大上朝美記者は朝日歌壇を舞台に祖国の悪口を書くことに熱心だった方のようだ。http://f3.aaa.livedoor.jp/~asapy/siryou/2002senjahyo.htm。<昨年来、有事関連法案が取りざたされ、自衛艦がインド洋へ出航するなど、「次の戦争」へのいやな予感がある。きな臭さに敏感なのも朝日歌壇ならではだろう>。ご自身の誤植に対して<いやな予感>はなかったのか。明日は休刊日だそうだがこのまま逃げきれると思えば大間違いだぞ。

 

URL: http://blog.livedoor.jp/mumur/archives/27557384.html

 

 およそ18年ぶりに勝谷の糞コラムを読み返したが懐かしくもなんともない。勝谷はほんまにアホなやっちゃなあとの当時の感想が甦るだけだ。残念ながら勝谷のこのコラムが載った頃にはまだブログを開設していなかったのでリアルタイムで取り上げることはできなかった。だが後年ターゲットにした読売テレビ辛坊治郎あたりは番組で妄言を発した当日に批判する記事を公開するなどしていた。もちろんその元気は今はない。

 なお勝谷がコラムの最後にあげつらっていた朝日の大上朝美記者は、筒井康隆が1992年に『朝のガスパール』を朝日新聞に連載していた当時の担当記者だった。大上記者についてググったら、以前読書ブログの記事を書いた時にお世話になったことがあるブログの下記記事が引っかかった。

 

naokiaward.cocolog-nifty.com

 

 以下引用する。

 

 平成3/1991年、まだワタクシが直木賞に興味もなく、平穏に過ごしていた頃のことです。『朝日新聞』で連載された筒井康隆さんの「朝のガスパール」を、毎日欠かさずチェックし、また連載途中に出た『電脳筒井線』(平成4/19921月・朝日新聞社刊)などを読んで楽しんでいたんですけど、読み進めるうちに膨大な量の関連情報がまわりを流れていく、というかなり変わったタイプの小説だったので、これをきっかけに筒井さんにまつわる多くの人たちの名前を知ることになります。そのひとりが、この連載を担当した『朝日新聞』の記者、大上朝美さんです。

 

 なるほど、新聞連載は学芸部というところに属する社員が担当するんだなあ、と社会の仕組みがよくわからないながらも、おぼろげに思った記憶があります。ワタクシにとって、生まれて初めて知った文芸記者の名前、それが大上さんだったかもしれません。

 

 ちょうど連載の始まった年、筒井さんの『幾たびもDIARY』(平成3/19919月・中央公論社刊)が出ていたので、これも買って読んだところ、たまたまそこにも大上さんの名前が出てきます。宮本輝さんが朝日新聞に連載した「ドナウの旅人」のために取材旅行に出かけたときのことをまとめた『異国の窓から』(昭和63/19881月・光文社刊)という本のことを紹介するくだりです。

 

「著者に随行する一行の中で、朝日新聞の女性記者・大上朝美さんが面白い。宮本さんと、この女性が喧嘩ばかりしているのだ。

 

大阪本社学芸部のこの大上さんは、神戸のわが家にも来たことがある。実は前記した直木賞落選の夜、受賞した場合の取材に来ていたのだった。結果、落選となり、大上さんは悪いと思ったのか、おれにエッセイを頼んで帰った。(引用者中略)

 

註・この稿が『マリ・クレール』誌に掲載されたあと、当の大上朝美さんから手紙がきて、事実誤認があることを教えていただいた。直木賞落選の夜わが家に来たのは朝日新聞の別の女性記者であり、大上朝美さんが来たのは別件(新聞連載小説の打診)であったらしい。」(『幾たびもDIARY』、「一九八八年」「二月十八日(木)」の項より)

 

 ほほう、直木賞では選考会の夜、当落のわからない段階で新聞記者が候補者の家にわざわざ取材に行くものなのか。と、直木賞に対する興味がワタクシのなかでむくむくと芽生え、同時に大上さんってどんな仕事をしてきた記者なのか、さかのぼって調べるようになったわけです。……というのは、さすがにウソです。

 

 ウソはウソなんですけど、よくよく直木賞を追ってみると、平成の一時期、直木賞の受賞記事を大上さんが『朝日』に書いていたのもたしかです。昭和59/1984年に大上さんが担当した「明るい悩み相談室」から一気に有名になった(?)中島らもさんが、まさかのちのち直木賞の候補者になってしまう、という強運ももっています。

 

 いや、簡単に「運」とか言っちゃいけませんよね。中島さんの才能に早い段階で気づいた大上さんを褒め称えなきゃいけないんでしょう。

 

          

 

 大上朝美(おおうえ・あさみ)。1970年代に朝日新聞社に入社し、大阪・東京の学芸部に長いあいだ勤務。『俳句朝日』編集長だった期間も含めて平成30/2018年ごろに退社するまで、多くの文学者たちと接し、大量の文芸記事を書き残します。その全貌は明らかになっていません。

 

 とりあえずその勤続の途中で、直木賞(ともうひとつの文学賞)の取材をしていたのは、1990年代前半ごろだったようです。回数でいうと、第100回台、第110回台ぐらいに当たります。もう30年もまえのことです。

 

 どんな思いで文学賞を取材していたのか。実情はよくわかりませんが、しかし参考になるような記事がひとつあります。『朝日新聞』夕刊に署名入りで書いたコラムです。

 

「本来そうであってはならないのだが、ある賞をもらえるかどうには、「運」が相当大きく作用する。昨秋(引用者注:平成7/1995年秋)まで何年か文学賞の取材を担当していて、その確信を深く持った。

初めて賞の候補になり、いきなり無名に近いまま受賞する人もいれば、何度も候補に挙がって実力も名前も十分に認められながら、無冠に終わった人がいる。その場合、「この人の力からすると物足りない」「前の候補作の方がよかった」などと言われる。ひとごとながら「浮かばれないよなぁ」と感じたものだ。

選考委員に悪意があるわけではないだろう。やっぱり「運」としか言いようがないのだ。」(『朝日新聞』平成8/1996729日夕刊「偏西風 賞の運」より ―署名:学芸部デスク 大上朝美)

 

 まったく妥当な言いぐさです。

 

 およそ大部分は運で決まります。なのに、選考委員も運営者も、見守る記者たちも、われわれ無関係な一般読者も、きっと正確な基準があるはずだと信じて、熱くなる。それが文学賞のもっている抜群の魅力です。裏を返せば、馬鹿バカしさでもあります。

 

 さすがに大上さんは、文学賞を馬鹿バカしいと書くほど幼稚ではありません。ただ、はたから見ると権威的で、まじめで、真剣な文学賞というものに対して、そのまますんなり受け止めたくないという気持ちが、大上さんの記事のなかにはひそんでいます。前面にそれを出すわけじゃないけど、受賞したバンザイバンザイで済ませていいのかという批判の心を、読み手にも感じさせる。文芸記者の面目が躍如っています。

 

 たとえば、『朝日』の「ひと」欄です。直木賞受賞者が取り上げられるケースは珍しくありませんが、あらためて読み返してみると、大上さんの担当したものは、単なる人物紹介や発言を並べただけではなく、ユーモラスなニュアンスが採り入れられています。もちろん賞を批判しているわけじゃないんだけど、まともに称賛しない姿勢、とでも言いましょうか。他にもおそらく、大上さんの手がけた記事は大量にあるはずで、『大上朝美 文芸インタビュー集』みたいなかたちで一冊にまとめたら面白いのにな、と思います。まあ、絶対に刊行されないでしょうけど。

 

URL: https://naokiaward.cocolog-nifty.com/blog/2022/03/post-d16a74.html

 

 筒井康隆は昔よく読んだから大上朝美という朝日新聞記者の名前には昔からなじみがあるが、姓の読みが「おおうえ」だとは初めて知った。今の今まで「おおがみ」と勝手に読んでいたのだった。大上記者は東京勤務歴もあるようだが主に朝日の大阪本社にいて、だから筒井康隆宮本輝(ともに神戸市在住)との接点が多かったのか。ネット検索をかけると、確かに宮本輝の海外取材に大上記者が同行していた事実が確認できる。

 筒井康隆はついに直木賞を獲れなかった。その恨みつらみをぶつけたとされる『大いなる助走』(1979)は三度も読んだが、別にこの長篇小説が筒井の傑作だと思ったから何度も読んだわけではない。最初は1980年代に読んだが、のちに何のきっかけだったかは忘れたが文春文庫の文字が大きくなったのを機に買って読み直した。2000年代半ば頃だったと思う。最後は昨年末に読んだが、これはこの小説には松本清張をモデルにした人物が描かれていることは昔から認識していたけれども、具体的にどのように描かれているかはすっかり忘れていたので、それを確認するためだった。

 直木賞というと最近では2006年に東野圭吾の極悪ミステリ『容疑者Xの献身』に何の間違いか授与してしまったことが一大痛恨事だったと私は考えている。あれが契機になって大量の「東野信者」が生み出されてしまった。1999年に宮部みゆきが『理由』で直木賞を獲ってからしばらくの時期は、日本を代表するミステリ作家といえば宮部というイメージだったが、今ではすっかり東野にとって代わられた。しかしこの2人のファン層には大きな違いがある。2人の作品の『読書メーター』を見ていて特に思うことは、宮部作品に対しては比較的率直な感想が書かれたレビューが多いのに対して、東の作品に対しては読者の信仰告白みたいな気持ちの悪いレビューが多く、東野作品に対する批判は許さないみたいな空気が感じられるのだ。隅田川沿いに住むホームレスを何の両親の咎めもなく冷酷非情に殺害した人間を「愛する女性のために献身した」聖人であるかのようなあんな小説を平気で書ける東野という人間が、私には恐ろしくてたまらない。

 その東野圭吾の姓はもともと「とうの」という読みだったのを、東野の父親が読みを「ひがしの」に変えたものらしい。九州大学の生体解剖事件を生涯追い続けて2021年に95歳で亡くなった東野利夫氏の読みは「とうの」だった。この人については毎日新聞が何度も記事にしていたが、弊ブログでも何度か取り上げたことがある。下記は2021年4月14日に毎日のサイトに載った訃報記事。

 

mainichi.jp

 

 上記訃報記事の引用は弊ブログの過去の記事にも載せていなかったので、以下に引用する。過去に載せなかったのはどうやら有料記事のためのようだが、今回は無料部分のみ引用する。

 

医師の東野利夫さん死去、95歳 九大生体解剖事件の取材重ねる

毎日新聞 2021/4/14 17:54(最終更新 4/14 19:32

 

 太平洋戦争末期に九州帝国大(現九州大)で米軍捕虜が実験手術を受けて死亡した「九大生体解剖事件」に医学生として立ち会い、著書や講演で体験を伝えてきた福岡市の医師、東野利夫(とうの・としお)さんが13日、肺炎のため亡くなった。95歳だった。葬儀は近親者で営んだ。喪主は長男純彦(あつひこ)さん。

 事件は1945年5、6月に起き、熊本、大分県境に墜落した米軍爆撃機B29の米兵8人が実験手術の対象となった。生きたまま肺を切除されたり血液の代用として塩水を注入されたりしたとされ、全員が死亡。医学生だった東野さんは4回のうち2回に立ち会った。

 戦後にBC級戦犯が裁かれた「横浜裁判」で軍や大学関係者ら計23人が有罪判決を受けたが、東野さんは罪に問われず、検察側証人として出廷した。60年に福岡市内で産婦人科を開業し医療に携わる傍ら事件の取材を重ね、79年に「汚名『九大生体解剖事件』の真相」(文芸春秋)を出した。事件は遠藤周作の小説「海と毒薬」の題材にもなった。(以下有料記事)

 

URL: https://mainichi.jp/articles/20210414/k00/00m/040/246000c

 

 私はこの東野利夫さんに対しても一定の批判を持っていたのだった。もちろんそれは東野圭吾に対するような「ほぼ全否定」ではなく部分的な批判だ。それを、東野利夫さんの訃報に接したあとにまとめて読書ブログに公開していた。もとは2012年に弊ブログに公開した記事だったが、リンク切れなどが増えて読みにくくなったために手直しして読書ブログに公開し直したものだ。リンクを下記に示す。

 

kj-books-and-music.hatenablog.com

 

 これで、やっと谷保恵美さんの「谷保」姓が珍しいという話から、「東野」と書いて「ひがしの」と読む奴もいれば「とうの」と読む人もいるという話につながった。記事はここまで。