kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

重信房子と山本太郎と安倍晋三と

 28日に出所した重信房子、この人の悪名は50年前に新聞などのニュースでよく見たが、当時から好感など全く持ちようがなかった。

 日本赤軍の重信らのグループは、同じ日本赤軍よど号グループと比較しても決定的に悪質だったらしい。

 

 

 ところでこの重信という人、父は右翼だったらしい。そして自らも地方の自民党政治家の息子で、のちに自民党の国会議員になったさる人物と婚約していたとのこと。婚約について、重信自身が書いた文章がさるブログに転載されている。

 

meidai1970.livedoor.blog

 

 以下引用する。

 

3.婚約

 

こうした活動を通して、65年から66年にかけて、私はある大学の仲間と結婚しようと約束しました。外国に行っていた彼が帰国するのを羽田で待っていたある日のことです。たまたま隣で雑談していた、地方から息子を迎えに出てきた田舎のおじさん風の紳土が、偶然、彼の父親だったのです。彼が、通関して来合わせて、父親と知ったのですが、父親は地方の自民党のボスでした。私のことを、政治家の妻に相応しい。直ぐに手をつけろ。貧乏人でも素性はかまわんと言って、当時、定宿にしていたホテルに部屋をとったというのを、息子である、誠実で真面目な彼から聞きました。それを聞いて、無礼千万とカンカンに怒った私は、帰ったのですが、それがまた、その自民党ボスの父に気に入られてしまったようでした。そんなことを経て、二人の間では婚約することにしました。

「世の中を良くしたい、日本をかえて、もっとよい社会にしたい」。それは、父と語り合った私の願いであり、また政治家を目指す彼とも、共通の願いでした。この65年の頃には、ガンジーを語るように私には、変革の方法はあまり分からなかったし、左翼的に物事を考えていたわけではなかったのです。フィアンセと日本をより良くすることをお互いに語り合い、父親が来ると一緒に派閥のボスの屋敷にもついて行ったこともありました。

学費闘争が66年に始まると、だんだん「世の中を良くする」方法や実現の仕方において二人の間に、埋めがたい溝が出来たように感じました。私は自民党内の変革では貧しい人々は救われることはないと思いました。大学で先輩たちから習い始めた「階級」や「革命」をリアルに実感し始めていました。彼は、寛大にも、私に自分の信ずる道をすすむことに賛成だと言いました。「でも日本は、暴力革命も受け付けないし、自民党の改革以外に変化は、あり得ない」と主張していました。彼は、金持ちだったから根源的な貧しさを分かっていないなあ、そんな思いで距離が出来ていくようになりました。婚約者と会う度に論争し、論争する度に、私には、よりラジカルな革命こそ求められていると、思いを深くするようになりました。後に、こうして婚約を一方的に私の方は取り止めてしまいました。

彼は、「君が、今の左翼的やり方では、日本を良くすることは出来ないと考え直して、戻ってくるまで、待っているよ」と、笑っていました。

後に彼は父親を継いで政治家となり、議員になりました。2000年に逮捕された時、何処で聞きつけたのか、検察は、ある議員の名をあげて、婚約者だっただろう、と聞いていました。とにかく雄弁部の世界は、政治家に繋がる世界で、それもまた、当時の私にとっては楽しい世界でした。

 

出典:http://meidai1970.livedoor.blog/archives/2016-01-22.html

 

 Wikipediaには、

  • 1965年1966年頃、大学の弁論大会に出たことから知り合った、地方の自民党幹部の息子という大学生と婚約しており、相手の父親にもその性格や容姿を絶賛されていたが、政治思想の相違から別れることとなった。その人物はその後国会議員になった[3]。また、雄辯会の女子学生が珍しかったため、各大学の雄辯会の紹介で度々ウグイス嬢のアルバイトをすることがあった[3][22]

などと書かれている。いい気なものだな、とますます重信に対する反感が強まった。

 

 重信は、頭山満の孫を娘の重信メイの後見人につけたらしい。

 

重信メイの後見人は、玄洋社の総帥だった頭山満の孫で、玄洋社の流れを汲む呉竹会会長の頭山興助である。これは、重信房子の父・重信末夫血盟団事件に関与した右翼団体金鶏学院の門下生で、五・一五事件連座した頭山満の3男・頭山秀三とも関わりがあったことから、重信房子が逮捕後、頭山興助に依頼したものである[8]

 

出典:重信メイ - Wikipedia

 

 上記はWikipediaからの引用ではあるが、出典が示されている。

延江浩『愛国とノーサイド 松任谷家と頭山家』講談社2017年、236頁・245頁。ISBN 978-4-06-219693-2

とのことだ。

 

 現在49歳、重信が逮捕された2000年の時点でも27歳だった重信メイの「後見人」というのもよくわからないが、重信の父が右翼だった関係での人選だったことは間違いないようだ。

 そして、出所に合わせて発売されたされたという重信の「著書」は、なんとあの右翼出版社として悪名高い幻冬舎から刊行されているとのこと。

 

 

 重信房子自身が怪しげな「『右』も『左』もない極左」というべきか。そんな重信が日本の政党では×××新選組だけを評価していることは、さもありなんと思わせる。

 「新選組参院選の特定枠で重信房子を出馬させるのではないか」とのツイートを見かけたが、いかな山本太郎といえどそんなことをやるとは思えない。とはいえ、数年前に山本が「日本経済復活の会」*1とのつながりから私の現在の地元である東京都江東区の文化センターで講演会を開いた事実を知っている私は、「『右』も『左』もない」という共通項から、重信房子山本太郎には強い親和性があると思うものである。

 そういえば山本は、首相・岸田文雄の唱える防衛費の大幅増額に肯定的な発言を日曜日のNHKテレビ『日曜討論』でやったらしい。

 

 

 山本の発言には、多くの山本批判ツイートを発しているヒルコ蛭義氏も首を傾げる。

 

 

 しかし自主防衛論は改憲派でもある山本の持論なので、驚くには当たらないのではないか。山本にせよ立民代表の泉健太(元希望の党)にせよ地金は右派だ。

 山本の支持者たちはさっそく山本に追従しているようだ。

 

 

 そういえば重信房子山本太郎のお仲間がもう一人いた。

 ラスボス・安倍晋三である。

 

 

 

 ついにヤマシンがネトウヨとつながったか。おめでとう。

*1:積極財政派で知られる小野盛司が主宰するが、政治思想的には極右人士の集まりである。但しウェブページの更新が滞るなど、現在の活動はあまり活発とはいえないかもしれない。