kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

池田香代子さんの本

ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙

ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙

このところ、年をとったせいか、夏ばてのせいか、過去に読んだ本を思い出すことが多い。「ソフィーの世界」は、1995年のベストセラーだが、その時には読まず、2000年の夏休みに読んだ(この画像ではなく、上下巻に分かれている普及版)。この作品に仕掛けられているトリックは、ちょっと筒井康隆を連想させるものだ。

池田さんの本で最近買ったのはこれ。

やさしいことばで日本国憲法―新訳条文+英文憲法+憲法全文

やさしいことばで日本国憲法―新訳条文+英文憲法+憲法全文

この画像にはついていないが、本につけられた帯には、次のように記されている。

>>「よめる、わかる、かんがえる!」
憲法のエッセンスを「英文憲法」から新訳。
日本国憲法こそ
世界がもし100人の村だったら」の希望。
わたしたちの夢です。<<

なんでこの本を買ったかというと、少し前にフジテレビが「世界がもし100人の村だったら」を題材にした番組を、安倍晋三の宣伝に利用したことがあったからだ。池田さんの著書が、思想的に対極にある戦争屋・安倍晋三の宣伝に利用されたことがどうしても許せなくて、AbEndに参加した初期の頃から、FC2の記事にする準備をしていたのだが、1ヶ月以上も経って、鮮度が落ちてしまったので、FC2の記事にするのはあきらめ、ここに書いておく。日本国憲法に英語版があることはよく知られているが(法的に拘束力があるのは日本語版のみ)、その英語版を池田さんが新たに訳したのがこの本である。但し全訳ではなく、前文と第1条、第9条、それに第3,9,10章が「中学生でも理解できるよう」な文体で、新たに訳出されている。
特に、第9条第2項の訳文が印象に残る。現在の正文では、次のようになっている。

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」

この項の後半、交戦権を認めないという部分の英語は、下記の通り。

"The right of belligerency of the state will not be recognized."

"belligerency"とは、「交戦国であること」という名詞だ、と本の註に記されている。
これを、池田さんは下記のように訳している。

「戦争で人を殺すのは罪ではないという特権を国にみとめません」

これを読んで、あっ、と声をあげた。なんという訳だろうか。憲法第9条の鮮やかな読解である。これについては、本に収められた政治学者のC.ダグラス.ラミス氏の解説がついているので、ここに引用する。

>> おそらく、第9条で唯一むずかしい専門用語は「交戦権」だろう。政府には、これを「侵略する権利」、あるいは「戦争をしかける権利」だと、わたしたちに信じさせたがっている人がいる。そうすれば、交戦権が認められなくても自衛権は残る。しかし、これはことばの意味と違う。「侵略する権利」などというものは存在しない。侵略は国連憲章で禁止され、ニュルンベルク国際裁判で戦争犯罪として定義された。交戦権とは、その中身をほどいて見てみると、「戦争で人を殺すのは罪ではないという特権」を意味する。交戦権で守られた軍人は、連続殺人犯として、裁判にかけられることなく、何百というおびただしい人々を殺すことができる。これが戦争の法的基礎である。これなしに戦争は不可能だ。
そして、この点で第9条がまだ(かろうじて)実定法として効力を持っている。というのは、日本の自衛隊には、今日まだ交戦権はない。自衛隊が平和維持活動や米軍の後方支援で海外に送られるときでさえ、法的には個人的防衛のためだけに武器を使うことが許されている。しかし、刑法第36条、第37条に規定された正当防衛権は、日本にいるすべての人に保障されている権利であり、交戦権とはまったく異なる。このように、たとえ自衛隊が政府によって交戦地帯に送られても(アフガニスタン侵略の際、海上自衛隊が米戦艦に給油するためにインド洋に送られたときのように)、彼らには軍事行動に関わる法的権限はない。
第9条に関する多くの「解釈改憲」にも関わらず、第9条はあるひとつのことを明確に達成している。それは、第9条ができてから半世紀以上、日本国家の交戦権の下でだれも殺されていない、ということだ。しかし、もし政府がアメリカの戦争支援目的に自衛隊派遣を続ければ、この記録はそう長くは続かないだろう。<<

ここまで書いたら、やはりAbEndに載せるべきテーマであるような気がしてきた。FC2の明日の記事は、これで行こうか?