kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「グローバルスタンダード」という言葉がはやった頃

「グローバルスタンダード」という嫌な言葉がはやったのは、いつ頃のことだっただろうか。私の記憶が正しければ、1997年頃だったと思う。
その後、この言葉は和製英語だ、と指摘されたのを覚えている。ネット検索すると、工業規格などで「国際標準規格」の意味で用いられることがあるそうなので、厳密には和製英語とは言えないようだが、経済用語としては英米では用いられない、というのが事実のようだ。
しかし、90年代後半においては、「グローバルスタンダード」という単語は、経済用語として猛威をふるった。「朝日新聞」「毎日新聞」などの、政治思想的にリベラルな新聞ほどこれを好み、保守派はむしろ嫌っていたという記憶がある。
実際、グレン・S・フクシマによる「グローバルスタンダードは和製英語だ」という記事が載ったのは、1998年10月号の「諸君」。堂々たる右派系雑誌だった。当時は、政治思想的リベラルほど経済思想的には右派(新自由主義支持)で、政治思想的保守は、それに抵抗するという図式があったのだ。その名残が、小泉純一郎に対する、いわゆる「抵抗勢力」であることはいうまでもない。
だから、竹中平蔵を入閣させた小泉純一郎内閣は、朝日新聞にとっても毎日新聞にとっても(少なくとも経済思想的には)好ましい内閣だった。朝日新聞が『「竹中いじめ」の無責任』という社説を掲載したのは、2002年10月26日のことだ。
現実には、9月24日に「きまぐれな日々」のコメント欄で書いたように、小泉内閣は、政治思想では戦前の国家主義への回帰、経済思想では新古典派経済学新自由主義)の傾向を持つ、とんでもない右派政権だった(ほぼ同じ表現が、翌日の某有名ブログに載ったので驚いたが、書いたのは私の方が先だ。もっともあちらさんが私のブログのコメント欄を読んだとはとても思えないから、偶然なのだろうけど)。しかし、朝日や毎日は内閣の経済思想を、読売や産経は内閣の政治思想を支持したから、内閣を厳しく批判する新聞はどこもなかった。これが小泉内閣を長続きさせた要因の一つだったように思える。「格差社会」批判は、小泉内閣末期になってようやくなされるようになった。新自由主義批判は、90年代後半より現在の方が活発だと思う。だが、時既に遅かりし、かもしれない。
本当は、90年代末にもっと新自由主義批判が広がらなければならなかったのだ。もちろん当時からそれはあったが、現在よりずっとその声は小さかったように思う。