kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「市民感覚」なんてちゃんちゃらおかしい。そもそも、いつまでも「検察 vs. 小沢一郎」でもあるまいに

昨年3月初めに大久保隆規氏が逮捕された時には「検察 vs. 小沢一郎」はセンセーショナルだったし、私も当ブログや『きまぐれな日々』で多くの記事を書いた。私は検察と小沢一郎の両方を批判したが、検察を批判すると「小沢信者の陰謀論者」と言われ、小沢一郎を批判すると「自公政権の回し者」、「アメリカから金をもらっているに違いない」などと誹謗された。しかし、検察と小沢一郎のいずれかに一方に肩入れする人たちこそ、感情論に流されて冷静に物事を考える能力を持ち合わせていないことを露呈しているものだと思ったし、その考えは今も変わらない。

だから、昨日は小沢一郎不起訴とともに「取り調べの全面可視化」の主張を言わなくなった民主党の政治家たちを批判したが*1、今日は「市民感覚」とやらを批判する。

「起訴相当」を議決した議決書には、「市民目線」だの「市民感覚」だのと書いてあるらしいが、鳥越俊太郎がこれを批判している。

鳥越曰く、「今回の議決を読むと、『市民目線』とか『市民感覚』とか書いてあるけど、証拠とはあまり関係なく、感情的、情緒的な判断。『絶対権力者』という言葉で、『だから知らないわけがないだろう』というのも、論理的に飛躍があり違和感がある」とのこと*2

全面的に鳥越俊太郎に同感である。

そう、あまりに「感情的、情緒的な判断」なのだ。私は小沢一郎など全然支持しないけれども、小沢の黒白は事実に基づいて判断されるべきだと考える。「市民目線」や「市民感覚」なんかで感情的・情緒的に判断されたのではたまったものではない。

何より、あの「郵政総選挙」における自民党の歴史的圧勝は、「市民目線」や「市民感覚」の持ち主たちが「小泉劇場」に熱狂したところから生まれた。また、個人的な経験を言わせてもらうと、「庶民の感覚」を売り物にしてそれを振りかざしたブロガー連中のトンデモや横暴にさんざん悩まされた苦い思いが忘れられない。だから、「市民感覚」などという言葉に接するだけで虫酸が走る。

そもそも、いつまでも「検察 vs. 小沢一郎」でもなかろう。小沢一郎を「反権力」のヒーローのように持ち上げてアクセス数を稼いだ元有名エコノミストのブログが、せっかく落ち目になってきてほっとしていたのに、これではあんなくだらない連中が息を吹き返すだけではないか。普天間基地所得税を含む税制の改革、企業・団体献金、取り調べの全面可視化、環境・エネルギー問題、それに小沢一郎固執していて大問題だと私が考えている衆議院の比例定数削減の問題など、議論すべき議題は山ほどあるのに、すっかり食傷した「検察 vs. 小沢一郎」なんかで延々と騒がれては、日本の政治や社会は一歩も先に進むことはできない。

もうこんな馬鹿馬鹿しい議題に熱くなるのは止めろよ、みんな。