kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

マックス・ウェーバーの本が売れそうだね

マックス・ウェーバーがブームになりそうな今日この頃。



以下、中山元訳『職業としての政治』の10〜11ページより引用する。太字は、本では傍点が付されている。

 現代の国家を社会学的に定義しようとするならば[その活動の内容ではなく]、すべての政治団体が所有しているある特殊な手段によるしかないのです。その特殊な手段とは、物理的な暴力なのです。かつてトロツキーはブレストリトフスクにおいて、「すべての国家は暴力を根拠としている」と喝破したのですが、これは名言です*1。もしも暴力を手段として利用することがまったく知られていない社会が形成されていたら、その場合にはこれを「国家」という概念で呼ぶことはできません。その場合には国家という名称の代わりに、特殊な意味で無政府状態アナーキー)という概念を使うべきでしょう。

 もちろん暴力を行使するのは、国家にとって正常な手段でも、唯一の手段でもありません(それは分かりきったことです)。しかし暴力の行使が国家に固有のものだと言うことはできるでしょう。とくに現在では、国家とこの暴力の行使との関係がきわめて緊密なものとなっています。過去においては、氏族をはじめとするさまざまな団体は、ごく普通の手段として物理的な暴力を行使してきたのでした。しかし現在では、人間の共同体のうちで、ある特定の領域において(この領域という言葉に注意しておいてください)、正当な物理的な暴力の行使を独占することを要求し、それに成功している唯一の共同体が国家だと言わざるを得ないのです。

 これは現代に特有のありかたでして、国家以外のすべての団体や個人には、物理的な暴力を行使する権利が否定されていて、こうした暴力を行使できるのは、国家が承認した場合に限られるのです。ですから国家は暴力を行使する「権利」の唯一の源泉とみなされていることになります。

 だとすると「政治」という語は、複数の国家のあいだで、あるいは国内の複数の人間集団のあいだで、権力の分け前を求めて、あるいは権力の配分をめぐる影響力を求めて争われる営みだと定義することができるでしょう。


マックス・ウェーバー『職業としての政治』(中山元訳、日経BPラシックス, 2009, 原書1921) 10-11頁)


[おまけ]


谷垣禎一 on Twitter: "仙谷官房長官の「自衛隊は暴力装置」との発言も自衛官に対する冒涜です。革命勢力ならそのような表現を使うことがあるかもしれませんが、政権の中枢にいる者の表現としてはあまりにも不適切です。"

仙谷官房長官の「自衛隊暴力装置」との発言も自衛官に対する冒涜です。革命勢力ならそのような表現を使うことがあるかもしれませんが、政権の中枢にいる者の表現としてはあまりにも不適切です。
12:58 AM Nov 18th webから


Tanigaki_S
谷垣禎一


谷垣って間抜けだね。


さらにおまけ。


はてなブックマーク - 谷垣禎一 on Twitter: "仙谷官房長官の「自衛隊は暴力装置」との発言も自衛官に対する冒涜です。革命勢力ならそのような表現を使うことがあるかもしれませんが、政権の中枢にいる者の表現としてはあまりにも不適切です。" より。

the_sun_also_rises 学術用語も不適切だとして変更することはままある話。暴力装置なる訳語も適切でない一例だ。日本語の暴力には非合法の意が混じっているからだ。警察も軍も合法的に力を与えられている。この学術用語を変えた方がよい 2010/11/19


いや、だから非合法なんだって。国家以外が用いた場合はね。「暴力」という訳語で良いと思うよ。

*1:革命後のソ連は1918年にドイツとの間でブレストリトフスク条約を締結して、和平を結んだ。そのときにソ連側の全権大使だったのがトロツキーで、彼は「社会が闘争する諸階級から構成されるかぎり、政府の権力は力に依拠するのであり、暴力によってその支配を主張するものである」と主張したことを、当時の新聞『フランクフルト新聞』の1918年1月17日号では報じている(全集版58ページの訳注より)。=以上、中山元の訳本(日経BPラシックス, 2009年)より。