コメント欄で2010年に故仙谷由人が発した「暴力装置」の件が言及されていたので、弊ブログの過去記事を検索していたら、当時の言論状況も既に十分ひどいものだった。特に朝日新聞には呆れ返ったものだ。下記にリンクのみ示す。
上記記事からリンクした谷垣禎一の恥ずかしいツイートは、今も削除されずに残っている。この人も本当にダメな政治家だったよな。
仙谷官房長官の「自衛隊は暴力装置」との発言も自衛官に対する冒涜です。革命勢力ならそのような表現を使うことがあるかもしれませんが、政権の中枢にいる者の表現としてはあまりにも不適切です。
— 谷垣禎一 (@Tanigaki_S) 2010年11月18日
佐藤正久も恥ずかしいツイートを発していたが、佐藤にはそれを削除するだけの良識はまだ残っていた。しかしその痕跡は「はてなブックマーク」に今も残っている。
私のブコメも残っていた。懐かしい。
Twitter / 佐藤正久: マックス・ウェーバーによる「暴力装置」とは「軍隊・警 ...
- [佐藤正久]
- [自民党]
- [反知性]
- [これはひどい]
ひげの佐藤センセ、遁走しちゃったね。ひどいなあ。「脱走と追跡のサンバ」とばかり、追い討ちをかけてみたよ → <a href="http://bit.ly/dhn9hU" target="_blank" rel="noopener nofollow">http://bit.ly/dhn9hU
2010/11/20 15:37
上記記事で紹介した軍事タカ派の論客であるらしい清谷信一氏の言葉も懐かしい。以下に再掲する。
極めて強大な暴力を行使できるこれらの組織を、慎重に制御・管理するのは政治の務めである。それを「これらの組織に危険は全くないのだ、彼らの忠誠を疑うのか」と、煽るのは無政府主義者によるアジテーターのたぐいでしかない。その方がよほど危険だ。少なくともそのようなポピュリズムに走る人間は国会にいるべきではない。
もともとは朝日新聞の「Web論座」に掲載された論考だが、リンクは既に切れている。
現在の私が言いたいのは、暴力装置は何も自衛隊(軍隊)だけではないということだ。政治権力もまた暴力装置なのであって、だから政党の支持者といえども支持政党の執行部に対して一定の緊張関係が必要だと弊ブログが強く訴える次第。
私は下記の文章で記事を締めくくった。当時の文章には読点が多すぎていささか読みにくいので、引用に当たって一部読点の省略などを行った。あとでそれに合わせて元記事も修正したい。
それにしても、軍ヲタの論客・清谷信一氏の方が物分かりの良いリベラル諸氏(笑)よりよほど冷静だと感心した。こんな状況でも「言い出したのが変な先入観を持たれている仙谷だからいけなかった」とか「暴力という訳語は不適切だ」などと、妙に自民党にすり寄る「物分かりの良い」リベラル諸氏というのは本当にサイテーだ。
むしろ仙谷(と菅直人)が犯した最大の誤りは、簡単に発言を撤回して謝罪したことである。
出典:https://kojitaken.hatenablog.com/entry/20101120/1290236575
ああ、昔からいたんだね、こういう「リベラル」が。
朝日は菅直人政権時代には結構「右」から民主党政権を叩いてたみたいだね。まあ船橋洋一に加えて曽我豪なんかもいたから(曽我は今もいるかもしれないが)さもありなんではあるけど。
間抜けな極右議員として私が認識する城内実は遅れてこの件に参戦したようだ。
弊ブログの下記記事にいただいたコメントを以下に引用して記事を締める。
はんわか
匿名意見
>はんわかさん
当時の仙石さんはウェーバーのいう国家による合法的な暴力の独占を念頭において自衛隊を暴力装置といったまでであるようにみえますが、暴力装置(Gewaltapparat)という概念自体は社会学上の価値中立的なものだと思います。自衛隊を肯定も否定もしていません。もともと大騒ぎするような話ではないのです。
日本人の心構え云々ではなく、団塊の世代から下は単に教養のレベルが急落しているという現実があるだけではないでしょうか。私の世代だってウェーバーもマルクスも読まずに生きている人が大半です。
まずは厳密に定義された概念をもって各人が人間行動や社会を認識するという段階を踏まないと、政策や政局に関しても有効な批判や立論には至りえず、当然きちんとした議論ないし相互批判も起こりません。
僕は立民や共産の支持者における大勢的な沈黙をみて、日本人は現実を認識して議論するという心構えのずっと前の地点において、もはやそのような「能力」を失っているのではないかという疑念を抱いています。
合法的な暴力の独占がなければ国家は成立しないという事実、慣習的に定まった言葉の意味内容を勝手に変えてしまえば言語によるコミュニケーションは成立しないという事実、こういった大事な事実を踏まえずに我々はいったい何を認識し主張することができるというのでしょうか。
その意味で、僕の懸念ははんわかさんより深いかもしれません。人文社会科学は扱う対象が複雑であるために一義的な結論を導くことができないという側面があるのはたしかです。しかし、だからといってそこで培われてきた認識のための作法や手法や概念を顧みることがなくなるなら、それによって生ずるのは「見たいように物事を見、思いたいように物事を思う『小さな』独裁者の群れ」です。
以上のような僕の主張が人びとが声を上げることを抑制してはならないことはもちろんですが、社会と政治に関わる以上、あるいは関わらざるを得ない以上、人文社会科学的な認識を「志向し続けろ」と、はんわかさんよりも強い要求を国民には向けたいですし、kojitakenさんにも「期待する」のみならず、「言うべきと思ったことは言う」(聞くべきと思ったことは聞く)という態度をとることが重要と考えます。
あっ、でも、これははんわかさんが既にとられている態度ですね。すみませんでした。僕は今の言論状況が無性に腹立たしいのです。
弊ブログはコメント欄での意見のやり取りは大歓迎です。もっとも、某暴犬のように挑発と罵倒だけしか能のない人間はシャットアウトしますが。
ブログ主様へ
>私が苛立っているのは、泉のように権力者が権力を揮っている冷厳な現実があるにもかかわらず、「泉さんはそんな無慈悲なことをする人じゃない」とかなんとか言って信者的な反応を示す人があまりにも多いことです。
思い出したのが、某政治家が自衛隊を暴力装置と表現して叩かれた事例です。
暴力装置と呼ばれうる存在が身近にあるのは居心地が悪いのは理解できるが、負の側面を無視して管理できない。
そして、旧軍や原子力行政の迷走にまで思いを馳せると、政治家の負の側面も無視するのが一般的な日本人なのかなという印象です。
まあ、救いの兆候はあって
某党の某候補の尻をネット上で率先して叩いていたら他の支援者も言うようになって、結果として彼は善戦しましたからね。
いろいろな場で、そういう事例を増やせば意識も変わってくるのかなと思います。
ブログ主様に頑張っていただきたい。