kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

一昨年の衆院選以降に泉健太がやってきたのは「希望の党による立憲民主党の乗っ取り」だ。泉は党内での権力奪取までは成功したものの、その後の展望が開けず行き詰まりつつある。

 とぶとかげズ氏のツイートより。

 

 

 基本的に上記ツイートに同感だ。上記ツイートで批判されている、若年層に属するらしい立民党員のツイートには共感できないものが多い。

 ただ、若き立民党員氏はもしかしたら西欧の福祉国家パターナリズムを見ていて、1955年から73年までの日本の高度成長期において自民党福祉国家路線をとらなかったことを肯定的に評価しているのではないかと思った。そう考えれば氏が立民の泉体制に肯定的なスタンスをとる、もっと露骨にいえば立民の維新へのすり寄りを肯定的にとらえていると思われることと整合する。

 福祉国家パターナリズムととらえる論者として池田信夫(ノビー)がいる。下記は政権交代選挙直前の2009年7月にノビーが書いた記事へのリンク。

 

agora-web.jp

 

 以下引用する。

 

具体的な政策も、農家への所得補償や子供手当などは、民間企業が稼いだ所得を政府が再分配する、自民党と同じパターナリズムです。雇用問題についても、派遣労働の禁止など、厚生労働省の家父長主義をそのまま受け継いでいる。公務員制度改革についても、今国会で流れてしまった公務員制度改革が、民主党政権で成立するのかどうかも危ぶまれています。彼らの最大の支持団体である官公労が反対しているからです。

 

出典:https://agora-web.jp/archives/691375.html

 

 なんのことはない。ノビーは単なる新自由主義者なのだ。

 若き立民党員・masa氏の立ち位置もそのノビーとほとんど変わらないのではないかというのが私が持つ疑念だ。

 高度成長期の自民党政権の政策についていえば、政権がモデルとしたのは男性のサラリーマンが一家を支え、専業主婦の妻が夫を支える家庭であり、これは典型的なパターナリズムだ。

 一方政府は社会保障や福祉への支出をできるだけ行わず企業に任せる。これは「小さな政府」志向の政策であり、masa氏はこれを「本質的にパターナルでは必ずしも無かった」として評価しているのではなかろうか。

 最近はあまりネットでは流行らないようだが、2000年代後半の一時期には「ポリティカルコンパス」というのが流行った。以下Wikipediaから引用する。

 

ja.wikipedia.org

 

ポリティカル・コンパス英語political compass)は、政治思想の傾向(政治的スペクトル)を点数化して二次元座標に表したもの。

概要[編集]

最初にこのような趣向を取り入れたのは、1970年書籍"Floodgates of Anarchy"(著者:アルバート・メルツァースチュアート・クリスティー)であるが、ポリティカル・コンパスという語は同名のウェブサイトにちなむ。このサイトでは、政治思想を、経済(左派の管理経済、右派の自由放任経済)と社会(権威主義非権威主義)に分け、その二つに関する択一式の質問を行う。あくまでアメリカの政治思想が基になっているため、中絶反対は右派国営企業賛成は左派となる。質問の答えには点数が割り振られており、各回答の点数を集計して数値を座標上に表示する。

 

出典:ポリティカル・コンパス - Wikipedia

 

 政治思想は2次元グラフにプロットされるが、横軸が経済、縦軸が社会に関する。左右で表される経済軸では管理経済を「左派 (left)」、自由放任経済を「右派 (right)」と表記する。上下で表される社会軸では、"authoritarian"(権威主義者)を上、"libatarian" を下としている。ここから早くも紛らわしさが生じる。なぜなら、一般的にリバタリアンとは経済政策と社会政策の両方で自由を追求する思想だと定義されることが多いからだ。ところがこの思想を持つ人はポリティカルコンパスの経済軸では "right" になる。その混乱を回避するためだろうか、上記Wikipediaでは "libatarian" に「非権威主義」という訳語を当てている。また日本版ポリティカルコンパスでは "authoritarian"  を「保守」、"libatarian" を「リベラル」と訳している。もとの英語版でも上を "conservative"、下を "liberal" とでもしておけば良かったのにと思うのは素人考えに過ぎるだろうか。

 で、masa氏の言う「パターナル」がポリティカルコンパスの "authoritarian" に当たるのか、それとも経済軸上の "left"、つまり管理経済を「パターナリズム」と言っているのかがわからないのである。

 高度成長時代の自民党政権の政策は、疑いなく経済思想では真ん中よりも右寄り、というのは高度成長期末年の1973年に当時の日本国総理大臣だった田中角栄が「福祉元年」を政策に掲げるまではかなり右寄りだったし、その後もついに福祉国家になることなく現在に至っている。そして社会軸ではゴリゴリの "authoritarian" に当たるだろう。

 泉健太は社会軸においてはそれよりはかなり「リベラル」つまりかつての自民党よりも下だろうが、経済軸上では高度成長期の自民党政権よりもさらに右寄りではないかと思われる。「維新八策」に大部分共感できると自分で言っているのだから間違いない。日本版ポリティカルコンパスの表現だと泉の立ち位置は「リベラル右派」になるだろう。

 もちろんmasa氏がそういう主張をするのは自由だが、2017年の政局で希望の党よりも旧立憲民主党を選んだ人たちがmasa氏の主張に何の反論をせず受け入れてしまって良いのだろうか。それが私が持つ強い疑問である。

 なお民主党及びそれから派生した政治家では、小沢一郎自民党から自由党時代には「保守右派」だったが、民主党代表に就任して「国民の生活が第一」というスローガンを掲げるようになったあとは「保守左派」に転向したといえるだろう。山本太郎も小沢と同じ「保守左派」に位置づけられる。一方、本来なら「リベラル左派」を目指したはずの政治家が菅直人だったが、残念ながら総理大臣時代に初志貫徹できたとは言い難い。菅が唯一結果を出したのは東電原発事故以降の脱原発政策においてだったと私は考えている。枝野幸男は長らく(現在の泉健太と同じく)「リベラル右派」だったが、今世紀に入ってからのいつの時期かはよくわからないが「リベラル左派」に転向した。だから小池百合子に「排除」されたわけだ。特に旧立民の立ち上げ時には、政治家は支持者の意向に反する政策をとれないという理由によって(と私は考えているが)枝野は「リベラル左派」政党*1という党の性格を鮮明に示さざるを得なかった*2。一方、2017年に前原誠司小池百合子とともに立ち上げた「希望の党」は経済軸においてはゴリゴリの「右派」だった*3

 そして2017年の有権者は「右派」政党よりも「リベラル政党」を選んだ。この政党は従来維新に投票していた人たちからもかなりの票を奪った。それが選挙結果だった。この結果には小池百合子と前原や細野豪志らに「排除」された政治家たちへの同情票が相当あったことは否定できないが、それでも民意を反映したものだと思われる。少なくともこの衆院選の直前まで前原や細野、それに長島昭久馬淵澄夫らが言っていた、「民進党は左に寄り過ぎているから票が得られない」という主張が誤りだったことがはっきり示された。

 その民意は今も、少なくともさほど大きくは変わっていないはずだというのが私の意見である。

 では、一昨年の衆院選前から現在までの間に泉健太がやったことは何だったかというと、周囲戦敗北の責任を取って辞任した枝野のあとを受けて立民代表に就任すると、それまで旧立民系がほぼ全部を占めていた都道府県連会長をわずかながら旧民民・希望系を多数にするドラスティックな人事異動を行い、代表選で自ら掲げた公約に反して衆院各選挙区の総支部長の早期再任をやらずに今まできた。これを一言で言えば「希望の党の人間である泉健太による立憲民主党の乗っ取り」である。しかし泉の新体制で臨んだ昨年の参院選で立民は大量の比例票を失って惨敗した。それにもかかわらず泉は「何とか踏みとどまった」と称して代表辞任を拒み、その後に逆噴射するかのように維新に急接近した。その間、安倍晋三の射殺を機に自民(や維新)が統一教会との癒着を追及される運にも恵まれて昨年11月までは政党支持率を微増させてきたが、12月以降はそれも失速して、現在は政党支持率急落の局面にある。つまり泉らは「希望の党」による立憲民主党の乗っ取りまでは成功したものの、そのあとの展望が開けず行き詰まりつつあるのが現状ではないかということだ。たとえば現時点でもまだ衆院岐阜5区総支部長である今井瑠々のように泉が見込んで特別な待遇を与えた人間にまで泉は見限られてしまった。

 2017年の衆院選で示された「右派の野党第一党よりも『リベラル左派』の野党第一党を求める」民意が今も変わっていないと仮定すると、泉の失速はこれまで彼がやってきた権力工作の必然の帰結であるとしか私には思えない。所詮それは民意の支持が得られるはずもないものだった。

 それでもなお立民の支持者たちは泉健太を支え続けるのですか、と言いたい。特に2017年の衆院選希望の党ではなく立憲民主党に投票した人たちには、本当にそれで良いんですかと聞きたい。

 立民の支持者でもない人間が何言ってるんだと言われればそれまでだけれど。

*1:但し経済軸上において共産・社民両党ほどには「左」でなかったことはいうまでもない。

*2:本来の枝野自身の経済政策はそれより若干右寄りではないかと私は疑っているが。

*3:社会軸においては前原誠司はリベラル寄りだが小池百合子はゴリゴリの保守である。