社民党員のまことん氏がリツイートした下記ツイートに大きく頷いた。呟きの主は社会党時代からの社民党員の方とのこと。
リベラルは自由主義で、個人の自由を重視します。対立するのは国家主義とか宗教権力です。かつては社会主義や共産主義とも敵対していました。
— o_tsuka#NoWar (@o_tsuka) 2023年2月9日
左翼(公共・平等重視)でリベラルっていうのは、今の日本だとグリーンズとか、社民・立憲・あと生活クラブ生協の一部、くらいじゃないかな、と覆います。 https://t.co/Ol8Mi50C0x
リベラルというのはアメリカの政治学だかの言葉だそうだが、上記ツイートは権威主義対自由主義の思想軸に沿って「個人の自由を重視する」のがリベラリズムだ。
ややこしいのは、ポリティカルコンパスでも「右派」対「左派」と訳されている経済思想に関しても自由という言葉が出てくることで、公共や平等を重視するのが左派、自由放任経済をよしとするのが右派になる。新自由主義(ネオリベラリズム)という言葉における「自由」はこちらを指す。
つまりリベラリズムとネオリベラリズムとは言葉は似ているが全く異なる概念なのだ。両方の自由を追求する立場もあり、それはリバタリアニズムと呼ばれる。
世にいう「リベラル左派」という言葉も混乱しやすい。「リベラル・左派」というと社会軸上の自由主義と経済軸上の左派とを足し合わせた概念になり、要するに「保守右派」つまり権威主義者にして自由放任経済論者である人たちを除く広い概念になる。弊ブログにしばしばコメントをいただくカーマインスパイダーさんのように(失礼ながら)社会軸上ではネトウヨそのものでありながら経済軸上では左派という方も、また立民支持層などに多い思想軸上では自由主義だけれども経済軸上では維新に親和的という泉健太のような立場も含まれる。一方「・」を取り除いて「リベラル左派」といえば、これはポリティカルコンパスにおいて「自由主義」かつ「(経済)左派(=公共・平等重視)」の範囲に限られるため、カーマインスパイダーさんも泉健太もこの範疇には入らないことになる。私は経済軸上においてかなり強度の左派であるとともに、社会軸上においては非常に強度の自由主義者であり、それに由来して大の反権威主義者でもあるので、id:bogus-simotukareのような極端な権威主義者とは全く相容れないわけだ。
以下は氏に対するお願いだが、お互い絶対に相容れない立場なのだから、idコールはいい加減に止めてもらいたい。はてなにはidコールをブロックする機能がないため、毎日毎日二度も三度も(日によってはそれ以上も)idコールを受信させられて大いに迷惑している。いくら熱心にidコールをされたって、私には氏の記事など読む必要など全く認めないのだから無駄だ。いつまでもidコールを止めてくれないのであればはてなに問い合わせたいと考えている。いつまでもidコールで粘着しないでいただけないだろうか。もちろんそちらの記事に私の悪口をいくら書こうがかまわないから。
なお、先日批判した「道産子ナオ(旧りっけんナオ)」氏のようなかつての「リッケンカルト」や山本太郎に盲従するヤマシン(山本太郎信者)たちを私が蛇蝎のように嫌うのも、彼らが大の権威主義者だからだ。また、経済軸上では私に近いと思われる長谷川羽衣子を激しく嫌うのも、氏が権力工作大好き人間ではないかと強く疑われるからである。権力工作大好き人間といえば泉健太も同じ範疇に入ると私はにらんでいる。前にも書いたが2人にはともに少数派から党内での権力者に成り上がった、あるいは成り上がろうとしているという共通点がある。
そんな「リベラル左派」は「今の日本だとグリーンズとか、社民・立憲・あと生活クラブ生協の一部、くらいじゃないか」、うーん、そんなものですか。しかも立民の場合は明らかに党の多数派じゃありませんしね。党員には3分の1程度、国会議員には2〜3割くらいしか「リベラル左派」なんていないんじゃないですかねえ。橋本健二氏の調査結果から類推して、立民に投票する無党派層の間では過半数じゃないかと考えてますけど。そうでもなければ2017年の衆院選で旧立憲民主党が躍進した理由が説明できません。
そうそう、危うく書き忘れるところだったが、リベラリストの経済学者として私がいつも思い浮かべるのは宇沢弘文だが、宇沢は東大で河合栄治郎の流れをくむ木村健康(たけやす)の弟子筋にあたる。戦前の東大経済学部では右翼、リベラル(河合栄治郎ら)、左翼(大内兵衛らの労農派系マルクス主義)の3派が派閥内権力抗争を展開していたが、右翼と左翼が手を組んで河合らリベラルを攻撃したこともあったそうだ。10年ほど前に読んだ立花隆の『天皇と東大』に詳しく書かれていたのを興味深く読んだ。そんな時代の再来だけは真っ平御免だ。
最後に、下記記事にいただいた「匿名意見」さんの2件のコメントをまたまた紹介する。この方のコメントにはいつも教えられるところが多い。
匿名意見
匿名意見
>カーマインスパイダーさん
僕もさる地方都市で暮らしています。東京と地方の格差もさることながら、地方のなかでの格差もまた凄まじいものがあります。
県庁所在地は外資系のホテル等も進出してきてそれなりの賑わいを見せていますが、隣りにある県内第2の都市の駅前はシャッター街でとても寂しいです。
人は絶対的な窮乏よりも身近な格差に苦しむ存在なのだとは確かに思います。グローバル資本主義に親和的でリベラルな理念のみに関心を寄せる層に苛立ちを感じる気もちもわかります。
その一方で、婚外子差別の撤廃やシングルマザーの子育て支援等、リベラルな理念にも適い、格差も是正し、かつ、この場合は少子化に歯止めをかけることを通して国民経済の底上げに資するような個別的な政策もあると思います。高等教育無償化、できれば奨学金免除もいち早く実現すべきだと思ってます。
ともあれ、共産党に一定の期待を寄せているのは僕も同じです。いつの日か左派が復活する日が来るといいですね。
ポリティカルコンパス上では明らかに「保守左派」に入るカーマインスパイダーさんに対しても切れずに対話する姿勢は大いに見習いたい。
とはいえid:bogus-simotukareと対話する気は一切ありませんけど。私は氏が「老害」と罵る通りの年寄りですので、限られた時間は有効に使いたいと強く念じるからです。
自分はこの度の共産党の所業には正にドン引きしています。
仙石さんの発言については暴力装置という言葉に過剰反応して自衛隊に対する文民統制のあり方という本質的な問題を直視することができなかった国民にドン引きしました。
これに対して、この度の共産党の除名処分については、民主集中制に関する知識の有無・程度はともかく、党が固有の論理にもとづいて党首公選制等を主張した平の党員を除名したという骨格部分の事実に対する認識はおおむね行き渡っているように思われ、支持・不支持の前提となる国民の評価が問われる局面に至っていることは否定できないように思います。
「民主」集中制といっても、刻一刻と変化するすべての事項に対してその都度に党員の集合的意思を形成することはおよそ不可能であって、過去に形成された党の意思が構成員を支配するという側面を払拭することが原理的に不可能である以上、手続の定め方、運用の仕方によっては党員に対し過酷な統制を及ぼすことになるのは見え透いた道理です。「民主」という言葉が擬制的なものでもあることはロックやルソーの時代から既に意識されていたことです。
まず、リベラル浮動層を自認する者の感覚からすれば、除名された党員が何時意見を表明するかは自由なはずです。
つぎに、党内での意見表明を経ずに外部で持論を公表したことをとらえて、田村智子さんまでが「撹乱・攻撃」という大げさな言葉を用いていますが、万が一本当であったとしても、そのことが除名の要件である「分派」の形成につながるとは必ずしも思われません。先にコメンテーターさんが仰ったように党内での議論、個々の議員の動きおよび処分の過程が可視化されるべきでしょう。
最後にそもそも、「分派」の形成を除名の要件とし2000年からもう時期四半世紀が過ぎようとする現在においてもこれが死文化していないことにも驚愕しています。党運営の継続性を強く志向するであろう強力な官僚制的中央機構を備えた党内において、斬新な意見を表明しかつ実現するためには仲間を作って多数派形成に乗り出す必要があるのは自明なことであって、このような動きにも適用可能な「分派」という文言を究極的な処分である除名の要件としていること自体、共産党の本質が自由な意見表明を許さない反民主的なものであることを示すものと受け取られても仕方がないと思います。
私も当面、共産党には投票しません。地域柄、維新を落とすために自民に入れることはありますが、独裁的体質が疑われる少数野党に大切な一票を入れる気にはどうしてもなれません。