kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

日本社会党が「民主集中制」の文言を規約から外したのは1991年だった

 まことん氏のツイートより。

 

 

 先日(2/5)、くろかわしげる氏が社会党が1990年代初めまで規約に民主集中制を掲げていたことをツイートで指摘していた。

 

 

 この件についてちょっと調べてみたが、1964年の規約が1991年春まで生きていたもののようだ。その前の1955年の規約には「民主集中制」の5文字はなかった。

 

 

 以下1964年規約より。

 

第三章 組織

第十四条 党の基本組織は中央本部、都道府県本部(以下県本部)総支部支部であり、基礎組織は支部である。

  支部は総支部に、総支部は県本部に、県本部は中央本部に統一され、組織原則は民主集中制である。

 

 それが1991年規約では下記のようになっている。

 

第三章 組織

第十四条 党の基本組織は支部-総支部-県本部-中央本部であり、基礎組織は支部である。

 

 社会党が規約から「民主集中制」の文言を外したのは1991年だった。それ以前の社会党が鉄の掟で運営されていたわけではないが、1977年に江田三郎の離党劇があった。当時家で購読していた毎日新聞は連日大きく書き立てたが、論調は江田三郎擁護・社会主義協会批判だった。朝日新聞は読んでいなかったので知らないが、少なくとも毎日に関しては現在の共産党松竹伸幸氏除名問題と相似形だ。なお江田三郎は前年の1976年12月に行われた衆院選で落選していた。

 

 再びくろかわ氏のツイートより。

 

 

 そういえば1977年を最後に社会党の「路線論争と派閥抗争をマスコミが取り上げなくなった」ように思われる。それから実に46年が経過した。もうすぐ半世紀になる。

 

 下記はくろかわ氏のあるツイートからリンクされた江戸西氏のツイート。

 

 

 これなんだけど、実は民主集中制の本来の理念に沿った規定のようだ。

 

kotobank.jp

 

 以下、加藤哲郎氏の執筆になる日本大百科全書(ニッポニカ)「民主集中制」を引用する。

 

日本大百科全書(ニッポニカ)民主集中制」の解説

民主集中制
みんしゅしゅうちゅうせい
Democratic Centralism

 

共産主義政党および社会主義諸国家において公式の組織原理とされたもので、民主主義中央集権制ともいう。自由主義的分散主義と官僚主義的集権主義の双方と異なり、民主主義の原則と中央集権主義の原則とを統一したと称される論争的概念。典型的には、スターリン時代の1934年にソ連共産党規約に明記され、各国共産党規約に採用された、〔1〕党の上から下まですべての指導機関の選挙制、〔2〕党組織に対する党機関の定期的報告義務制、〔3〕厳格な党規律と少数者の多数者への服従、〔4〕下級機関および全党員にとっての上級機関の決定の無条件的拘束性、の原則をいうが、その実際の運用にあたっては、「党内民主主義」を制限し、共産主義政党の国民に対する閉鎖性・抑圧性を印象づける現実的機能をも果たした。そのため1989年東欧革命前後に、イタリア、フランス、スペインなどの共産党民主集中制を放棄して変身をはかった。

 

 もともと歴史的には、民主集中制は、ロシア社会民主労働党(今日のロシア共産党の前身)が、1905年革命の過程で、党内のメンシェビキ派とボリシェビキ派を統一する原理として形成された。当時の西欧社会主義政党ドイツ社会民主党など)は、おおむね「民主主義」を組織原理とし、ロシアの革命組織はツァーリ専制下の非合法秘密結社として「集権主義」的特徴をもっていたから、この1905年革命期の民主集中制採用は、ロシアの党組織における西欧風「民主主義」(指導部選挙制、党内公開討論など)導入を意味しており、1906年の両派合同大会で党規約にも明示され、ボリシェビキ派のレーニンはこの内容を「批判の自由と行動の統一」とまとめあげた。12年にメンシェビキとの分裂が決定的になり、17年の二月革命十月革命のさなかでも、民主集中制は基本的に党内の「批判の自由と行動の統一」として機能した。

 

 しかし、革命勝利後の内戦と干渉戦争のなかで、またソビエト権力における共産党ボリシェビキ)一党支配の事実上の成立によって、民主集中制は第10回党大会(1921)の「分派の禁止」決議と結び付き、「一枚岩の党」「鉄の規律」「軍隊的規律」「上級の決定の無条件の実行」といった「集権主義」的契機を強調するものとなり、これがコミンテルンの「加入条件21か条」にも明記されて、各国共産党を拘束する組織原理へと国際化された。また、一党制による党と国家の癒着を媒介として、党のみならず労働組合など大衆諸組織の組織原理に、中央政府と地方行政組織など国家機構の組織原理に、また計画経済の運営原理や社会全体の編成原理へと普遍化されていった。1991年に崩壊したソ連では、憲法民主集中制を国家組織原則として明記していた。

 

 この概念が論争的であるのは、特殊にロシアの革命組織から生まれたものであり、その国際化の過程で「党内民主主義」を制限する集権的原理として機能し、1989年東欧革命で民衆により打倒された「現存社会主義」の国家・社会秩序を正統化する党派的色彩を帯びてきたからである。

加藤哲郎

 

出典:民主集中制(みんしゅしゅうちゅうせい)とは? 意味や使い方 - コトバンク

 

 つまり民主集中制はもともと「批判の自由」と「行動の統一」とがセットだった。だから共産党規約の3条4項と同5項とは両立する。しかし「行動の統一」から派生した「分派の禁止」決議が大きな意味を持つようになった結果「批判の自由」の保障が怪しくなっていった歴史的経緯がある。実際、ソ連スターリン、中国は毛沢東北朝鮮は金一族、カンボジアポル・ポトの暴走をいずれも止められなかった。だから民主集中制を批判する時にしばしば「集中集中制」(になってしまっている)という言葉が使われる。現在話題の松竹氏の騒動に関しても、日本共産党志位和夫小池晃の暴走を止め得ていないように見える。

 

 くろかわ氏は前記江戸西氏のツイートをリンクして下記のツイートを発信した。

 

 

 今回の騒動は、早期に志位・小池氏ら共産党執行部の暴走を止められなければ共産党は1977年以降の社会党の凋落劇を繰り返す可能性が高い。

 「二度目は笑劇として」かどうかは知らないが。