kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

社会は〝団結=行動の統一〟を生み出すことができないのか、土井洋彦書記局次長の「一部の疑問に答えて」について、共産党党首公選問題を考える(その3)(『広原盛明のつれづれ日記』)

 タイトルと関係ない前振りから始めるが、×××新選組はもはや組長の山本太郎自身が末期的な症状を示しているようだ。

 

 

 最近、新選組共産党とは似ているところが多いなあと思う。最大の共通点は、ともに意思決定のプロセスが至って非民主主義的であることだ。共産党の場合は「民主集中制」が実質的に「集中集中制」になってしまっている。しかし、これは痛みを伴う大掛かりな組織改革によって困難ではあるが解決可能な課題だと思う。一方、新選組の場合はそもそもが山本太郎のカリスマ性によって成り立っている政党であり、いずれ消滅する運命にあろう。山本には「お山の大将」の気質が多分にあり、組織づくりなどそもそも念頭にないように見える。

 共産党に関しては広原盛明氏が26日付で新たな記事を公開した。

 

hiroharablog.hatenablog.com

 

 以下に記事の前半部を引用する。

 

 このところ、少し共産党機関紙「赤旗」の論調が変わってきたのかもしれない。2月25日付けの「政党のあり方と社会のあり方の関係を考える、一部の疑問に答えて」と題する土井書記局次長論文を読んでそう思った。冒頭の一節がそうだ。

――党の規約を無視した行動で除名された元党員の問題をめぐって、一部の識者から「共産党は自由な社会をめざしているのだから、党内のあり方も自由であるべきではないか」という疑問が寄せられています。日本共産党の発展を願って寄せていただいているものだと思います。そこで、日本共産党のあり方と、党がめざす社会との関係についてのべておきたいと思います。

 

 私は、1週間ほど前の拙ブログで「政党は国民と市民社会の中に存在している、別世界にいるのではない」と書いた。政党がその目的を達成しようとすれば、国民と市民社会の常識や合意を尊重しなければならない。それなくしては幅広い支持を得ることは不可能であり、やがては消滅していく運命をたどる。今回の除名問題は単なる共産党の「内部問題」ではなく、国民や社会の価値観にも共通する問題であり、それに合致した対応が必要だ――との意味である。

 

 多くの識者からも同様の発言が上がっているというが、拙ブログに対しては一部の熱心な共産党支持者から「老害!」「反共分子!」「曲学阿世!」などと罵詈雑言を浴びせられているので、土井氏の一文を読んで共産党全体が必ずしもそうでないことがわかった。

 

(『広原盛明のつれづれ日記』2023年2月26日)

 

URL:https://hiroharablog.hatenablog.com/entry/20230226/1677350796

 

 初めに蛇足を書いておくと、赤字ボールドにした部分は弊ブログが「某暴犬」と表記している人物の仕業だろう。この人物はウクライナ戦争でロシア側に立ったり、以前には中国の少数民族弾圧で中国側に立つなど、共産党の主張と合致しないところも少なくない権威主義の塊かつ影響力絶無の輩なので、ブログを運営する側にとっては大きな迷惑ではあるものの単なるノイズでしかない。

 本論に戻ると、赤旗の一面などで展開されるキャンペーンは以前と全然変わらないように見えるが、広原氏は論調に変化が見られるという。このあたりの使い分けは朝日などの一般紙でもよく見られることだ。

 以下ブログ記事の後半部分を引用する。この部分がブログ記事の核心部だ。

 

しかし、土井論文は「一部の疑問に答える」だけの説得力あるものになっていない。以下、土井氏の論理を検討しよう(要約)。

――日本共産党は「民主的な討論をつくし、統一して行動」することを組織原則としています。それを「民主集中制」と呼んでいます。これは特別なものではなく、国民に責任を負う近代政党なら当たり前の原則だと考えています。一つは、私たちの党運営における民主的な実態を見ていただきたいということです。同時に、公党として国民に責任を負うには、民主的な討論とともに、「行動の統一」が必要だということです。そのうえで、あらためて明確にしておきたいのは、「行動の統一」は個々人が自由な意思で加入する政党として、自主的・自律的にとっているルールであって、それを社会に押し付けることは決してないということです。自由な意思で加入する政党と、すべての構成員が生まれながらにして所属する社会とは、その点で性格がまったく異なっています。

――政党のあり方と社会のあり方、とりわけその政党が政権政党になった場合に、その社会がどのような社会になるのかは、もちろん無関係ではありません。民主的な社会をめざす政党ならば、その党内のルールにおいても民主的運営をつらぬくことが求められるのは当然であり、わが党はそのための努力を重ねています。同時に、社会を発展させるためには、政党としての団結したたたかいが必要であり、「行動の統一」が不可欠です。

 

 私が思うのは、共産党がめざしている〝統一戦線〟や〝野党共闘〟は社会が生み出す「団結=行動の統一」の一つの形態である以上、それを発展させるための多様な討論は政党の組織原則とは矛盾しない――ということだ。土井氏の主張は「行動の統一」を政党の組織原則・行動原理に限定し、社会と政党の行動様式は異なるものと見なすことが前提になっている。しかし、統一戦線や野党共闘を発展させようとすれば、政党の組織原則すなわち「行動の統一」を柔軟に適用することが求められるし、またそうしなければ統一戦線や野党共闘は成立しない。社会の行動様式と政党の行動原理の境界はあらかじめ確定できるものではなく、その時々の政治情勢に応じてダイナミックに変化するものと考えなければならない。

 

 日本共産党第27回大会決議(2017年1月18日採択)には、次のような一節がある(『前衛』2017年4月臨時増刊号)。

――日本共産党は、2015年9月19日、安保法制=戦争法案の強行採決という事態にさいして、「戦争法(安保法制)廃止の国民連合政府」を提唱し、全国規模での野党の選挙協力の追及という新たな道を踏み出した。この提唱は、「野党は共闘」という多くの市民の声にこたえ、「私たちも変わらなければならない」と思い定めてのものだったが、野党と市民の共闘の発展への貢献になった。わが党が、こうした決断ができた根本には、社会発展のあらゆる段階で、当面する国民の切実な要望にこたえた一致点で、思想・信条の違いをこえた統一戦線によって社会変革をすすめるという、党綱領の生命力がある。

 

 ここでは、これまで金科玉条の如く「自共対決」を唱え、政策の一致がなければ野党共闘などあり得ないとしてきた共産党が、「野党は共闘」との市民の声にこたえて「私たちも変わらなければならない」と決断したことが記されている。このことは「対決路線」から「共闘路線」への綱領レベルの変化である以上、党規約もそれにふさわしい性格のものへ変えなければならないことを意味する。ガチガチの「民主集中制」を柔軟な組織原則・行動原理に変え、党内における自由かつ多様性のある意見や主張の存在を認め、それらを社会行動の中で実践的に統一していくような形に改めることが求められる。意見の相違や異なる主張を「外部=社会」に漏らしてはならないといった「行動の統一」は、政党と社会を分断するものでしかなく、政党の異質性を際立たせるものでしかない。

 

 それとともに、役員の任期も定年もなく「革命には経験に富んだ幹部が必要」との理屈で90歳を越える古参幹部がいつまでも指導部に居座りを続けるような(社会常識に反する)事態は一刻も早く改善しなければならない。今では社会常識になっている党首公選制についても、いつまでもこれを無視するような事態が続けば、共産党は社会から「時代遅れの政党」と見なされ、早晩退場を余儀なくされること疑いなしだ。要するに今回の除名問題は、民主集中制という〝古い器〟に野党共闘という〝新しい酒〟を盛ろうとしたことから生じたものであって、改めるべきは〝古い器〟であって〝新しい酒〟ではないのである。

 

(『広原盛明のつれづれ日記』2023年2月26日)

 

URL:https://hiroharablog.hatenablog.com/entry/20230226/1677350796

 

 弊ブログは「分派の禁止」さえ規約から削除してしまえば、土井洋彦氏が述べた建前論としての「『民主的な討論をつくし、統一して行動』すること」、これは私が最近知った加藤哲郎氏の解説に書かれたレーニンの言葉では「批判の自由と行動の統一」に当たるが、この「民主集中制」の核心部は残しておいても良いのではないかと考える。また、党首公選制は党内の意見を可視化するための有力な手段だとは認めるが、必ずしも必要不可欠とまでは考えない。

 しかしそれ以外については広原氏の意見に共感する。

 冒頭で触れた×××新選組、こちらはもうどうしようもないだろう。某暴犬ともども可及的速やかな退場が求められる。