http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110815-OYT1T00350.htm
読売新聞グループ本社社主、正力亨氏が死去
読売新聞グループ本社社主で読売巨人軍名誉オーナー、日本テレビ放送網名誉顧問の正力亨(しょうりきとおる)氏が15日午前5時5分、敗血症のため東京都内の病院で死去した。
92歳。通夜、告別式は近親者で行う。遺族は弔問、弔電、香典、供物、供花一切を辞退するとしている。後日、お別れの会が開かれる予定。
先代社主・故正力松太郎氏の長男。慶応大学を卒業、王子製紙に入社した後、海軍経理学校を経て応召。海軍主計大尉で終戦を迎え、その後、1956年に読売新聞社事業本部嘱託、60年に取締役となった。64年に巨人軍オーナーに就任。65年からのV9(9年連続日本一)時代を含め、96年までオーナーを務めた。
一方、68年から70年まで日本テレビ放送網の取締役副社長を務め、70年から読売新聞社の取締役社主となったが、今年6月、読売新聞グループ本社、読売巨人軍、日本テレビ放送網の取締役をいずれも退任した。
(2011年8月15日12時00分 読売新聞)
正力亨の肩書は「読売新聞グループ本社社主」となっているが、ピンときたことがある。それは、読んでいる最中の下記の本の中に出てきた記述だった。
- 作者: 佐野眞一
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
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- メディア: 文庫
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この本の第11章「国士と電影」に、正力亨の父・松太郎が「読売新聞社主」を名乗るに至った経緯が書かれている。
正力松太郎は1953年にテレビ事業(日本テレビ)を始めるに際して、毎日新聞と朝日新聞にも出資させたが、その時朝日が出した条件は、正力が今後いっさい新聞経営とかかわらない、というものだったという*1。戦後正力は戦争責任を問われて投獄され、読売新聞社長の座も明け渡していた。正力は朝日の出した条件に応じたが、のちあっさりこれを反故にした。正力は、柴田秀利の助言を受けて、読売新聞の社長でも会長でもない「社主」と名乗ることにしたのである。佐野眞一の表現を借りると、正力は日本テレビ開局の翌1954年(昭和29年)7月7日から、1919年(大正8年)以来使われていなかった「社主」という肩書きを誇らしげにふり回すようになったという。*2。正力亨の「社主」という肩書きも、父・松太郎に由来するものに違いない。
同書の第8章「決起と入獄」には正力亨の話が出てくる。1944年(昭和19年)10月、海軍主計大尉の正力亨が乗り込んだ旗艦「南海」は、インドネシア・ボルネオ島のマカッサル海峡で敵潜水艦の魚雷により撃沈され、正力亨は重油の海に十数時間漂う恐怖の体験を持ったという。彼は敗戦をサイゴンで迎え、1946年(昭和21年)に復員したが、その後10年間は社会的活動を行わず、ようやく1956年(昭和31年)になって読売新聞事業本部に勤め始めたとのことだ。にもかかわらず、正力亨は読売労働争議の際、のちに読売新聞社長になる務台光雄ともども、しばしば調停案で読売新聞社長に擬せられた。正力亨の場合は、お飾りのロボット社長として期待されたということらしい*3。
正力亨は、読売巨人軍のオーナー時代に、バックネット裏から「長嶋くん、次はバントだ」と大声で指示を出す底抜けの善人ぶりを発揮して評判になったと佐野眞一は書くが*4、父親が底なしの極悪人だと息子は底抜けの善人になってしまうのだろうか。
個人的に正力亨で思い出すのは、1978年の「江川事件」の時の読売巨人軍オーナーがこの正力亨だったことだ*5。あの時、読売は世の厳しい指弾を受けたが、当時高校の同級生が、どっかのマスコミの口調を真似たのか、「大正力(正力松太郎)が生きてたら何と言ったか」などと口にしたことを思い出す。阪神ファンの多い関西でも、正力松太郎はプロ野球界の偉人として通っていたのだ*6。実際には、「江川事件」こそ正力松太郎(と正力が創設した読売巨人軍)の体質そのものであり、「大正力」とやらが生きてたらもっとえげつないことをやらかしたに違いない、小林繁を阪神にくれてやったりせずに江川卓だけを強奪することさえやりかねなかったのではないか。佐野眞一の本を読んでいるとそう思わされる。
正力亨は1996年に読売巨人軍のオーナーを退任したが、その後任はあのナベツネ*7だった。そう考えると、無能呼ばわりされ馬鹿にされていた正力亨時代に多少は郷愁が感じられるかもしれない。
父に正力松太郎を持ち、社内にナベツネなんかがいたらさぞかし気の休まることのない人生だったに違いない。あの世ではゆっくりしていただきたいものだ。故人のご冥福をお祈りする。