kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

右翼によるフジテレビ批判の底流にあるもの

フジテレビ - 一人でお茶を
「フジテレビ文化」の「終焉」? - Living, Loving, Thinking, Again



「フジテレビ文化」について触れる前に、ネット右翼がフジテレビ叩きに血道を上げていることに関していえば、思い当たるフシがある。


それは、2002年に小泉純一郎安倍晋三らが北朝鮮を訪問した翌月(10月)、朝日新聞毎日新聞という右翼にとっての「仇敵」の両雄とともに、フジテレビがキム・ヘギョンさん*1の3社共同インタビューを行なったことだ。

この時の「ヘギョンさんインタビュー」の仕掛人とされたさるフジテレビ記者に対するネット右翼のバッシングは吐き気を催すほどひどかった。ネット右翼の「お騒がせ」の歴史の中でも、特に強く印象に残っている。このエントリを書く前に、当該記者の名前を検索語にしてネット検索をかけてみたら、あの当時ネット右翼たちが書いた文章が多数見つかったが、当時覚えた嫌悪感を改めて思い出した。もう9年も経つというのに、その記憶は今も鮮明だ。


「フジテレビ文化」についていえば、80年代に全盛を誇ったそれが、私は大嫌いだった。

民放テレビといえば、関東では日テレとTBS、関西では毎日放送朝日放送という、それぞれの地域の「4チャンネル」と「6チャンネル」が覇権を争っていて、両地域ともに「8チャンネル」だったフジテレビ系列は「傍流」に過ぎなかった。

それが覇権を握った80年代において、フジテレビの「内輪受けを視聴者に強要する」番組づくりにはとにかくむかついたのだが、今でも覚えているのは、明石家さんまがフジテレビのお笑い番組で言っていた「日枝と鹿内のツーペア」とかいうギャグだった。「日枝」とは当時のフジテレビ常務(のち社長)、「鹿内」とはフジ産経グループの若き総裁(世襲)の鹿内春雄(1988年死去)のことだ。私はその10年ほど前、右翼マスコミ人としての鹿内信隆の名前を知って以来、鹿内一族を嫌悪していたのだった。

現在でこそ鹿内信隆という男は、「産経新聞を潰しにかかった」、「産経新聞の論調を蒋介石びいきに傾けた」などとして右翼からの評判はすこぶる悪いが、「蒋介石びいき」は1980年頃までの右翼のスタンダードだったのだ。今でこそ蒋介石の流れを汲む連戦、馬英九の国民党は日本の右翼の不評を買っているけれども、当時は中国共産党毛沢東に対抗して蒋介石を担ぐことなど、右翼にとっては当たり前だった。その鹿内信隆がなぜ産経新聞を潰しにかかったかというと、単純に「これからは新聞の時代じゃない」と思っていたからだったらしい。しかし、自民党の政治家の産経新聞に対する思い入れの強さを知って、鹿内信隆は産経潰しを止めたのだという話をどこかで読んだことがある。

そんな鹿内信隆が牛耳っていたフジテレビを、「楽しくなければテレビじゃない」などとの煽り文句とともに時代の覇権を制するテレビ局に変えたのは、意外にもフジサンケイグループ「議長」就任当初には信隆の「傀儡」に過ぎないと見られていた鹿内春雄だった。鹿内春雄でもっとも印象に残っているのは、NHKテレビの『テレビファソラシド』という番組に出ていたNHK売り出し中のアナウンサー・頼近美津子と結婚したことだったが、その頼近美津子も2009年に死んだ。頼近がマーラー交響曲第2番『復活』を聴いて、鹿内春雄の死のショックを乗り越えたと『朝日新聞』で読んだのはいつのことだったか。

それはともかく、鹿内春雄は組合活動を理由に鹿内信隆からパージされていた日枝久を引き上げるなどして、鹿内信隆の「極右路線」から当時でいう「軽チャー路線」へと転換し、「フジテレビ文化」の礎を築いたのだった。

極右の鹿内信隆と軽薄路線の鹿内春雄のどちらがマシだったかなどと比較する気にもならないが、後者の路線がフジサンケイ生粋の「極右路線」をないがしろにしたあげく、右翼たちにとっての仇敵「朝日・毎日」両社とともに「キム・ヘギョンさん共同インタビュー」をやった時、右翼たちの積年の恨みつらみが大爆発したのだった。

その時の余韻が現在の右翼による「フジテレビ叩き」に残っているように思えるのである。

*1:現在ではキム・ウンギョンさんと呼ばれているそうだ。