kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「独裁者」と「新自由主義」は対立概念ではない(「ゆりひなな」さんのコメントへのご返事)

きまぐれな日々 弱者に苛酷な独裁者・橋下徹とゴマを擦る野ダメや小沢一郎 に下記のコメントを頂いた*1

こんばんは。私は、橋下さんに熱狂する大阪の渦中にいて、日々焦りを感じている3児の母親です。橋下さんに対する鋭い考察、興味深く読ませていただきました。私は反橋下の運動を「反独裁」でまとめてしまうことに危機感を抱いています。そこで、「きまぐれ」さんに、私の考えについてご意見お聞かせいただけないかと思います。ブログ「軒づけ日記」の中の「橋下人形と新自由主義の大実験1〜4」という私の記事をお読みいただけませんか?どうぞよろしくお願いいたします。

2011.12.26 20:07 URL | ゆりひなな


ゆりひななさんの「橋下人形と新自由主義の大実験1〜4」は下記。


4編とも拝読させていただきました。いずれも説得力のある記事で、早くも4件のエントリ全てに「はてなブックマーク」が5件以上ついて注目されています。

私は、2007年末に橋下徹大阪府知事選への立候補を決めた時から、「新自由主義者」にして「右翼」としての橋下徹を批判する記事を書いてきました。だから、「橋下=新自由主義者」というのは、特に断らずとも暗黙の前提として書いています。

ゆりひななさんの論旨には概ね賛成なのですが、一点だけ異を唱えるとすれば、「独裁」と「新自由主義」は対立概念ではない、ということでしょうか。

新自由主義」は「小さな政府」を旨としますが、その動機は「格差の固定」にあります。つまり、政府や地方自治体には社会保障を含む再分配機能がありますが、その機能を極小化することによって、再分配を行なわない、すなわち格差を固定し、現在存在する「階級」を固定してしてしまおうという意図があります。それは、安倍晋三のように「銀の匙をくわえて生まれてきた」人間にとってばかりではなく、橋下徹のようにどん底から叩き上げた人間にとっても魅力があるのです。要するに、血のにじむような努力をして築き上げた地位を固定したいという欲求です。他の新自由主義者と同様、橋下の「既得権批判」は方便に過ぎません。

新自由主義」は、「市場原理主義」や「レッセフェール」(自由放任主義)と同義ではありません。たとえばある種の新自由主義者は、東京電力のように「神の見えざる手」に委ねれば淘汰するほかないような企業を、新自由主義者は守ろうとします。都合によって「市場原理主義」に反することを平気でやるのが「新自由主義」なのです。橋下は「脱原発」指向のようですが、それは彼が「原発利権」にあずかってこなかったからに過ぎません。「格差」が厳として存在する状況で「何もしない」のは一種の「独裁」だといえると思います。

その意味で、4番目のエントリのコメント欄に書かれている、「橋下はただのデコイにすぎない」、「橋下以外にもっと狡猾なブレーンが他にいる」、「アレは、正直そこまでのタマじゃない」といった意見には私は賛成できません。そうやって「悪の組織」みたいなものを仮定してしまうと、やがてそれが「教義」と化して、「小沢信者」が現にはまっているような「陰謀論」の罠にはまってしまう恐れがあります。

組織が悪いんじゃなく、人間が悪いんです。組織的にやっていることであっても、その組織を動かしているのは人間であり、「組織」だとか今はやりの言い方で言えば「霞ヶ関」などの「顔なし」がやっているのではありません。人間がやっているのです。

別に「新自由主義者」であることを隠して橋下は当選したわけでもなんでもなく、4年前からずっと「新自由主義者」として叩かれています。橋下は、人々のルサンチマンを刺激して煽動することにかけては卓越した才能を持っているといえるでしょう(ろくでもない、有害な才能ですが)。その最たる例は、山口県光市母子殺害事件弁護団への懲戒請求を、読売テレビでやっている「やしきたかじん」の極右番組で煽ったことでした。ああいうことをやって人々を煽動できる人間はそんなに多くありません。他には石原慎太郎小泉純一郎などが数えられるでしょうけれど。

しかし、「橋下≠独裁」というご意見に同意できない点以外は、私はゆりひななさんの論旨に説得されるものですし、橋下について「独裁」ばかり強調するのは橋下の「新自由主義」から目をそらさせてしまう恐れがある、ということについては私も同意見です。

「橋下は確かに強力な敵ではあるけれども、必ずや打倒できる」と私は信じています。今後も橋下に関する鋭い考察が書かれた記事を期待しています。