kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

西ベルリンの学生の「卒論共同執筆」の申し入れを断った加藤周一の文章を読んで思ったこと

中国の文革時の「白紙答案事件」を思い出させるようなエピソードを加藤周一が書いていた。


『羊の歌』余聞 (ちくま文庫)

『羊の歌』余聞 (ちくま文庫)


1969年にベルリン自由大学(当時の西ベルリン)の教授になった加藤は、学生たちのある申し入れをめぐって彼らと対立したという。以下引用する。

学生側との対立が鋭くなったのは、卒業論文(米国流にいえばMA取得のための論文)を数人の学生が共同執筆したいと申し込んできたときである。共同の仕事での学生個人の分担は明示されない。したがってそれぞれの知識と能力をそれによって判断することはできない。しかるにMA資格は、参加した学生の集団にではなく、個人にあたえられる。そういう提案は非論理的だから受け入れることができない、と私はいった。その考えは個人主義的であり、ブルジョワ的競争社会を反映するものであり、学生間の連帯を理解していない、と相手はいった。十分な根拠がなくて学位を認めるのは大学の教員として無責任なことだから、私は学位論文の合作提案を拒否した。このような「権威主義的な教授」の講義には学生は出席しないだろう、と代表者は応じた。それは全く学生の自由である。(36-37頁)


洋の東と西を問わず、当時はこんなことが結構普通にあったのかもしれない。この件を機に、加藤はベルリン自由大学を去った。

これを読んで思い出したのが、昨年末に教えていただいた*1、中国の文化大革命期に「白紙答案事件」を起こした張鉄生のことだが、考えてみれば加藤周一と対峙したのは学生の集団であるのに対し、張鉄生の場合は個人の行動だ。やはり張の方がはるかに上手で、ベルリン自由大学の学生のとうてい及ぶところではなかった。

このところずっと思っているだが、仮に現在の日本人が文革当時の中国に放り込まれたと仮定して、張鉄生と同じ行動を起こし得る人間は、ただ一人しかいないのではないか。


もちろん、それは橋下徹である。


[付録]張鉄生(Wikipediaより)

張鉄生


張鉄生(ちょう てっせい)は中華人民共和国の政治家。文化大革命期に白紙答案で一躍有名になった男性。

1968年に白塔人民公社棗山大隊に下放された張は、1973年3月に労農兵学生として大学の物理学科を受験したものの、物理・化学が全く解けなかった(6点)。張は「公社での本業である農業生産に力を注ぐ余り、学業が疎かになった、試験内容が知識に偏重し、試験そのものが労働者大衆に門戸を閉ざしている」と答案用紙の裏に書きしたためた。

四人組に近い立場で当時遼寧省党委員会書記だった毛沢東の甥・毛遠新は、この文章を周恩来と彼の教育思想を攻撃する砲弾として利用するべく、「深く考えさせられる答案」として遼寧日報、続いて人民日報に掲載させ、張は一躍反潮流の英雄となった。彼は大学に入学できただけでなく、1974年には全国人民代表大会常務委員となった。この後、テストの不出来を彼に倣って開き直る事件が多発した。

1976年、後ろ盾であった四人組が逮捕されると、シンパとみなされ政治権利剥奪3年、禁固15年の刑に処せられた。[引用者註:張鉄生が有罪判決を受けたのは正しくは1983年だったと思われる]

1991年、刑満了により刑務所を出所。[引用者註:「刑期途中で出所」が正しいと思われる]以後、飼料会社を数人と共に始め、現在資産数億元を有する。