kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

辺見庸『死と滅亡のパンセ』から音楽関係者の戦争責任を連想する

先月末、下記辺見庸の著作を読んだ。


死と滅亡のパンセ

死と滅亡のパンセ


この本については、きまぐれな日々 マスメディアが作る「橋下ファシズム」&片山さつき批判 で少し言及した。その言及部分が含まれる「II 破滅の渚のナメコたち−亡命と転向と詩(キリヤット・F・コーエンとの会話)」が本書の白眉と思われる。辺見庸と同じ1944年にイスラエル・ハイファで生まれたという「詩人・フルーティスト・彷徨者」と辺見庸との対話は抜群に面白かった。

この対話において、辺見庸は某紙電子版の記者から詩の創作と朗読、それにインタビューを電子メールで要請されたが、これを断ったと述べる。メールに書かれていたという「社会にとって、人びとにとって、意義のあるものとなり」という文章にカッとなったとのことだ。

辺見庸が想起したのは、戦時中の昭和18年(1943年)に「朝日新聞大阪厚生事業團」が主催した「戰詩の朗讀と合唱の夕」のリーフレットに「戰意昂揚と精神醇化のために」と書かれていることとの類似だった。辺見に詩作と朗読を依頼したのも同じ朝日新聞だったのだ。辺見は、自作の『眼の海』を「反社会的詩集」と言い、「ふとどき」「不穏」を褒め言葉として聞く、詩はメッセージとは考えない、意識の犯罪であっても良い、と言った。これらの言葉から私が連想したのは筒井康隆だった。それとともに、辺見庸という人はジャーナリストというより作家なんだなと思った。

私もまた、芸術の発する「メッセージ」などくそ食らえ、と常々思っている人間なので、辺見庸の言葉に快哉を叫んだ。「メッセージ」がなければ成り立たない「芸術」なんてろくなものではない。

辺見の批判は「戦争詩」へと向かい、坪井秀人・名古屋大学教授の研究を引用して、佐藤春夫三好達治、大木惇夫、野口米次郎、蔵原伸二郎らの実名をあげて、その戦争責任が追及されていないことに言い及ぶ。「朝日新聞大阪厚生事業團」主催の「戰詩の朗讀と合唱の夕」で朗読された高村光太郎の「十二月八日」には、「アングロ サクソンの主権/この日東亜の陸と海とに否定さる」という一節があるそうだが、ユダヤ陰謀論系「小沢信者」*1だとか「悪徳ペンタゴン」の決まり文句でネット民を扇動している某オヤジ*2のメンタリティと似てるかもしれないと思った。辺見は、「中里介山内田百間*3;以外はプロレタリア文学作家や太宰治までほぼ全員が日本文学報国会会員だからね」と言っている*4

しかし、文学界はそれでも中里介山内田百間がいるだけマシだ。音楽家たちはどうだったのだろうかと私は思ったのだった。「大木惇夫」の名前が、昨年調べた作曲家の「大木正夫」(朝比奈隆、戦争、ベートーヴェン、文革、そして橋下徹 - kojitakenの日記 参照)を連想させたせいもある。大木惇夫と大木正夫に縁戚関係はないようだが、戦後左翼的なモチーフの音楽を書いた大木正夫も戦争に協力していた。その他、バリバリの右翼の大御所・山田耕筰も、戦後その山田を批判して左翼的な立場に立った山根銀二も、ともに戦争に協力していた。

そういえば、音楽評論家の吉田秀和は、敗戦の年に勤めていた役所を辞めたはずだ。彼は戦争中役所で一体何をしていたのだろうと思ってネット検索をかけたところ、思いがけず吉田氏の訃報に接したのだった。5月27日のことだった。当日の記事 吉田秀和死去 - kojitakenの日記 に、

あるきっかけで吉田秀和のことを思い出し、ネット検索をかけたところ思いがけず訃報に接した。

と書いたが、そのきっかけとは上記のようなことだった。


吉田秀和 - Wikipedia には下記のように書かれている。

  • 1936年、東京帝国大学(現・東大)文学部フランス文学科卒業、内務省情報局に勤務。戦時中は情報局が主務官庁である日本音楽文化協会(楽壇統制のための団体)に井口基成の勧めで出向。戦後は文部省の所属に移されたが、敗戦後の混乱期に「自分の本当にやりたいことをやって死にたい」という思いが募って勤めを辞し、ある女性雑誌の別冊付録『世界の名曲』に寄稿したことが契機となって音楽評論の道に入る。


この「日本音楽文化協会」こそ、戦争中に山田耕筰や山根銀二らが仕切っていた団体だった。吉田秀和はその事務方として「戦意昂揚音楽」の一翼を担っていたことになる。吉田より3歳若い作曲家の柴田南雄(1916-1996)もこの「日本音楽文化協会」のために作曲していたが、戦争中には完成せず、戦後の1947年に完成している。

こうして見ると、明白な戦犯たる山田耕筰はむろんのこと、戦争中に既に楽壇の中心にいて戦後左翼に転向した山根銀二や大木正夫ばかりでなく、戦争中はまだ無名で、戦後も政治的な発言をほとんどしなかった吉田秀和柴田南雄にしても、戦争責任と無縁とはいえないことになる。


なお、トラックバックいただいた 戦中の吉田秀和 - sheepsong55の日記 に、

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20101002/1285999150

 これは山田耕筰と山根銀二の論争?についてのブログであるが、

おしまいに吉田秀和が左翼から批判されていることが記載されている。

 吉田が共産政権が芸術家の創作に介入してくることについて慎重な物言いを

していたことがあるらしいがそれについて左から批判されていたということ

らしいが、具体的にどこでそのような発言をしているのか、記載がない。

とあるが、「吉田が共産政権が芸術家の創作に介入してくることについて慎重な物言いをしていたこと」については、引用先の記事とは別に、下記記事に書いたことがある。


そういや「森の歌」はソ連政府の植林を称える音楽だったが... - kojitakenの日記 より。

吉田秀和は1961年に出版した『現代人のための名曲300選』に、ショスタコーヴィチについて下記のように書いている。私が持っているのは、1981年に新潮文庫から『LP300選』と改題して出された版である(下記リンクはちくま文庫から出た新装版)。

名曲三〇〇選―吉田秀和コレクション (ちくま文庫)

名曲三〇〇選―吉田秀和コレクション (ちくま文庫)

 バルトークの発見?についで、私たちにショックを与えた戦後の出来事は、ショスタコーヴィチが、戦後最初に発表した『第九交響曲』の日本の初演と、それとほとんど同時にソ連共産党中央委員会が、この作品を非難したというニュースだった。この問題は、ここで触れるには大きすぎる。一言いっておけば、原則としてこういう形で政治家が芸術に容喙(ようかい)するのは、私は反対である。

吉田秀和 『LP300選』 (新潮文庫、1981年)より)

まっとう至極な意見だが、「この問題は、ここで触れるには大きすぎる」とか、「原則として」政治の介入に反対(ということは例外を想定しているとも解釈できる)という表現に、ソ連を批判するのに抵抗があった1961年当時の知識人層の「空気」が感じられて興味深い。これは「時代的制約」であって、これらの表現をもって吉田氏を批判することはフェアではないと思うが。


但し、

それについて左から批判されていた

のではなく、戦犯同士の罪のなすり合い? 山田耕筰と音楽評論家・山根銀二が演じた醜態 - kojitakenの日記 の脚注に私が

たとえば加藤周一と親しいことで知られている吉田秀和も、「左」側から批判されていた。吉田は、ソ連が作曲活動に介入することを批判したが、断り書きをつけながらの慎重な文章だった。

と書いたのは、別件を念頭に置いていた。上記の脚注は書き方が悪くて、「吉田がソ連が作曲活動に介入することを批判した」ことを左翼が批判したとしか読めないが、そういう意図で書いたものではなかった。「別件」とは、中村とうようとキャンディーズと吉田秀和と - kojitakenの日記 に書いた下記の件。

十年以上前だったと思うが、中村とうようが97歳で今も健在の吉田秀和を激しく批判した文章を読んだのだが、60年代には吉田秀和は現代音楽祭を主催するなど、「現代音楽」の旗振り役を務めていた。吉田秀和は政治的発言はほとんどしないが、故加藤周一の盟友で、大江健三郎とのつきあいもある。中村とうよう吉田秀和を批判したのは、浅利慶太との絡みだったと記憶しているが、ネットで調べてみると、1963年の日生劇場こけら落としにベルリン・ドイツ・オペラを招き、それには吉田秀和が絡んでいたけれども、当時吉田秀和がお世話になった浅利慶太に頭が上がらなくなったといわれているとのこと。浅利慶太中曽根康弘のブレーンとして有名であり、その浅利とつながりを持つ吉田秀和中村とうようが批判したものだったと思う。


例によって長々と脱線した。辺見庸の新刊の話に戻る。

辺見庸の「詩はメッセージとは考えない、意識の犯罪であっても良い」という言葉の対極にあるのが、ナチスドイツの「退廃芸術」批判であり、スターリンソ連の「社会主義リアリズム」であり、毛沢東の中国の「文化大革命」ではないか。文革時代の中国では「ベートーヴェン批判」が行われ、張鉄生が「白紙答案事件」で英雄になった。そして、橋下徹の「文楽・オーケストラ弾圧」はヒトラースターリン毛沢東の所業と酷似している。

だから私は「詩はメッセージとは考えない、意識の犯罪であっても良い」という言葉に共感するし、「戦争詩」批判の文脈で辺見が下記のように述べたことに必然性を感じるものである。

坪井秀人は「メディアは戦争が作る(あるいは戦争はメディアが作る)」と書いているけれども、大正解だね。これがマスメディアというものの本性だろうね。そうこうするうちに三月十一日の奈落はまるでなかったかのように塗りかえられ、テレビからはまたぞろばか笑いが聞こえてきている。大阪でおきているバックラッシュもテレビ、新聞を中心とするマスメディア由来のものだ。テレビはバラエティショーおなじみのタレント弁護士を売りだし、チンピラ・アジテーターに過ぎなかったかれをヒーローにしたてあげた。ボクシングの世界タイトルマッチで大阪の知事と市長をリングにあげ、「君が代」をうたわせてそれを実況中継したのはTBSだった。これだって別種の「声の祝祭」なんだよ。新聞もハエのように橋下という、テレビがひりだしたアジテーターにたかりついた。坪井秀人風に言えば、「ファシズムはメディアがつくる」さ。チンピラ・アジテーターは調子にのってどんどんしゃべくり、香具師のようにしゃべくりがうまくなっていった。このテレビ産の香具師は図にのっているうちにいずれはまちがいなく転けるだろうけれども、この社会は大震災後もヘラヘラ笑いながら新型ファシズムの道を歩んでいるし、橋下がいようがいまいが、今後もそうだろう。

辺見庸『死と滅亡のパンセ』(毎日新聞社, 2012年)72-73頁)

*1:たとえばリチャード・コシミズ、ヘンリー・オーツといった人たち

*2:このオヤジやそのエピゴーネンのブロガーが、桑田佳祐の「音楽寅さん」が民主党小沢一郎を誹謗中傷しているとして、これを批判したことがあった。

*3:正しくは「間」はもんがまえに「月」。文字化けするのでこの表記で代用した。

*4:本書45頁