kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

滝廉太郎の「荒城の月」を勝手に改変した山田耕筰の悪逆非道

NHKドラマ「坂の上の雲」をつけていたが、つまらなくてほとんど見ていなかった。だから、ストーリーもほとんど頭に入らなかった。

ただ、番組中に出てきた滝廉太郎の「荒城の月」がピアノで演奏されたくだりに注意を惹かれた。

というのは、歌詞でいうと「はるこうろうの はなのえん」の「え」に当たる部分の音が、普段歌われるより半音高く弾かれていたからだ。その後の部分でも、普段聞き慣れているのとは違う和声が使われていた。

そういえば、滝廉太郎の原曲がその後改変されたと、大昔にどこかで読んだ記憶があったので、ネットで調べてみた。

すると、あのド右翼の戦争愛好家というか国粋主義者山田耕筰*1が犯人であることがわかった。吉元恵子さんという、プロの歌い手さんが書いた記事がネットで見つかったのである。


不朽の名曲「荒城の月」

(前略)

「荒城の月」(土井晩翠:詩.滝廉太郎:作曲)は、明治時代に作られてから、今もなお中学校の音楽教科書の中で、燦然と輝いています。
この名曲について常々、気になっていることがありました。スロバキアの音楽教授が知っているという「荒城の月」の旋律は、「はるこうろうの はなのえん〜」の「え」の部分の音が半音上がる(#が付く)ものでした。
「原曲には#が付いていた」と以前聞いたことがありましたが、外国の方に指摘されるとは複雑なものでした!
数年前、民族舞踊団シャリシャンが来日した折、向こうの歌い手が披露してくれた「荒城の月」は、原曲どおり半音上げて歌っていました。

(中略)

シャープ(#)が、いつから無くなったのか辿ると、大正6年の「中学唱歌」までは#があり、大正7年山田耕筰が、三度上げて(原曲:ロ短調ニ短調)編曲しました。その初版本にもまだ#があり、大正13年発行の楽譜では消えてしまっているのです。(「たまたま、ミスプリで#が落ちてしまった楽譜が今までずっと印刷を重ねられてきた」という説と「山田耕筰が、日本的な旋律にするために#を消してしまったという説がありますが、前者には無理があります。原曲の楽譜が残っているし、山田耕筰氏も昭和時代まで活躍したので、ミスプリに気がつかない訳はありません!意識して#をとってしまったのでしょう。


たった一つの音ですが#があると無いとでは、全く違う旋律になってしまいます。
後世の人間が勝手に旋律を変えてしまっていいものでしょうか?(リズムや伴奏等を変えるのは編曲の域としても、旋律を変えることには大いに疑問があります)瀧廉太郎が可哀想に思えます。
「自分が作曲したフレーズは、それでは無い!」と草葉の陰で、嘆き怒っているのではないでしょうか?
スロバキアの先生が「#が付いた旋律の方がもの悲しくて良い!」と言いました。私もそう思い、2005年.4月のスロバキアでは「#」をつけて歌いました。(瀧廉太郎に敬意を表し!)昨今、原曲に忠実に楽譜を見直すべきだという論議も聞かれるようになってきました。文部科学省も、このままでいいのか考えて欲しいと思います!


全くその通りである。極右作曲家・山田耕筰による理不尽な原作の改変は、安倍晋三と故中川昭一によるNHKの番組改変に匹敵する蛮行だと私は思う。


せっかくNHKが原曲の旋律をドラマで使ってくれたのだから、これを機に、「荒城の月」の原状回復を訴えるとともに、山田耕筰の悪逆非道を強く批判したい。


[PS]

当エントリで、山田耕筰への批判を、山田の政治思想と結びつけたのは、もちろんエントリに注目してもらうためです。

これに対する脊髄反射的な批判は、「頭が悪い」としか言いようがありません。山田の改変には音楽的な意味があったという反論はあり得ると思いますし、そのような反論を提示して初めて、山田の改変への批判を山田の政治思想に結びつけることへの批判が成り立ちます。

そして、それに対する反批判を行う用意が、当方にはあります。