kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

奥が深かった「荒城の月」の半音上げと山田耕筰の問題

「荒城の月」問題に始まる音楽シリーズは、奥が深かった。

「荒城の月」に滝廉太郎が書き込んだ「Eシャープ」のたった一音から、おそらくは真偽を取り混ぜた情報に次々と行き当たった。

その中で私の注意を惹いた一つが、「荒城の月」の「Eシャープ」が「ジプシー風」であるとの説だった。「荒城の月」と同じ「ミラシド」で始まるサラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」とダブらせたものだろうか。

「ジプシー風」というと、ヨーロッパの音楽では、西欧の音楽家たちの偏見によって、「ハンガリー風」と「ジプシー風」が同一視されていた。それは、何も西欧の音楽家に限らず、ほかならぬハンガリー人である大作曲家・リストまでもが侵されていた偏見だった。

それを打ち破ろうとしたのが、20世紀ハンガリーの作曲家、コダーイゾルターンとバルトーク・ベラだったと聞いている。彼らは、ハンガリーの民謡を収集し、創作に反映させた。なお、2人の名前は、コダーイバルトークがそれぞれ姓であり、ハンガリー人は東洋人と同じく、「姓+名」の順で名前を表記する。蛇足だが、先日、朝日新聞に、菅直人首相は "Naoto Kan" ではなく、"Kan Naoto" と表記すべきだとの主張が載っていた。私は1992年に初めてパスポートを取得した時から、「姓+名」の順の表記を実践している。

そのバルトークの音楽に、半音のさらに半分の音程である「四分音」が出てくる*1。「荒城の月」にも、四分音的な音程の揺らぎがありなのではないかと勝手に思った。こんなことを聞いたら滝廉太郎は激怒するかもしれないけれど。いずれにしても、「荒城の月」の「Eシャープ」は、「ジプシー風」とはちょっと違うのではないか。

それと、ヨナ抜き音階の話だが、ヨナ抜き音階が、明治に入ってから日本の伝統音楽と西洋音楽の折衷として作られたものであるにもかかわらず、それに依拠してしまったことが、もしかしたら山田耕筰の劣等感の原因になったのではないか*2。つまり、山田耕筰フランツ・リスト*3たり得ても、バルトーク・ベラたり得なかったのではないか。そして、自らの限界を誰よりもよく知っていたのは、山田耕筰本人ではなかったか。そう思えてならない。つまり、山田耕筰は真に「日本的」な作曲家ではあり得なかったのではないか。

バルトーク・ベラに比肩できる日本の作曲家というと、武満徹の名が思い浮かぶ。彼は流行歌が大好きだった。そして、彼が作った「死んだ男の残したものは」は、素晴らしい反戦歌だと思う。


[参考記事]
山田耕筰雑感-id:kojitakenさんに宛てて - 天衣無縫日記www

*1:「不思議なマンダリン」やヴァイオリン協奏曲第2番など。

*2:前の記事にも書いた通り、滝廉太郎の「荒城の月」はヨナ抜き音階にはよっていないけれども、山田耕筰の「赤とんぼ」はヨナ抜き音階による。

*3:なぜかリストは、西欧人と同じように「名+姓」の順で表記されるのが一般的らしい。