kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

無伴奏で歌へ君が代 〜 続「荒城の月」論

滝廉太郎の「荒城の月」を勝手に改変した山田耕筰の悪逆非道 - kojitakenの日記 の続き。コメント及びブコメに突っ込んでみる。


まず、公開早々コメントしてきた、id:riajyuという、いかにもリアルが充実してなさそうな人間は、ただのネット右翼だった。これは全くの期待はずれ。もうちょっと骨のあるやつかと思ったのだが。


これに対して、「はてブ*1ブコメは突っ込みどころ満載だ。

特に呆れたのがこれ。なんと46個もの「はてなスター」がついている。

ghostbass 音楽, これはひどい 「ド右翼の戦争愛好家というか国粋主義者」関係ない!!安倍とかもっと関係ない!/バッハのチェロ組曲2番、バイオリンパルティータ1番などは6度が半音下げられてることがよくある。メロだけじゃ判定不可能。 2010/12/05


なんだかずいぶん音楽に造詣の深い方のようだが、音楽に詳しくない私は、バッハの音楽の演奏については、できるだけ作曲家の意図した音を再現することが追求されていると思っていた。変化音の有無についても、バッハの意図に忠実な音はどれかと、研究者が熱心に調べた結果、音を決定しているのではないのか。

昔のピアノの楽譜では、平均律曲集の第1曲のプレリュードで、作曲家が作らなかった小節を勝手に挿入したものが流布していたと記憶するが(今でもそうなのかもしれないが)、少なくとも現在のプロが行う演奏で、装飾音を付け加えるなどのバロック時代の慣習を行ったり、グレン・グールドみたいに極端に速く、あるいは遅く弾くことはあっても、バッハの意図に反する恣意的な変更を演奏家が行ったりはしない。ジャズによるバッハの演奏はどうなんだと言われるかもしれないが、それらはバッハの音楽にインスピレーションを得た演奏だ。つまり、バッハの精神を生かしたものでこそあれ、バッハの意図をねじ曲げたものではない。

これが、バッハではなくてボッケリーニだったら、後世の人が勝手にめちゃくちゃな改ざんをしたあげく、中間楽章をほかの曲から持ってきた「チェロ協奏曲」の例などがあるけれども、ある音楽学者が「バッハだったら決して許されない仕打ちが、なぜボッケリーニにはまかり通るのか」と怒っていた。同じことが、滝廉太郎についてもいえる。

滝廉太郎の「荒城の月」の場合、半音上げない方がメロディーが安定することは、もちろん作曲家は百も承知だったはずで、それをあえて半音上げたのである。つまり、曲の核心部分である。それをわかっていながら、山田耕筰はメロディーを改変した。これを「メロだけじゃ判定不可能」というのは、めちゃくちゃな主張である。メロディーの「心臓部」ともいえる部分なのだから。


「音楽と政治」については、こんなコメントもあった。

frkw2004 音楽 楽譜は色々な版があるので、種々の版を比較検討し、どう演奏するかは演奏者に任されている。政治と音楽を絡ませるとろくなことがない。ワーグナーとかショスタコーヴィチの曲についてはどう思うのか? 2010/12/06


版の問題に関する私の意見は前述の通りだが、ワーグナーショスタコーヴィチこそ、音楽と政治を絡ませて論じなければならない作曲家だろう。

たとえば、サイードバレンボイムの本がある。パレスチナ系の学者と、ユダヤ人の音楽家が「音楽と社会」を論じ合っている。取り上げられている作曲家は、ベートーヴェンが中心だが、ワーグナーの話題も出てくる。


バレンボイム/サイード 音楽と社会

バレンボイム/サイード 音楽と社会


私の意見を言うと、ワーグナー音楽史上大きな仕事をした大芸術家だが、彼の反ユダヤ思想は低劣だと思う。こういう例は何も音楽に限った話ではなく、ドストエフスキーも思想は保守反動だし、モラルに反する行動も犯したとんでもない人間だった。その上、ドストエフスキーユダヤ人に対して差別的な言辞まで弄しているが、そんな俗物だった彼自身を、彼の芸術は超えていた。

ショスタコーヴィチに至っては、ソ連共産党政権に弾圧された作曲家であり、彼の音楽を論じる時、隠された意図を推測するのは当たり前に行われるし、そもそも「社会主義リアリズム」のイデオロギーを振りかざして芸術に干渉したソ連共産党政権は、安倍晋三や故中川昭一よりさらに悪質だったことはいうまでもない。その被抑圧の体験を芸術に昇華させたのがショスタコーヴィチなのであり、それゆえ彼の音楽は19世紀以前の音楽には見られない独特の性格を持っている。

それに、なんといっても見逃せないのは、ワーグナーショスタコーヴィチも戦争に加担した作曲家ではないことだ。ナチスが台頭する50年も前にワーグナーは死んでいるし、ショスタコーヴィチは迫害された側の人間だ。

一方、山田耕筰は積極的に戦争に協力した。戦後早々、音楽評論家の山根銀二に批判されたが、その山根もまた戦時中には積極的に戦争に協力していた。

美術の世界にもいえることだが、音楽家の戦争責任は、これまで十分に検証されてはこなかった。その方が問題なのである。

そう、山田耕筰の戦争責任問題を蒸し返すために、あえて前の記事にセンセーショナルなタイトルをつけた次第である。


エントリのコメント欄の方は、前記の「リア獣」を除いて、ブコメと違って穏当なコメントばかりだ。山田耕筰の意図は、おそらく下記id:Harnoncourtさんが推察された通りだろう。

Harnoncourt 2010/12/06 10:40
こんにちは。
個人的には、#の無いほうが単純に歌いやすいと思えます。山田も「唱歌として誰でも歌いやすいように」を優先したのではないかと思います。#がつくと、楽器などを習っていない一般的な子供ではまず音程が取れないと思います。私も正確に取れたことがありません(笑)。
でも、#による絶妙なゆらぎ感がいいんですよね。これが滝廉太郎の美学だと思います。山田の判断も理解はできますが、こういうことをやったら「滝廉太郎のオリジナルではこの音に#が付きますが、歌いにくいので取りました」という注釈くらい付けておくべきでしょうね。


このHarnoncourtさんのコメントに私は賛成で、せめて「滝廉太郎オリジナル版」と「山田耕筰版」のどちらであるかを明記すべきだと思う。

山田耕筰は、「音楽はわかりやすい方が良い」と考えたのかもしれないが、もしそうだとすると、まさに「社会主義リアリズム」の思想である。


ところで、前回のエントリには、結構右翼方面が食いついてきたが、昔から不思議でならないことが一つある。

それは、かの「君が代」である。

あの節に、どういうわけかハ長調の和声がつけられているが、あれは日本の音楽の伝統に反するものではないのか。id:AmahaYuiさんのコメントで知った「晩翠忌」に 瀧廉太郎 「荒城の月」 ( 音楽レビュー ) - 輝きの時 "Carry Out Your Life !" - Yahoo!ブログ によると、「荒城の月」はもともと無伴奏の歌曲だったそうだが、「君が代」にハ長調の和声がつけられているのもおかしくはないか。

なぜ、伝統を大事にするはずの右翼の皆さんが、それにクレームをつけないのか、私には不思議でならないのである。中韓北朝鮮は見下しても、ヨーロッパには恐れ入るのか。摩訶不思議な人たちである。