kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「原」と「腹」、「おほをか」と「オーオカ」のアクセント

 言葉、特にアクセントの話が中心なので、読書ブログではなくこちらに載せる。

 プロ野球阪神タイガースが二リーグ分裂後で空前にして今のところ絶後の日本シリーズ優勝を果たした1985年に大岡昇平が書いた日記を収めた『成城だより III』(中公文庫)より以下引用する。6月9日の日記より。なお引用文中にはこの日記のNGワードが派手に含まれているが仕方がない。また原文の傍点を太字にて表記した。

 

 丸谷才一「文学の研究とは何か」(群像)にて国文学者を相手にされるは御苦労様なれど、「巨人の腹」文學界には、巨人の原辰徳につき、ちょっと異議あり。「ハラ」が「原っぱ」の如き頭高アクセントより「腹」の平坦なる尻上りアクセントに変じるを難ず。丸谷先生もとより専門家はだしの見識あれど、小生先生より十六年長く歳月を生きしせいか、「原」なる小学校の友人、「ラ」より「ハ」にアクセント移りて七十歳にて没せるを知る(無論原辰徳の出現以前)。

 渋谷の小学校では近くに「代々木のラ」あり、むろん「ラ君」なりしが、後に知人の親族となりて、小生自身「少年」執筆時(一九七四―七五年)に電話にて昔話せし時は、知人も小生も違和感なく「ハ君」と呼べり。

 小生自身の姓も五十年の間にアクセント変化せり。かつて大岡越前町奉行所時代、米価高騰せる時、「ほかあいはねえ、たった一膳」の落首あり。これは「オカ」と頭高のアクセントではなくては成立せぬいい替えなり。事実、小生小学生より「オカ」と(旧カナ「おほをか」)と呼ばれて、旧制高校まで来たが、旧制高校二年の末に会いし、小林秀雄「オーオカ」とフラットに呼びしより、中原中也その他友人みなそう発音す。「オオオカ」なる愚劣なる戦後のカナ表記ふさわしくなる。

 これは東京語の「アクセントのややあと高の平坦化」とでもいうべきもの(ジンがビジンとなる)の一環かも知れないが、オカが必ず頭高にならぬ場合あり。それは横浜の「大岡川」の如く、あとに何か体言が付く場合なり。「オーオカガワ」「オオオカヤマ」と平らにいう。

 思うに、原君が「ラ」より「ハ」になったのは、大正十年原敬暗殺され、「ハラケイ」「ハラ首相」の名、尻上がりにマスコミに氾濫したるせいに非ざるや。戦後嗣子原奎一郎氏に会いし時も、「腹」のハラだった。おだやかなしゃべり方を旨とせる大正十四年以来のいわゆるラジオ放送語とともに「原」が「腹」に定着したのではあるまいか。あまり自信はないが、素人の仮説として提出しておく。

 ただし丸谷先生の「見れる」「来れる」「出れる」に対する弾劾は支持す。「投げれる」はもと上方方言にあり、大勢はいかんともしがたしとするも、「出れる」のでれっとした語感には我慢がならぬ。断固抗戦して死すべし。

 

大岡昇平『成城だより III』(中公文庫 2019)143-145頁)

 

 最後の「ら抜き言葉」は、上方にも多少はあるだろうが、それよりも中部(名古屋など)や中国(岡山など)が本家本元ではないかと思う。

 しかし、本論の「頭高アクセントの衰退が放送の影響だろう」という大岡昇平の説には強い説得力を感じる。

 昔の東京では「赤とんぼ」を「カトンボ」と発音したという話は、山田耕筰が1927年に作曲した歌をめぐるエピソードによってよく知られている。この歌については山田がシューマンからメロディーを盗用したのではないかとの疑惑も知られており、この日記でも以前取り上げたことがあると記憶する。それを延々と書くと「読書と音楽のブログ」向けの話になるから止めておいて、いくつかリンクと引用文を掲げるにとどめる。

 

cosmusica.net

 

山田耕筰 作曲「赤とんぼ」

“赤とんぼ”のイントネーションを心に思い浮かべてから、一度聴いてみて下さい!

 

 

皆さんが頭に思い描いた“赤とんぼ”のイントネーションと違ったのではないでしょうか?
現在の“赤とんぼ”のイントネーションでは「あ」より「か」の方が高い音が当てられていますが、この曲では「あ」より「か」の方が低い音符が当てられているので「赤+とんぼ」というイントネーションに聴こえると思います。

ではどうして山田耕筰さんはこのようなメロディーをつけたのでしょうか?

それにはさまざまな説があるのですが…
ひとつには、日本の作曲家である團伊玖磨さんが直接作曲家の山田耕筰さんに伺ったところ、明治期以前の江戸弁では「赤+とんぼ」というイントネーションだったから、と答えたという話があります。

山田耕筰さんは“各国の音楽の源は、その国の言語にある”という考え方であったため、日本語の言葉のアクセントにとても忠実に作曲していたようです。

 

出典:https://cosmusica.net/?p=1766

 

 

sawyer.exblog.jp

 

山田耕筰」の歌曲が特に秀でている理由は、日本語のイントネーションやアクセントがそのままメロディに生かされている点にある。」
「日本がヨーロッパ近代音楽を取り入れようとした時の最大の問題が、このヨーロッパの歌曲風のメロディと日本語をどのように結び付けるかであった。」
「その中で耕筰はその鋭い耳によって日本語のアクセントが高低アクセントであるということを感覚的に感じ取ったのである。」
「そしてそのアクセントをメロディと融合させることによって「からたちの花」を初めとした名曲の数々を世に送り出していった。」
「いかに彼の影響が今日まで日本の音楽に影響しているかを感じ取ることが出来る。」
「一音一音に母音を伴う日本語の魅力を、その響きとつながりの中に見いだし、言葉の美しい音の線を描き出すことを、最も重要視していることを実感した。」

これら山田耕筰の作品の持つ特徴と、評価が有るにも拘らず、「赤とんぼ」ではその特徴がない・・・・「それではここはどうなんでしょう」と言って指摘をした人が、「團伊玖磨」であった。
恐らく「團伊玖磨」は今までの山田耕筰の作品と、「赤とんぼ」を比較して、「ゆうやけこやけのあかとんぼ」の出だしの「あかとんぼ」の「あか」に言及し、「か」・・・つまり「あ」にアクセントを置くのは山田らしくない、あなたの作曲法に反しているのはなぜか・・・と問いただしたというのだ。小生はこの指摘の背景には、「シューマン盗用説」が存在するのではないかと睨んでいる。・・・つまり山田にしては作曲法がおかしいから、このメロディは無理やり・・・・シューマンから盗ってきたもの・・・と本当は言いたかったのではないか・・・本来なら「あ」にアクセントが置かれなくてはならないはずだということは、「シューマン盗用説」に立脚してのことであろう、と推測してしまう。

しかしこの論争は「團伊玖磨」の完全敗北であった。その理由は明治期以前の江戸弁と、いつの間にかそうなったいわゆる「標準語」の相違があって、山田は伝統的なアクセントを採用したから、「あ」にアクセントを置いた。念のため下町の古くからの江戸っ子に、あるいは古典落語家に聞いてみると、やはり「山田」の言通りだったそうである。山の手の住民「團」はそのことを知らなかったのである。

 

出典:https://sawyer.exblog.jp/1649821/

 

 2つ目の引用ブログでは、下町と山の手の言葉の違いのせいにしているが、そうではなく、江戸弁とNHKを介して広められた「標準語」の違いだろう。なお山田がパクった疑惑を持たれているシューマンの「ピアノと管弦楽のための序奏とアレグロニ短調作品134の副主題は、本当に「赤とんぼ」にそっくりだ。40年以上前にそれと知らずにFMラジオで初めて聴いた時には、あまりによく似ているのにびっくり仰天したものだ。

  山田耕筰から連想して思い出したが、来年の朝ドラのモデルはプロ野球の読売と阪神の応援歌を作曲した古関裕而らしい。それでなくとも来年のヤクルトはDeNAともども東京五輪のせいで一時本拠地が使えなくなってホームゲームを東京ドームで開催させられるのでむかついているというのに。しかも古関には戦争に協力した悪行もある。これも以前にこの日記に書いた。

 関東の言葉、特に固有名詞のアクセントでは、丹沢山系の最高峰「蛭ヶ岳」を藤野の宿の主人が「ルガタケ」と頭高アクセントで発音するのを2005年に聞いた。また、ヤビツ峠付近で秦野市民のおばさんが「塔ヶ岳(塔ノ岳)」を「ウガタケ」と頭高アクセントで発音するのを聞いたのは3年前の2016年だ。つまり今でも関東の言葉に頭高アクセントは生きている。

 私が子ども時代を過ごした関西でも、私の親世代の人が「住吉」「川口」「西川」などの固有名詞を頭高に発音するのをよく耳にしたが、今ではどうだろうか。いずれも2音節目をもっとも高く発音する人が多いのではなかろうか。

 放送による人工語の影響を強く受けているのは何も東京ばかりではなく、大阪(関西)も同じなのではないかと私は疑っている。

 

 なおプロ野球に関して読売に最後っ屁をかましておくと、今年もFA宣言をした選手を強奪しようとした読売が、争奪戦でいずれも敗れ去ったのはいい気味だった。

 大岡昇平は、長嶋が読売に入団した頃は読売ファンだったらしいが、のち長嶋が川上に媚びたプレーをしたのを機に読売離れを起こし、アンチ読売に転じたとのこと。1985年にはにわかタイガースファンと化していた。以下再び『成城だより III』から引用する。

 

 小生神戸在住中、阪急西灘駅より通勤せるため阪神にはむしろ反感あり。投手本位の弱い阪急のヒイキなりしが、北杜夫氏の異常なる熱狂、球場前のファン路上取材にて、ギャルが予想を聞かれてほほえみつつ「負けるんじゃないですか」と答える倒錯的愛好には驚嘆す。

 われもともと大鵬、巨人、玉子焼にて、極めて健全なる趣味を有せり。立教時代より長嶋のファンなり。引続き巨人ファンなりしも、川上に媚びて、広岡バッターの時、本盗失敗を演じてより英雄失墜す。同時に巨人という球団自体がいやになってしまった。(このころからひがみっぽくなった)。江川問題あってより、ますますアンチ・巨人となり、一時読売新聞を取るのをやめていたことがある。

 却って広岡のファンになりて、ヤクルト―西武と変転して、今日に至る。しかし今年の打の阪神に再び英雄を感じ勝たしてやりたい気がして来た。常になく力入る。逆転勝ち多く、うさ晴し効果あり。放送延長につき合い、解説もよく聞き、テレビ視聴時間三時間を越ゆ(七時から放送始まるから、ニュースは夜の六時三十分のTBSから見る)。眼に悪し。睡眠時間ずれて生活のリズム狂う。本も読む時間ますます少なくなる。

 

大岡昇平『成城だより III』(中公文庫 2019)140-141頁)

  

 思えばこの頃がプロ野球人気の絶頂期だった。1985年のヤクルトは2年ぶりの最下位に終わり、いいところが少なかったが、8月に後楽園球場での読売戦で荒木大輔江川卓に投げ勝ち(確かこれが荒木のプロ2勝目で、この試合を契機に荒木は主力投手に成長した)、雨中の試合となった翌日も打線が西本聖も打ち崩し、先発の梶間健一が読売打線を抑えて連勝した。私も(大岡昇平と同様に?)1978年に初めてヤクルトを応援したのだが、翌年以降再び弱小チームに戻り、特に1982年以降は読売を助けてばかりだったのですっかりヤクルトから心が離れて「応援チームなしのアンチ読売」に戻っていた頃だったが、ヤクルトは前年の1984年8月に神宮で読売を3タテし、この年は敵地での前記の連勝、そして翌1986年10月には神宮で読売を地獄の底に突き落としたブロハードの「神が打たせた正義の一発」(槙原寛己からの逆転2ラン)が飛び出すなど、普段ヤクルト戦では勝ちを計算していたであろう読売に、毎年勝負どころで痛撃を与えていた(王貞治が監督を務めたこの3年間、読売は一度もリーグ優勝できなかった)。それらが積み重なって、1978年のようなにわかではない、持続的なヤクルトファンになっていったのだった。

 しかし、長嶋が打者・広岡の時に本盗に失敗した試合はいつだったのかと思って調べてみたら、1964年じゃないか。ということは、翌年以降、大岡昇平はアンチ読売の立場で9年連続で読売のリーグ優勝と日本シリーズ優勝を見せつけられていたわけだ。よくテレビのプロ野球中継を見る気が失せなかったなと感心してしまった。今の私など、今年のように何年かぶりに読売がリーグ優勝するだけで「ハラ」を立てているというのに。