kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

辺見庸『単独発言』(角川書店,2001)を読む

今年読んだ7冊目の辺見庸



このところ図書館で、90年代から今世紀初めにかけて書かれた、あるいは対談が編まれた辺見庸の本を借りて、概ね古い方から順番に読んでいって思うことだが、一部の人たちは共同通信時代や同社を辞めてすぐの頃の辺見庸はまともだったがだんだんおかしくなった、と言うのだけれど、私には辺見庸は全然変わっていない、変わったのは世間の方であって、いわゆる「右傾化」が徐々に進んでいったのだとしか思えない。

2001年に角川書店から出版された『単独発言』には、あの懐かしい文章が載っている。辺見庸の本にはよくあることだが、「コヤニスカッティ」と題されたコラムの中にある下記の文章は、辺見の他の本にも収録されている。調べてみると、2002年に毎日新聞社から出版された『永遠の不服従のために』だった。初出は「サンデー毎日」2001年10月7日号掲載の連載コラム「反時代のパンセ」だった。

 あの同時多発テロにより損なわれたものとは、おびただしい人命のほかに、はたしてなにがあるであろうか。国家の安全、米国の威信と神話、絶対的軍事力の象徴、世界資本主義のシンボル……あるいはそれらすべての共同幻想……がことごとく、深く傷つけられた。だが、ハリウッドの監督たちも腰をぬかした、あの超弩級のスペクタクルが意味したものは、それだけであろうか。私はもっともっとあると思う。

 それは、仮構の構成能力、作業仮説のたてかた、つまりはイマジネーションの質と大きさにおいて、今回の事件を計画・策定したテロリストたちが、米国の(そして世界の)あらゆる映像作家、思想家、哲学者、心理学者、反体制運動家らを、完全に圧倒したということではなかろうか。世界は、じつは、そのことに深く傷ついたといってもいい。抜群の財力とフィクション構成力をもつ者たちの手になる歴史的スペクタクル映像も、学者らの示す世界観も、革命運動の従来型の方法も、あの実際に立ち上げられたスペクタクルに、すべて突き抜けられてしまい、いまは寂(せき)として声なし、というありさまなのである。あらゆる誤解を覚悟していうなら、私はそのことに、内心、快哉を叫んだのである。そして、サルトルジル・ドゥルーズがあれを見たならば、なんといったであろうかと、くさぐさ妄想したことであった。

8年前の2008年に、「辺見庸が9.11テロに快哉を叫んだ」といった具合の、短絡的、かつうろ覚えに基づく文章をこの日記(だったと思う)に書いて批判を受けたものだ。2001年の秋、どのメディアも「反テロ」で一致して、アメリカの報復を肯定する報道をしていたのに強い違和感を持ち、姫路のジュンク堂書店でみつけた、文藝春秋刊のチョムスキーの翻訳本を読んで意を強くし、読売が「ビンラディン容疑者」と書くのなら、それとバランスをとるためには「ブッシュ容疑者」と書かなければ理屈が合わないと思い、そうした記述がされていた文章(ほとんどなかった)をネットでみつけて強く共感していたものだ。当時は電話代が高くついたので、ネットは限られた時間しかやらなかったし、ブログはまだやってなかった、というよりブログという言葉自体知らなかった(Blog・ブログ - 語源由来辞典によると、「ブログ」という言葉(ウェブログ Weblog の略語)は、「2001年9月の同時多発テロを機に、新しいメディアとして社会的に認知された」とのこと)。その後、ブッシュ容疑者はより明白な戦争犯罪であるイラク戦争を起こし、小泉純一郎容疑者がトニー・ブレア容疑者ともどもブッシュ容疑者の共犯者となった疑いが強く持たれていることはいうまでもない。しかも、アメリカもイギリスも今ではイラク戦争が誤りだったことを認めているのに、日本政府と自民党は小泉容疑者や安倍晋三容疑者らも含めて、未だに誤りを認めていない。

辺見庸の本に戻ると、今回読んだ本で一番印象に残ったのは、2000年5月27日に行われた「第八回野間宏の会」における辺見庸の講演を記録した「V 実時間における作家の時代認識について」だった。

ここで辺見庸は、野間宏の『崩解感覚』(初出1948年。私は未読)を高く評価する一方、1960年に亀井勝一郎、竹内実、大江健三郎開高健らとともに中国を訪れた時に、野間宏が中国で行った発言を、「後知恵として申し上げている」(156頁)と断りながらも強く批判している。以下、本書から引用する。

(前略)ここではっきりいえるのは、この時期の野間さんには、「ぐにゃりとした、肉のくずれ去る感覚」という「崩解感覚」はまったくないということです。シニシズムもない、ニヒリズムもない。高潔にしてあれかしという主観的な願望が、毛沢東に対しひたすら投象されていると思うのです。つまり、手放しの崇拝をしてしまっている。中国の状況にもまったくの無批判です。ただただ感動のしどおし。ほとんど、宗教です。私はずっと毛沢東の人物像に関する日本人の表現、それが作家によるものであれ、あるいは思想家によるものであれ、若いころから非常に不満で、いまでも不満なわけです。なぜエドガー・スノーやスメドレーは、人間観察のなかで野間さんのようには書いていないか。スメドレーにいたっては、「毛沢東は暗いニヒリストだ」と書くことができたのか。なぜ、日本の作家たちはそういうふうに冷徹に見ようとしなかったのか。(後略)

辺見庸『単独発言 - 99年の反動からアフガン報復戦争まで』(角川書店,2001)153頁)

そのあと、野間宏が訪れた1960年の中国は、毛沢東が「大躍進政策」を始めて3年目の年だったが、この政策が大失敗だったこと、1960年の中国が大飢饉だったこと、さらに野間宏毛沢東と会見した前年の1959年に開かれた廬山会議で彭徳懐毛沢東を批判して激怒した毛に国防相を解任されたことなどを辺見は指摘する。さらに辺見は、野間宏らの毛沢東礼賛を、1938年に菊池寛の呼びかけで編成された「ペン部隊」という国威発揚団体になぞらえている。以下再び本書から引用する。

(前略)私はどこかで直観として、このペン部隊も、文学査察*1も、それから毛沢東を礼賛する心根も、どこか同じこの国の湿土というか、湿った土壌から生まれているのではないかと思ったりもするわけです。どこか卑怯で、不快な湿土です。集団的な土質というか……。これをいうのは恐れ多いことであります。非常に問題になる発言でもあると思うのですが、私は想像してしまうのです。野間さんの一九六〇年の訪中発言は、ペン部隊的な心意と本質的に異なるといえるだろうか、まったく異質といえるのか、ということを私は考えるわけであります。訪中発言は、ある意味で、ペン部隊の左翼版といえないか、と考えたりするのです。

辺見庸『単独発言 - 99年の反動からアフガン報復戦争まで』(角川書店,2001)164-165頁)

そうだよなあ、その通りだよなあと思う。そして、文学ではなく、戦時中の音楽家の戦争責任に言及することが多い私自身にも、同じ体質はあるんだろうなとも思う。また、件の野間宏と同じ姓を持つ人間がかかわる集団と、それにさらにかかわるパルタイについても連想しないわけにはいかない。件の人物はパルタイとは傾向の違う思想信条の持ち主らしいが。さらに、何の因果か、昨年末に辺見庸パルタイの間にトラブルが起き、その顛末がまた辺見庸のいう「湿った土壌」を感じさせるものであったことも……。

*1:「戦後、“正義”の文壇人らが、ペン部隊参加者のほか、高村光太郎火野葦平らの文学における戦争責任を追及したこと」(本書164頁)。