kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

山本一郎、SEALDs、辺見庸、佐藤優などに関する戯れ言

しつこく衆院北海道5区の補選にこだわるが、補選の結果が出た2日後(4/26)に、山本一郎がいち早く分析記事を書いていた。それは著者の知名度もあってか、人気記事になっていたようだ。私は昨夜(4/28)読んだ。


いうまでもなく、この記事は新自由主義系の右派である山本のバイアスを考慮して読まなければならない。記事にはまともなことも書いてある一方、あまりにもひどいトンデモなデタラメも書かれている。

山本が書いた下記の指摘は、「リベラル・左派」の世界においてはタブーとされている気配もあるが、空気を読まない人間である私としては、正鵠を射た指摘であると評価する。

■SEALDsは若者より高齢者にウケる

パネル調査などではかねてから指摘されてきた部分ではありますが、SEALDs自体の活動の良し悪しは別として、これらの活動を支持する母体属性は50代から70代の男性であることが顕著になりました。

(中略)SEALDsなど政治団体に関する知名度は比較的高い一方、これを支持する、SEALDsなど政治団体が支援しているので投票したと回答する割合は残念ながら高くありません。

明確な理由としては、SEALDsなど政治団体の一般的なイメージは別として、かなりの部分が共産党支持者(全体の5.2%から5.6%)と被っているため、これらがこぞってSEALDsなど政治団体を支援した結果、硬い共産党支持層である50代から70代男性が総じてSEALDs支持に乗っかる現象になっていると見受けられます。

SEALDsと共産党との密接な関係はいまや公然の秘密だ。イラク戦争当時にリベラル・左派の教祖的存在に持ち上げられた辺見庸は、現在では主に共産党シンパ系のリベラル・左派によってこき下ろされるか無視されるかしている。辺見の主張はもともと旧民主党や生活の党と(以下略)の支持者たちに受け入れられるものではない。つまりいまや辺見庸共産党系にとっても民進党系にとっても煙たい存在だ。だから今年に入ってからだけでも辺見の本を6冊読んだ私なども「異端」の部類に属すると思われる。その辺見が、高橋哲哉との対談本で、SEALDsについてこう語っている。

辺見 あれ(SEALDs=引用者註)はひとつの単体による自然発生的なフィノメノンでしょうか? 背後に何があるのか。あるいは自律分散的な現象でしょうか。わからない。かつてポーランドであった自主管理型の思想と組織を持つでしょうか。貧困層、非受益者層の声を代弁し、彼らの訴えを背に受けているでしょうか。戦争を、たんに被害者としてでなく、侵略した側の責任において見つめているでしょうか。「国家は災厄の源」という直観を共有しえているでしょうか。たしかにこれまでの運動現象とは違う。そのわからなさが期待と危惧の両方を生んでいる。危惧のほうについて言えば、一九三〇年代に照らしても、「反ファシズム」と「ファシズム」の距離はじつはそんなに遠くない、ということです。反ファッショはファシズムに容易に反転しうる。あるいは反ファシズムはあらかじめファシズムを内包している。これは主観的な善意や悪意の問題ではありません。自国が他国との武力衝突、戦争に突き進むと社会的フィノメノンは一気に変わるのは歴史が証明している。もう一つ、かつて激しく抵抗すべき時にはなにもせず、いまになって学生たちを御輿に担いではしゃぐオピニオンリーダーたち、流行のシーンに躍り出てきたいまどきの論客たちには、はっきりと怪しいと思うことがある。これは反安保とは関係ないかもしれませんが、たとえば佐藤優という人がよくわからない。

辺見庸×高橋哲哉『流砂のなかで』(河出書房新社,2015)38-39頁)


流砂のなかで

流砂のなかで


辺見庸がブログでSEALDsを激しい言葉遣いで非難した(現在では閲覧できない)あと、「しんぶん赤旗」のインタビューをドタキャンされた一件が昨年末にあったが、上記に引用した高橋哲哉との対談本は昨年末に発行されているから、対談は赤旗ドタキャン事件の少し前に行われたものと思われる。対談本の第1章は「週刊金曜日」に掲載されたが、第2章以降は「語り下ろし」とのことで、上記の引用文はその第2章に含まれている。佐藤優は「週刊金曜日」とのかかわりが深いから、佐藤優批判が含まれる第2章は、あるいは「週刊金曜日」には載せられなかったのではないかとか、辺見庸と金曜日との喧嘩別れには、赤旗ドタキャン事件のほかにも理由があるのではないかとか、最近になって佐高信佐藤優との絶縁を表明したらしいこともその絡みではないか、等々、妄想はいろいろと膨らむ。最近の佐藤優池上彰とつるんで朝日新聞出版からマルクスをダシにした対談本(2015年)を出したのでそれを読んでもみたが、私はもちろんそんな対談本には全然感心しなかったし、かつての金光翔氏による「<佐藤優現象>批判」の頃と比較しても最近の佐藤の腐敗ぶりは底なしの様相を呈していると思っている。一言で言うと佐藤という人間は金儲けになることなら何でもやるという印象だ。たとえばどっかの雑誌が昨年ピケティと佐藤を対談させたが、マルクスを引き合いに出して韜晦しつつピケティを当惑させる佐藤に私は激怒したものだ。そんなこんなもあって、このところの佐藤優の増長ぶりには目に余るものがあったから、情勢判断の甘さに定評(?)のある佐高信も佐藤を見限るほかなくなったのではないか。

佐藤優の悪口はともかく、辺見庸高橋哲哉との対談の時点で既に、SEALDsと共産党とのつながりを強く示唆していることはいうまでもない。今回の「野党共闘」は共産党の「国民連合政府」の構想に端を発しているが、その発想は、SEALDsを接着剤として民進党などの他の野党と選挙を共闘しようというものだ。その背景には、共産党にもはや自前の候補者を全選挙区に出す資金力が底をついてきた事情があると思われる。そこで共産党以上に顕著な党勢の衰退に見舞われている民進党と野合しようというわけだ。民進党内の旧民主党と旧維新の党も野合なら、野党共闘もまた野合だし、もちろん腐れ縁が長く続く自民党公明党など野合の最たる例だ。野合と野合との戦い。政治戦とはしょせんそういうものだ。辺見庸は「国家は災厄の源」というが、その通りだと私も思うし、だから私はいかなる政治家や政党に対しても無条件にもたれかかることは絶対にしない。よくブログのコメント欄で「お前はどの政治家(あるいは政党)を支持しているのか」と聞かれるが(その聞き手の多くは「小沢信者」であろう)、いかなる権力も絶対に腐敗すると信じる私は、特定の政党あるいは政治家の「信者」になど絶対にならない。しかし残念ながら同じような考え方をする人間はごく少数であるようだ。

今回の記事は、思っていることを頭に浮かんだまま書き散らしたので、山本一郎北海道5区の補選の分析からSEALDsへ、そこから辺見庸へ、さらには佐藤優へと脱線の連続になってしまった。だが単なる個人の日記に過ぎないので、混乱したままいったんここで終える。山本の北海道5区の分析の紹介とそれに対する批判については、項を改めることにする。