日本でピケティの『21世紀の資本』の邦訳が発売されたのは2014年だった。あの本には膨大な統計データをまとめたグラフが多数載ってたりして、そういうのに慣れていない読者はへこたれるだろうなとは私も思ったが、あの本では本来数学が得意なピケティが本来の数学の演繹的なアプローチを放棄して、「文系数学」的というか帰納的なわかりやすいアプローチをしている。彼が課題としているのは「戦争によらない格差の解消」にほかならないのだが、なぜか日本ではそういう方向の議論が深まらず、ピケティが「ブーム」として消費されてしまったことは痛恨の極みだった。
特にマルクスというか「宇野経済学」を引き合いに出してピケティを「国家社会主義者だ」と論難した佐藤優の議論には腹が立った。この日記のコメント欄に、佐藤が「安倍のあとにくるであろうファシズムこそ問題だ」と言っていたと指摘された方がいたが、私は「佐藤優こそファシズムを招き寄せようとしている張本人ではないか」と言いたくなる。
「薔薇マークキャンペーン」についていえば、当初は旧民主・民進系のTwitterアカウントの発信者たちが「薔薇マーク」を頭ごなしに否定しているのを見て腹を立てた。しかし最近では、山本太郎による立憲民主党への強い憎悪を示す発言(これは昨日の日記で少し触れた)や、「日本経済復活の会」へのかかわりが発掘されたりしたことに強い危機感を持っている。後者については、こたつぬこ(木下ちがや)氏もTwitterで取り上げたので(下記)、知る人が増えたようだが、私は「政権交代」の前に当時の反自公ブロガーとしては異端に近いくらいに積極財政政策を推す記事をよく書いていた2008年頃に「日本経済復活の会」へのお誘いをいただいたことがあったので、当時からこの会が極右の巣窟であることは知っていた。なお当然ながら、私は新自由主義者と同じくらい極右が大嫌いなので、お誘いには乗らなかった。
だんだん人脈が明らかに。 https://t.co/aPTcMg9jA2
— こたつぬこ『「社会を変えよう」といわれたら』4/17発売 (@sangituyama) June 6, 2019
結局私は坂野潤治に立ち返ってしまう。坂野は、戦前に行った「反軍演説」が有名な斎藤隆夫が格差には鈍感で、社会大衆党がファシズムに走ってしまったことを繰り返し指摘している。現在も、旧民主・民進系支持の人たちは、90年代の民主党がとってしまった新自由主義路線の惰性が残っているのか格差には鈍感である一方、「大きな政府」を志向しようとするとファシズムの罠が待ち構えているように思われる。
山本太郎についていえば、この人は本当に小沢一郎に心酔してるんだなあと思う。あれこそ小沢一郎の本音の代弁なのだ。小沢には、自らが仕掛けた小池百合子や前原誠司との野合を、立憲民主党の立ち上げによって邪魔されたという強い怨念があるに違いない。それを小沢は自分では言わず、周りの人間である山本太郎に言わせている。それが昔からの典型的な「小沢流」なのだ。
まあ山本太郎というのは純粋な人なのだろう。だから彼が変な方向に行こうとしてると思ったらそれを正直に指摘して強く批判しなければならない。その意味で、先日こたつぬこ氏が「山本太郎はリベラルとファシズムの間の線上に立っている」と指摘したのは、実に良いことだった。今も少し覗いてみたら、山本氏が変な方向に行かないように歯止めを掛けようとする懸命なツイートがいくつかあった。
山本太郎は、誰も傷つけない政治を目指していますよね。辛い気持ちを山本太郎は代弁しています。その気持ちを広く伝えるためには、排外主義を唱えるような人たち、詐欺師まがいの人たちとは距離を置かなければ。山本太郎をそうした人たちから守れるのは支援しているみなさんたちだけです。 https://t.co/ENIltpMdjk
— こたつぬこ『「社会を変えよう」といわれたら』4/17発売 (@sangituyama) June 6, 2019
しかしアブナイのは「山本太郎は間違わない」と断言して憚らない「信者」的なあり方の人が少なくないことだ。これにもこたつぬこ氏は警告している。
山本太郎が判断を間違わないことは、山本太郎を支持する方々が判断を間違わないことを保証しません。いろんなものが寄ってくるのがお分かりなら、安心論は振りまかない方がいいですよ。 https://t.co/HSO5awH4OZ
— こたつぬこ『「社会を変えよう」といわれたら』4/17発売 (@sangituyama) June 6, 2019
確かガルブレイスが晩年の著書に書いていたことだったと思うが、政治家は支持者が望む政策しかとれない。「山本太郎が判断を間違わないことは、山本太郎を支持する方々が判断を間違わないことを保証しません」というのは本当にその通りで、これは山本太郎を枝野幸男に置き換えても成り立つ。私は、一昨年の衆院選の直前に立憲民主党を立ち上げた枝野幸男が、政権を獲ってもいきなり金融緩和を止めたりはしないと明言したことに接して、この人のもともとの保守的な思想信条には共感できないけれども「風を読む」ことには長けているなあと思ったものだ。しかし現在の立憲民主党は前述のような90年代の民主党がとっていた新自由主義的な惰性を脱せずにいる。それはそういう方向性を立民の支持者が望んでいるからだ。「枝野幸男が判断を間違わないことは、枝野幸男を支持する方々が判断を間違わないことを保証しない」ことの好例だと思う。
同じことが山本太郎支持者についてもいえる。民主・民進クラスタに対しては新自由主義への傾斜が懸念されるが、山本太郎支持クラスタに対してはファシズムへの傾斜が懸念される今日この頃なのである。