kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

左派による孫崎享『戦後史の正体』擁護論には苦しい論理付けが目立つ

「リベラル・左派」には特有の同調圧力があると某所で指摘されたが、孫崎享トンデモ本『戦後史の正体』をめぐる左派の右往左往を見ていると、(残念ながら)正鵠を射た指摘ではないかと思える。

下記ブログ記事はその典型的な例だ。全く感心しない記事である。


『戦後史の正体』――「自主独立」と「対米追随」: オコジョのブログ より。

 いわゆる吉田ドクトリンの記憶が、いつまでもしつこく残っています。
 そのパラダイムの中では、「自主独立」は「改憲再軍備」と「対米追随」は「軽軍備」とセットになっています。
 このパターンは、現実としては既に久しく無効になっているのですが、相変らずそんなパラダイムにとらわれた言説が流通し続けているようです。

 孫崎享の『戦後史の正体』は、20万部を越えるベストセラーになり、多くの人の支持を得ている一方で、否定的な評価をする議論もあちこちで眼にします。
 それらの議論に対する疑問の一つは、この本が何故これだけ広い支持を得ているのかを説明できていないのではないかということです。
 結局のところ、そうした否定論には共通した錯覚があるのではないかと私は考えます。

 ひとつには、多くの読者は「自主独立」も「対米追随」も、現在われわれを取りまく現実を参照しながら、ごく素直に受け取っているのではないか、ということ。
 それに対して、否定論者はいまだに冒頭に書いたようなパラダイムにとらわれているのではないか、と思うのです。

まずこの書き出しからして欺瞞がある。『戦後史の正体』が「現在」ではなく、「戦後史」を記述した書物である以上、「『自主独立』は『改憲再軍備』と『対米追随』は『軽軍備』とセットになって」論じられてきたという歴史的事実を(たとえ批判的視座からであったとしても)書き落としてはならないはずだ。たとえば6年前の安倍晋三政権発足時に出版された宮崎学&近代の深層研究会編『安倍晋三の敬愛する祖父 岸信介』はきちんとこの対立構図を書いている。この図式は、たとえ現在では「無効」であろうが、吉田茂鳩山一郎岸信介が総理大臣を務めていた時代には「有効」だったのだ。このように、ブログ主は歴史的事実と現在の政治状況の評価を混同しており、この時点で早くも論理が破綻している。なお、孫崎享は「改憲再軍備*1」対「軽軍備」という対立構図を(おそらく意識的に)書かず、それどころか71頁でさらりと「押しつけ憲法論」を開陳することによって、読者をそれと意識させないままに「改憲論」の世界へと誘(いざな)っている。

これに続く部分には、孫崎の「60年安保闘争アメリカによる岸政権つぶし」という陰謀論への懐疑が書かれており、その部分は大筋においてそんなにおかしな議論ではない。

しかし、下記の部分には大いに異議がある。

 米国が岸おろしを意図していたという仮説には、私は反対しません。ありそうなことだとは思いますが、判断するための材料がないということです。
 ただ、それがあったとしても、そのための手段は自民党内の妨害勢力の動きであったとする方が、蓋然性が高いと考えます。
 この点については、孫崎も言及していますね。池田勇人らの党内勢力です。


 後で詳しく書きたいと思っているのですが、国会の外に注目するのではなく、この時点で自民党内の「クーデター」が起こったと見なす方がより腑に落ちます。
 一言でいうなら、日本民主党から自由党に党内の力関係がシフトしたということです。

これは明白な事実誤認だ。岸信介の辞意表明を受けて行われた1960年の自民党総裁選において、岸はそれ以前に大野伴睦との間で交わしていた「政権禅譲」の密約を裏切り、池田勇人支持へと踏み切った歴史的事実があるからだ。岸信介池田勇人との間の「断絶」ばかり強調されることが多いが、岸政権と池田政権との間には「連続性」があったことも見逃してはならない。それを孫崎のように「岸=自主派」、「池田=対米追随派」などと二分してしまうのは、「度を過ぎたトンデモ」としか言いようがない。

 池田信夫という人がブログで『戦後史の正体』を論じているのを見つけました。
 安保騒動=謀略説は、簡単に否定できるというようなことを書いています。この人は、たぶん本を読まないで書評をしているのでしょう。
 岸信介がCIAから資金援助されていた事実がある――こう得々と書いています。これだけで根拠としては十分だ考えたようですが、そんなことは多くの人が知っています。孫崎が知らないはずがないとは思いつけなかったのでしょうか。

池田信夫(ノビー)が孫崎本をろくすっぽ読まずに書評を書いているのは確かにその通りだと私も思うし、孫崎が春名幹男著『秘密のファイル』を引用する形でCIAから岸信介への資金提供に触れているのも事実だ。だが、孫崎がそれにもかかわらず岸信介を「自主派」、池田勇人を「対米追随派」に位置づけていることには論理の飛躍がある。それもこれも、孫崎が最初から「結論ありき」で文章を書いているからそんなことになるのである。それにしても、右派のノビーが「安保騒動(闘争)=謀略説」を否定し、左派と思われるブログ主が肯定するとは、なんという倒錯だろうか。目眩がする。

さて、このブログ記事で最悪だと思ったのは下記のくだりである。

 田中角栄のケースについては、池田信夫以外にも、謀略説をトンデモだとする人が結構います。要するに、決定的な証拠がないということを言いたがっているようです。

 しかし、ラムズフェルドの口まねをするつもりもないのですが、決定的な証拠がないことをもって、謀略説をトンデモだと断言することが、実は別種のトンデモであるとは言えるのではないでしょうか。

この文章には、これはひどいと思わず声をあげてしまった。

謀略が「あった」と主張する場合、立証責任がそれを主張する側に生じるのは当然である。しかるに、孫崎享は『戦後史の正体』の205頁で自ら

もちろん確証はありませんが、私は一番あり得るシナリオは、(以下、60年安保闘争CIA謀略説の開陳が続くが省略)

などと書いている。実証精神を自ら放棄し、開き直っているのである。それを指摘し「トンデモ」と批判することがどうして「別種のトンデモ」になるのか。ブログ主のこの主張にはとうてい承服できない。

いずれにせよ、左派の人が孫崎本を無理に擁護しようとすると、こういう強引な論理付けにならざるを得ないのかと思わせる見本のようなブログ記事だと思った。

*1:再軍備」というより「重軍備」ないし「重武装」と表記すべきだろうが。