kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「集団的自衛権」と「集団安全保障」と小沢一郎と

90年代的? - Living, Loving, Thinking, Again(3月23日)より。

「『加治隆介の議』の最終回は加治隆介が首相に就任して、「国連を中心とした安全保障体制の確立と、そのためなら憲法改正も辞さない」という「所信表明演説」で終わるそうですが(p.246)、「国連を中心とした安全保障体制」云々というのは小沢っぽいといえるかも知れません」と書いたのだが、この「国連を中心とした安全保障体制」というコンセプトは1990年代的なものだよね。21世紀に入ると、特に911以降は、この「国連を中心とした安全保障体制」への信頼性が低下し、米国などが(自分勝手に)ことを起こす「単独行動主義」によって世界情勢が動くようになったのではないか(最上敏樹「国連は無力なのだから、国連中心の平和主義には意味がないのではないか」in 憲法再生フォーラム編『改憲は必要か』、pp.25-48)。

「国連を中心とした安全保障体制」というのは「集団安全保障」ということなのだろうけど、この「集団安全保障」と「集団的自衛権」を混同している人って少なくないのではないかと思うのだけど、如何だろうか。この2つは別物というか対立さえする概念であり、水島朝穂氏曰く、

 集団的自衛権は、自国と密接な関係(「死活的利益」を共有する関係)にある外国に対する武力攻撃を、自国が攻撃されていないのにもかかわらず、実力をもって阻止する権利のことです。あえて言えば、集団的自衛権は、国際社会における積極的な「宝」などではなく、「仮想敵」を持つ軍事同盟としての「過去」を引きずる歴史的遺物であると同時に、国連の集団安全保障の理想に反する異物でもあります。集団的自衛権を肯定する人でも、将来的には抑制・克服されるべき「必要悪」と見る人も少なくありません。ですから、「持っているけど使え(わ)ない」というのは決しておかしなことではなく、一つの見識なのです。(後略)「現実と遊離してしまった憲法は、現実にあわせて改めた方がいいのではないか」(『改憲は必要か』、p.157)


因みに、「集団的自衛権」を先頭になって叫んでいたのは安倍晋三(p.150ff.)。


小沢一郎は「集団的自衛権の政府解釈を見直すべき」というのが年来の持論だし(小沢一郎は憲法改正に「賛成」、集団的自衛権の政府解釈は「見直すべき」 - kojitakenの日記=2012年12月8日=など)、その一方で「国連を中心とした安全保障体制」もずっと唱えているので、小沢は果たして両者をきっちり区別しているのだろうかと思ってググってみた。


http://www.ozawa-ichiro.jp/policy/04.htm より。

「国連常備軍」を創設する


 直接的に武力攻撃を受けたときの反撃手段のため、最小限度の軍事力として自衛隊を持つ。加えて国連の一員として平和維持活動に協力して「国連常備軍」の創設を計画したり、軍縮核兵器廃絶などの具体的な目標を法律(安全保障基本法)に織り込むことも可能である。
 新世紀を迎えようとする日本が平和を維持し、生き残っていくためには、国際社会との協調を図らないければならない。そのためには、国連を中心としたあらゆる活動に積極的に参加していく以外に道はない。その意味で私は、日本が率先して国連常備軍の構想を提案すべきだと思う。兵器・技術の発達により、もはや昔の主権国家論は通用しなくなった。個別的自衛権集団的自衛権だけで、自国の平和を守ることは不可能である。集団安全保障の概念、すなわち地球規模の警察力によって秩序を維持するしかない。自衛隊は歴史的使命を終えて、これから縮小することになる。そして日本は国連常備軍に人的支援と経済力を供出すべきである。
 明治維新のとき、朝廷は武力を持たなかった。警察力も権力もなかったので、薩長を中心に親衛軍をつくったのである。今の国連は、ちょうど維新後の朝廷と立場が似ている。固有の力を持っていないので、事が起きた時に、その都度各国に呼びかけPKOを始めとして多国籍軍の編成を行うことになる。これでは、緊急な時に迅速な行動がとれないという事もあり、又、その時々の各国の思惑や事情により実効があがらないという面も多々ある。従ってこういうやり方でなく、一歩進めて国連に常備軍を設けるべきであるというのが私の主張である。日本は国際協調によらなければ生きていけないのだから、日本が積極的にこの常備軍創設を呼びかけるべきだ。アメリカはこの考え方に賛成ではないが、日本はその説得にあたると同時に、経済的にも軍事的にもその力の備わった有力な国々に積極的に提唱し、それを率先して実行する姿勢を示すべきである。
 一概に、国連を中心とした集団安全保障とは言っても、もちろん実はそこに国益が絡んでいることもある。湾岸戦争のときにも、アメリカはメジャーの石油資本を守りたいという思惑があると主張する人達がいた。確かに、自らの利権を守るために軍隊を派遣する側面もあった。しかしアメリカはけしからんと短絡的に批判することに、何の意味があるのか。
 これはグローバリゼイションの問題でもある。この流れに反感をもつ人達の中には、「グローバリゼイションとはアングロサクソン原理の国際化である」と言って批判する人がいる。しかし、そんなこと言っても、どうしようもない。世界はそれに基づいて動いているのだから、きちんと対応して克服するしかないのである。アメリカと手を切ることは、日本が鎖国するということに等しい。それでいい、それこそが真の幸せだと確信できるのであれば、それも一つの行き方であり哲学だと私は思う。しかし、物資的豊かさは人一倍享受したいと願っているくせに、口先でだけそんな事を言うのは、日本的"アマッタレ"以外の何物でもない。
 結論として言えば、国際の平和と安全の維持、回復のため我が国が積極的に貢献することは、憲法第九条に言う「国権の発動たる戦争」とは全く異質のものである。
 すなわち、我が国が世界の恒久平和のために、国連権章に基づき、兵力の提供を含むあらゆる手段を用いて貢献することこそが、結果として我が国自身の平和と安全を守ることである。
 そして、これこそが日本国憲法の目指す「国際協調主義」の原点そのものである。


小沢一郎は「集団的自衛権」と「集団安全保障」をしっかり区別していた。その上で、その両方に賛成するというのが小沢の立場ということなのだろう。その点が、過去に「集団安全保障」を主張していた石橋湛山南原繁らと違う、タカ派小沢一郎らしい点ではないかと思う。そして、小沢の主張は、上記小沢論文が『文藝春秋』に掲載された1999年から今に至るまで全く変わっていない。「アメリカと手を切ることは、日本が鎖国するということに等しい」という言葉に注目してほしいが、小沢は別に「反米」でもなんでもない。一部の「小沢信者」が勝手に「反米」の幻想を小沢一郎に投影し、誤解されても特に何も困らない小沢が単にそれを否定も何もしないだけの話であって、小沢の本音は上記の論文にある。その主張はいたって明快だ。小沢は何も「信者」を騙しているわけではない。勝手に妙な妄想を抱いて小沢一郎にそれを投影する「小沢信者」どもが狂っているだけの話だ。


なお、「集団的自衛権」に対する、安倍晋三に限らず自民党の政治家たちの主張は、昨年の自民党総裁選当時に報じられた下記日経記事の通り。


集団的自衛権をそろって容認 :日本経済新聞

集団的自衛権をそろって容認
自民総裁選で5氏


■安全保障 石破氏「日本の海兵隊」創設

 15日の自民党総裁選の公開討論会では、政府の憲法解釈で禁じている集団的自衛権について、安倍晋三元首相が「行使を認めるべきだ」と主張、石破茂政調会長も「基本的な認識は全く同じ」と同調した。林芳正政調会長代理も行使を可能にする国家安全保障基本法について「やるべきだ」と明言。町村信孝元外相、石原伸晃幹事長も行使容認を明言しており、5氏が足並みをそろえた。(後略)

日本経済新聞 2012年9月16日)


2004年当時、「『集団的自衛権』を先頭になって叫んでいたのは安倍晋三」とのことだが、安倍晋三は2004年の参院選敗北の責任をとって辞任するまで自民党幹事長職にあったから、タカ派色が強かった小泉時代自民党にあって、自らも極右政治家である安倍晋三が「『集団的自衛権』を先頭になって叫んでいた」のは、そりゃそうだろうなと思った次第(笑)。