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古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

長谷川幸洋、「憲法学者の見解は絶対なのか」と絶叫(呆)

橋下徹と並んで腹立たしいのは、東京新聞中日新聞論説副主幹の長谷川幸洋である。橋下に対しては一部の「リベラル」が異様に甘く、この期に及んでまだ「橋下くんが早速ツイッターで、民主党との連携を否定したり、安保法制合憲論を擁護したりしてい」るが、「あれはとりあえず安倍陣営や大阪維新の議員とのお付き合い上、書いたもの」などと言っている。政治は結果がすべてである。安保法案が今後どうなるか。そして「立憲主義を理解している橋下くん」はどういう役割を果たすのか。結果は今後明らかになる。

一方、長谷川幸洋に甘いのは、一部「脱原発派」や「小沢信者」などである。さる「小沢信者」が「親安倍ではないはずの長谷川幸洋氏」などと書いていた間抜けさは忘れられない。その程度の眼力しかないから「小沢信者」が務まるのであろうが。

その長谷川幸洋がまたやってくれた。例によって「きまぐれな日々」にいただいた鍵コメで長谷川の妄論を知った。

安全保障法制見直し論議。憲法学者の見解は絶対なのか(長谷川 幸洋) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

安全保障法制見直し論議憲法学者の見解は絶対なのか
2015年06月12日(金) 長谷川 幸洋
長谷川幸洋ニュースの深層


安全保障法制の見直しについて、3人の憲法学者が国会で「違憲」と断じたのをきっかけに憲法論議が再燃している。だが、違憲かどうかを決めるのは学者ではない。最高裁判所だ(憲法81条)。そこで最高裁の砂川判決(1959年)をあらためて読み直してみよう。

「専門家」の権威に弱い日本人

こういう作業はともすれば、プロの裁判官や弁護士など専門家にお任せすべき仕事と思われがちだ。とりわけ新聞記者やジャーナリストがそうだ。普段は「自分が一番事情に詳しい」とうぬぼれているくせに、こと法律とか判決になると、からきし「専門家」の権威に弱い。

私は40年近く新聞業界にいるが、ちょっと専門的な話になると「先生のお説を賜ります」とへこへこする記者が多いのにあきれている。司法記者はとくにそうだ。自分の頭で判断できないのだ。だから、一見もっともらしく書いている司法記事や社説は、たいてい「専門家」から聞いた受け売りである。

とりわけ左派系マスコミはここぞとばかり、左派系論者を動員し、自分たちもそれに追従して論陣を張っている。もともと安保法制論議では長谷部恭男・早大教授も小林節・慶大名誉教授も左派系マスコミの御用的存在だった。彼らの議論はずっと前から同じだが、国会で意見を述べたとたんに大注目されるのは、マスコミの歪んだ権威主義の裏返しである。

そもそも安保法制のような案件で、憲法学者の説をありがたく賜っていること自体が日本の危機ではないか。憲法学者の議論が無駄とは言わないが、憲法の専門家が日本を脅かしている脅威を正しく判断し、それへの対応策を立案できるわけがない。

彼らの多くはひからびた法律知識を金科玉条のごとく抱きしめて、それを学生たちに講義するのを職業としている。「ひからびた」というのは、文字通りだ。なぜなら憲法は制定以来、一度も改正されていない。

その間、日本を取り巻く安全保障環境は激変し、ここ数年はとりわけ大激動している。にもかかわらず、憲法は変わらず、したがって憲法学者の頭の構造も変わっていない。そういう学者の説にしたがって、日本の安全保障政策を考えようという姿勢自体が日本を危うくする。私はそう思う。

砂川判決をどう読むか

その点を確認したうえで、あえて憲法論争の土俵に乗ってみよう。私は専門家でも司法記者でもないが、日本語が読めればとりあえず十分だ。最終的に何が正しく、どうあるべきかを考えるのは学者ではない。国民である。実は後で触れるように、砂川判決のエッセンスも「最終的には国民の判断に委ねる」という点にある。

砂川判決(要旨はこちら、http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=55816、全文はこちら、http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/816/055816_hanrei.pdf)とは、米軍立川基地の拡張に反対するデモ隊の一部が基地内に突入して逮捕された事件に関連して、最高裁憲法9条と日本の自衛権日米安保条約との関連について初めて下した判決だ。

最高裁はこの判決で、憲法9条は戦争を放棄し戦力の保持を禁止しているが、それによって「主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく」(中略)「我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」と述べた。

ここで国家固有の権能として認められた自衛権の中に集団的自衛権も含まれるかどうか、が焦点になっている。判決はそこを明示していないが、論理が指し示す含意的結論はたどっていける。

判決は日米安保条約について言及した中で「条約の目的は(中略)国際連合憲章がすべての国の個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基づき(中略)わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である」と書いている。

そのうえで、そんな目的をもった安保条約が「違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、したがって一見、極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のもの」(=統治行為論)という判断を示した。

集団的自衛権違憲ではない根拠

まず「安保条約は国連憲章51条にある個別的自衛権集団的自衛権を基礎にしている」。判決はこの点を認めた。そのうえで「安保条約が違憲かどうかは一見、明白に違憲とはいえず司法権の範囲外」というロジックになっている。

言い換えれば「集団的自衛権も基礎にしている安保条約は一見、明白に違憲とはいえない」。そうであれば、安保条約が基礎にしている集団的自衛権も一見、明白に違憲とはいえない、という話になるのではないか。むしろ、おそらく合憲の範囲内になる。私にはそう読める。

奥野健一裁判官と高橋潔裁判官は判決に対する補足意見の中で、もっと鮮明に安保条約合憲論を展開した。判決本文が示した統治行為論を退け「裁判所が安保条約の国内法的効力を審査することは可能」としたうえで、次のように述べたのだ(判決全文の中にある)。

ーーーーーー
「安保条約は(中略)国連憲章51条の『個別的および集団的自衛の固有の権利』に基づき(中略)自衛のための措置を協定した集団的安全保障取極で(中略)もとより侵略を目的とする軍事同盟であるとは言いがたく、憲法9条の精神にも、その前文の趣旨にも反するものとはいえない」
ーーーーーー

この補足意見にしたがえば、個別的および集団的自衛権に基づいた安保条約を合憲としている。そうであれば、条約の前提の一部になっている集団的自衛権違憲という話になるわけがない。もっと簡単にいえば、安保条約自体がそもそも日米2国間で取り決めた、集団的自衛権に基づく協定なのだから、集団的自衛権を否定したら安保条約自体が成り立たないのだ。

裁判所に最終判断を委ねるべきではない!

さらにいうと、米国との2国間関係のみならず、第6条で極東(具体的には韓国、台湾、フィリピン)の平和と安全にもコミットした安保条約が集団的自衛権を前提にしているのを認めたとしても、集団的自衛権に基づく武力行使は認めていない、というような左派の議論もある。

これは馬鹿げている。基地があるのは有事で使用するのが前提だ。基地使用を認めないというなら、基地そのものを認めないのと同じである。つまり安保条約違憲論であり、これはまさしく砂川判決が結論を出している。

統治行為論については、先に引用した「司法審査権の範囲外のもの」という記述に続いて、こうある。「第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とする」

この「国民の政治的批判に委ねられるべきもの」という点に、私は同意する。先の補足意見は条約の「国内法的効力」に注目して、その限りにおいては司法審査権が及ぶという主張だった。

だが、国の存立にかかわるような重大案件についていえば、最終的には国民の判断次第ではないか。まずは国民が選ぶ国会議員と議員が選ぶ政府の判断が大事であって、裁判所に国の存立にかかわる最終判断を委ねるべきではないと思う。

これは1959年の判決である。いまから56年前だ。それだけの時間が経っても、同じような議論が国会で蒸し返されているとは、ある意味、驚き以外のなにものでもない。それくらい安全保障の論議は、時間が止まっていた証拠である。安保条約と砂川判決については、1年前の2014年5月16日に公開したコラム(http://gendai.ismedia.jp/articles/premium01/39274)もご参考に。


特定秘密保護法案に賛成した長谷部恭男も9条改憲派小林節も、長谷川幸洋にかかれば「左派系マスコミの御用的存在」とされてしまう。そして、最高裁判所を隠れ蓑にする卑怯な論法を繰り出す稲田朋美安倍晋三を、「裁判所に最終判断を委ねるべきではない!」と叱り飛ばす。

いやはや、すさまじい戦闘的極右である。

なんでこんな人間を、東京新聞中日新聞)はいつまでも論説副主幹として厚遇するのだろうとか、なんでこんな人間が某「小沢信者」には「親安倍ではないはず」に見えたのか、などなど、疑問は尽きない今日この頃である。