kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「安倍晋三」という気分?(朝日)

昨日(10/18)の朝日新聞オピニオン面、「『安倍さん』という気分」は、石田英敬東京大教授(記号論・メディア論)へのインタビュー記事。石田教授の発言自体はまっとう至極なのだが、記事の書き出しにいきなりカチンときた。以下引用。

 安倍政権が発足して10カ月。いま日本社会は刹那的な多幸感に包まれ、時代の大きな転換点にあることを見過ごしてしまいそうだ。

「多幸感」は、excite辞書(大辞林 第三版)を参照すると、「(麻薬などによる)過度の幸福感。陶酔感。 」とあり、記事の書き手が皮肉を込めていることは冷静に考えればすぐにわかる。事実、そのあとの文章は、

なぜこのような時代の空気が醸成され、そして日本という国がどこに向かおうとしているのか。政治が凪いで見える今こそ考えたい。まずは「安倍人気」の底流について、メディア学者の石田英敬氏に聞いた。

と続く。しかし、派遣労働やブラック企業に苦しめられている労働者にとっては「多幸感」すら感じられないだろうに、というわだかまりは残る。

石田教授は、

「何といっても、最初に『アベノミクス』という仕掛けを作ったことが大きい」

「何につけても『アベノミクス効果』をうたい、称賛し、人々の景気回復への期待をどんどん膨らませればいい。それが実際に株価上昇という現実をつくり出し、さらなる期待を醸成する。この『期待の螺旋』が安倍政権の『人気の資本』です」

などと指摘し、

「『裸の王様』よろしく、『安倍さんは裸だ』と気づいたとしても誰も自分からは言い出せない。期待と沈黙で両側から支えられた政権が安定するのは当然です。当否や持続性への疑念を棚上げすれば、仕掛けは見事と言うほかありません」

と続ける。

もっともな指摘だ。私には、「小沢信者」が小沢一郎を「裸の王様」にしてしまったのと同じことを、多数の国民が安倍晋三に対してやっているように見える。安倍晋三の破滅は、現在見る小沢一郎のそれの比ではない悲惨さになるだろうとも予想している。

しかし、上記部分のあとのインタビュアーの質問にまたカチンとくる。

 −− 安倍晋三首相の言葉の力も、人気を支えているのではないでしょうか。首相の演説が五輪招致の決め手になったと称賛されています。

なんだと、この野郎。そう思いつつふと気づいたのは、インタビュアー及び記事の書き手は、「野郎」ではなくあの女性記者ではなかろうかということだった。記事の最後を見ると、やはりその通り。聞き手は高橋純子記者。これはおそらく読者の神経を逆なでして記事に注意を引きつける、高橋記者一流の技術なのだろう。記事の書き出しや質問だけで記者の個性を感じさせるとは、それはそれで大したものかもしれない。

高橋記者のこの質問に、石田教授は

「人々に響いているのは、首相の言葉でなく、イメージでしょう。言葉を武器に人々の理性に訴え、説得を試みるのが本来の政治ですが、安倍首相が展開しているのは、理性ではなく人々の感性に働きかけ、良いイメージを持ってもらうことで政治を動かすことを狙った『イメージの政治』です」

と答える。

何やら、最近「脱原発」を唱えているとやらで話題の小泉純一郎を思い出させる話だが、石田教授は、小泉は個人の才能でやったが、安倍晋三の場合はおそらくプロが演出していると推測する。これもその通りであろう。

石田教授は、テレビ、インターネット、SNSの時代になって、情報が頻繁に更新されるために、古い記憶はどんどん消去され、メディアは出来事を人々に認識させる伝達装置であるとともに、片っ端から忘れさせていく忘却装置ともなっていると言う。確かに安倍晋三のあの「総理大臣投げ出し」(2007年)を人々が覚えていれば、あんな男を支持できるはずがなかろう。

このような状況に即した戦略をとった典型的な人間が橋下徹であり、政治家の発言がコロコロ変わっても問題視されないのが現代のポピュリズムのかたちだと石田教授は言う。ブレーンの戦術によって、「担ぐ御輿は軽くてパーがいい」式に担ぎ上げられている安倍晋三もまた、典型的な現代のポピュリズム政治といえるだろう。

石田教授は、安倍政権は民主党の「政権交代」の失敗により生じた「政治は変えられない/変わらない」という人々の諦めを「うまく原資にして」(=利用して、あるいは悪用して:引用者註)政治を動かしていると指摘する。「他に選択肢はない」、安倍政権が発しているメッセージはこれに尽きるという。だから大型公共事業は復活し、原発は推進され、沖縄の空をオスプレイが飛ぶ。石田教授が言っていない例を追加すると、民主党政権下の昨年禁止されたばかりの日雇い派遣が復活し、「解雇特区」を作ることが企まれ、ワタミ(渡邉美樹)が自民党参院議員になった。

こんな現状を受け入れていて良いのか、という疑問を提起する人間も、ずいぶん数が減った。いまや日本の政治・経済・社会は「緩慢な死」の過程にあるのではないかと思われる。