kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「ブラック企業」は「差別用語」か

このところ、差別表現について考える機会が多い。

少し前に、堀江邦夫『原発労働記』(講談社文庫)と『原発ジプシー【増補改訂版】』(現代書館)を比較する - kojitakenの日記(2013年12月23日)という記事で「差別表現」について書いたのだが、それとは全く別の話。

きまぐれな日々 東京都知事選、宇都宮健児氏は支持できない(2013年12月24日)にもらったコメントの件である。

上記エントリは、来年の都知事選に立候補を予定しているという宇都宮健児氏の取り巻きの「村八分」的な体質が気に食わないから私は支持しないという、このところ繰り返し書いている話だが、それに下記のコメントがついた。

http://caprice.blog63.fc2.com/blog-entry-1327.html#comment17447

 『White Love』(白人の愛)が音楽の世界で流行っていたのは笑って済まされますが・・・、マンデラの死んだ年に日本では名誉白人が生まれていますよ。 

 「緑茶会」も命名の間違いですが、命名の大間違い(搾取企業と呼べばいいものを)といえば、あなたも使っている「ブラック企業」ですよ。そしてトンデモ和製英語「ブラック」は解き放たれ、ブラック市政、ブラック大学、ブラック国家・・・と、もはやあらゆる悪を含意して白人英語のblackに限りなく近づいています。

 これは米国の公民権運動やマルコムXの功績をすべてぶちこわし、マンデラの偉業さえ馬鹿にする愚挙です。

 だって米国の人種・民族の自称についての国勢調査(1995年)によれば、黒人の場合は、混血も含め、単純に「アフリカ系」でない者も含まれて、一番好まれている呼称は「ブラック(黒人)」(44.15%)(ちなみに「アフリカ 系アメリカ人(African American)」 28.07%、「アフロ=アメリカン(Afro-American)」12.12%である。)ですからね。

 ブラックが差別語であったという歴史、その白人英語の押しつけられた価値を逆転させた「ブラック・イズ・ビューティフル(黒は美しい)」運動を知らなければ、その意味(差別語からもっとも好ましい呼称への変化)を理解できません。

 そしてさらに日本では「ブラック」に対比させて「ホワイト」都政実現だとかほざく人間まで出てきました。そう名誉白人がまた出始めてきたのです。

 思い起こせば石原慎太郎は人種隔離政策の南アの「日本・南アフリカ友好議員連盟」の幹事をしていたわけですが、彼もまた名誉白人でしょうが、東京都民といえば名誉白人の差別主義者を熱狂支持したわけで、日本では名誉白人は非難対象にはならないようなのです。昔アジアで日本人はバナナ人と揶揄されていましたが、トンデモ和製英語「ブラック」を使って再びバナナ人を目指すようです。

2013.12.27 04:11 檜原転石


一見して明らかな通り、記事とは全く無関係なコメントである。

コメント主が、当該コメントをそのまま自身のブログのエントリにしているのを見つけたが、あほらしいからリンクは張らない。

当該コメント主は以前から、「ブラック企業」という言葉を何かというと目の敵にしていて、それが村野瀬玲奈さんのブログ記事でも肯定的に取り上げられたことがあった。コメント主が上記コメントをするよりも数か月前の話である。

しかし私は、上記ブログ記事に全面的に反対である。私は当該村野瀬さんの記事に、下記のような記事に対する全否定の「はてなブックマーク」コメント*1をつけた。

kojitaken これはひどい 差別用語 言葉狩り この記事の主張に全面的に反対する。単なる「言葉狩り」だ。この論法だと「黒」を用いた日本語の表現はすべて差別用語になる。そもそも黒人の皮膚は黒くないし、白人の皮膚は白くないし、黄色人種の皮膚は黄色くない 2013/12/28


さて、下記ブログ記事に村野瀬さんの記事が取り上げられている。

血、汗そして涙も? - Living, Loving, Thinking, Again(2013年12月29日)

ブラック企業」という言葉は黒人に対する差別用語なのかどうか。難しいけど、実際に黒人の人に突っ込まれたら真剣に応答せざるを得まい。

英語では、

black market

black sheep

black mail

black list

etc.

と、black(黒)をネガティヴな意味合いで使うことがままある。それを以て、例えばケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴは英語のことを「全人類の言語のなかで、おそらく最も差別的である」と断言する(「アフリカ社会のなかで文学のなしうること」 in『アフリカ人はこう考える』、p.69)。しかし、英語を断罪する前に、例えば仏蘭西語のnoirや伊太利語のneroの意味論を吟味する必要があるだろうし、英語にしても、歴史を遡って、英語話者がアフリカ人と出会う以前のblackの意味論を吟味しなければなるまい。もしかしたら、黒人に対する差別があってそれが隠喩的或いは提喩的に転移されてblackのネガティヴな用法が生まれたのではなく、英語その他の言語にあったblack/whiteの二項対立が基礎にあって、それが人種関係に転写されることによって、黒人差別が言語的に構成されたと言えるかも知れない。客観的に見れば、白人も白くはないし黒人も黒くはない。なのに、何故白人とか黒人と言われるのかということを考えてみよ。黒と白の二項対立は、亜細亜の言語・文化でも見られるが、その場合、その成立はアフリカ人(黒人)との接触とは取り敢えず関係ないと考えてよろしいだろう。中国に発する囲碁。日本語の場合だと、玄米/白米、玄人/素人という対立。或いは角力における白星と黒星。警察用語(?)のシロとクロ。こういう色のシンボリズムが歴史的に形成されてきた上に「ブラック企業」という言葉もつくられたと考えるべきだろう。


「実際に黒人の人に突っ込まれたら真剣に応答せざるを得まい。」というのはその通りでしょう。現実にそういうケースがあるかどうか、寡聞にして私は知りませんが、仮にそういうケースがあるのであれば、私も上記ブコメの意見を変えざるを得ません。

一方、村野瀬さんが当該エントリを上げるきっかけになった「檜原転石」というのは、自分の気に食わない記事を「お前は『差別用語』を使っている」などと、記事とは無関係なことを言挙げしていちゃもんをつけるような人間であり、当該エントリはそんな人間の主張をそのままブログ主自身の主張として取り上げたものである。もちろん村野瀬さんの記事の方が『きまぐれな日々』への「檜原転石」のいちゃもんコメントよりも4か月も早いのだけれど。

村野瀬さんのブログの記事には、記事への賛否両論のコメントがあるが、「檜原転石」の主張に反対するか、あるいは全面的反対には至らずとも手放しで肯定しない意見の方に強い説得力を感じる。
たとえば「あそびたりあん」氏は、

もしも「ブラック企業」という言葉が人種差別(黒人差別)用語であるとしたならば、別の言葉に置き換えるべきである、というご意見にはもちろん賛成です。

しかしながら、現時点では、「ブラック企業」という言葉が人種差別(黒人差別)用語である、という根拠が示されていないように思います。

と書いているけれども、私も同感である。というか、そんな根拠なんかあるはずがないと思っているからこそ、

この記事の主張に全面的に反対する。単なる「言葉狩り」だ。

と書いた。なお、あそびたりあん氏は最近ブログ(はてなダイアリー)を閉鎖されたようだが、この件に関するエントリがある。

(前略)私の現時点での意見は、「ブラック企業」という言葉をもっと適切な日本語に置き換えることができれば、大いに結構なことだと思うが、それは外来語(和製英語含む)の濫用を控えるべきだという観点からのもので、「ブラック企業」が差別用語であるという明確な根拠は今のところないように思われるので、使い続けたとしても、特に問題はない、というものだ。しかしもちろん、「ブラック企業」が差別用語ではないという私の判断が間違いで、実際に差別に結び付く言葉であることがわかれば、直ちに意見を変えるつもりである。


同じエントリの別の箇所から。

 阪神大震災の後だったと思うが、どこかの高校の野球部が、震災により自校のグラウンドが使えなくなったために、他校のグランドをあちこち借りて練習しているという記事に、あるスポーツ紙が「○○高野球部、ジプシー暮らし」といったところ、「ジプシー」は差別語だという抗議が寄せられ、謝罪と訂正をした、という事件があった。確かに、国連などでは、「ジプシー」という言葉の代わりに、「ロマ」「ロマニ」という表現が用いられる傾向にあるが、「ジプシー」が差別用語である、というのは物事を単純化した思い込みにすぎない。確かにこの言葉を嫌う集団もいるが、逆に誇りをもって自称している集団もいる。現に私の所蔵するジプシーに関する研究書は3冊ともに「ジプシー」という言葉をタイトルに使っており、「ロマ」や「ロマニ」を使っていない。「エスキモー」についても同様の指摘を行うことができる。機械的に「イヌイット」に置き換えればいい、と思っている日本人が多いが、自ら「エスキモー」と自称している人々もいるのである。

このあたりは『原発ジプシー』の書名を『原発労働記』に書き換えた講談社文庫の件を思い出させる。蛇足だが、ジプシーで私が思い出すのは、ハンガリー人作曲家リスト・フェレンツ(フランツ・リスト)の『ハンガリー狂詩曲』など、ジプシー音楽に「ハンガリー」の名を冠した音楽に、20世紀ハンガリーの作曲家であるコダーイゾルターンやバルトーク・ベーラが「あれはハンガリーの民謡ではない」と異を唱え、ハンガリーの民謡を採譜して、それらに基づく音楽を作曲したことだったりするが、検索語「ジプシー音楽」でGoogle検索をかけると、ロマ音楽 - Wikipediaが筆頭で引っかかるのであった。これは今初めて知った。

あそびたりあん氏のブログからの引用に戻る。

 また、「外人」という言葉も差別語扱いされているようだが、これにも私は疑問を感じる。これは、「外国資本→外資」「外国為替→外為」「外国語大学→外大」などと同様、「外国人」を単に略した言い方にすぎないのではないか。「ガイジン」という音の響きが「害人」を連想させるなんて、言いがかりとしか思えない。大体、「害人」など存在しない言葉をどうして連想できるのだろうか。それよりも、「外国語」という言葉の方が、(差別とは直接的には関係しないが)問題である。最近は、「母国語」という言葉のおかしさに気付く人が増えてきたようで、「母語」「母言語」などと言う人が増えた。それは望ましい変化であるが、「外国語」の方は相変わらずそのままである。しかし、これは、国家の境界と言語の境界が一致するという明らかに誤った発想を前提としている。しかし、言語の数は国家の数の20倍から30倍はあると言われているし、複数の国で使われている言語も珍しくないのだから、「外国語」という言葉は本来、「異言語」とでも表現すべきであろう。

この部分には少し異論がある。

原発ジプシー』を取り上げた記事には書かなかったが、同書の講談社文庫版にも、「外人」から「外国人」への書き換えがあった。「外人」に関しては、以前から当の外国人たちからこの言葉の使われ方に対してクレームがついていたと私は認識している。それは、「『ガイジン』という音の響きが『害人』を連想させる」などという理由ではなく、「外人」という言葉が、多くの場合、「よそ者」というニュアンスを強く持った排他的な意味合いで用いられてきたからであった。中国人が日本人に「支那」と呼ばれるのを嫌う理由も、日本人が「支那」という言葉を用いてきた文脈による。従って、「外人」という言葉を用いないようにすることには、私は大いに理があると思う。

要するに、「差別用語」が問題とされるのは、言葉が差別的に用いられてきた文脈が存在するからであって、問題にすべきはその文脈であるというのが私の長年変わらぬ主張である、逆に言えば、言葉が差別的に用いられている文脈がないにもかかわらず、「差別用語」を勝手に規定して騒ぎ立てるのはナンセンスな「言葉狩り」以外の何物でもない。このことも長年ずっと主張している。そして、「ブラック企業」という言葉にはそのような文脈は存在しないと私は考えている。もちろん、「ブラック企業」という言葉に黒人を差別する意味合いで用いられた文脈があるという証拠が示されれば、私は立場を直ちに変えるものである。