kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「ブラック企業」は「差別用語」か - 高橋浩祐氏と今野晴貴氏の論考(2014年)

ブラック企業」が差別用語か否かという件で、少し前に書いた記事のコメント欄で長いやり取りがされているが、この件に関しては2013年の一番最後に書いた記事の見解を変える要が生じないうちはそれに何も書き加える必要はなかろうと思って放置していた。

ただ、昨日ネット検索をかけて、5年前に見解を書いた翌年の2014年9月初めに、差別用語だとして批判する側に立つ高橋浩祐氏と、それに反論する今野晴貴氏との記事が相次いでネットに公開されたことを発見したので、ここでは両者の記事をコメントを差し挟まずに紹介する。

「ブラック企業」は、人種差別用語である | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準(2014年9月1日)

ブラック企業」は、人種差別用語である
言葉の使い方に鈍感すぎる国内メディア

高橋 浩祐 : 国際ジャーナリスト 
2014年09月01日


日本国内では、長時間労働や残業代の未払いで従業員を酷使し、使い捨てにする企業のことを長らく「ブラック企業」と呼んでいる。これに対し、従業員を大切にする優しい企業のことを「ホワイト企業」と呼んでいる。

ブラック企業」は昨年の「新語・流行語大賞」トップテンにも選ばれ、日本メディアでも当たり前のように使われている。ネットでは連日のごとく「ブラック企業」絡みの記事が報じられている。しかし、私はこの「ブラック企業」という言葉を以前からずっと「人種差別用語」、あるいはそれに類する言葉だと思ってきた。この言葉を耳にする度に、「ああまた、人種差別用語が使われている」と心を痛めてきた。使ってはいけない言葉だと思っている。東洋経済オンラインにはこれまで軍事や外交、政治問題を書いてきた身ではあるが、今回、この問題について書く機会を得られたので、思うところを記したい。

色で価値判断するのはタブー

従業員を酷使する企業を「ブラック企業」、従業員を大切にする企業を「ホワイト企業」と呼ぶ背景には、「黒が悪いもの」「白が良いもの」との価値判断が前提となっている。つまり、「黒は汚れてきたないもの」「白は綺麗で純粋」といった価値判断が働いている。圧倒的多数の人々はきっと無意識のうちにそう思い、なんの抵抗もなく「ブラック企業」という言葉を使っているのだろう。

しかし、日本で暮らす「有色人種」の外国人は増え続けている。日本人の圧倒的多数も「黄色」という有色人種である。「色の有無」「色の是非」で価値判断を下す表現を使うことは、人々が無意識のうちに、肌の色が、有色かあるいは白色かで優劣をつける社会を育んでしまう危険性がある。「白人が上」「黒人が下」との概念を社会に植え付けたり、助長したりしかねない。これは道徳的に問題がある。英語でいう、politically incorrect(言葉や見解などが不適切で偏見的)の部類に入る。

人種のるつぼ、米国ではこうした偏見をなくすために、長年、Black(黒人)という表現よりも、Afro-American(アフリカ系アメリカ人)という表現がpolitically correct(公正で道徳的に正しい)とみなされて使われている。もちろん、米国の有名なラッパー、ジェイ・Z(妻は歌手ビヨンセ)のように、自らをBlackと呼ぶ人々も少なくない。しかし、米国では既にAfro-Americanという表現のほうが公の場では、より一般的になっている。

BlackとWhiteという言葉の意味について、考えさせられる良い映画がある。今の若い人にはあまり知られずに観られてないだろうが、1992年に米国で公開された映画『マルコムX』だ。1960年代の米国でキング牧師と並び、アフリカ系アメリカ人への人種差別撤廃運動の指導者として名を馳せた実在の人物、マルコムXの生涯を描いた映画だ。アカデミー主演男優賞受賞の名優、デンゼル・ワシントンが演じる名作。まだ鑑賞していない読者、特に若者にはレンタルビデオ屋で借りて観ていただきたい映画だ。

辞典に書かれていること

この映画の中で強烈なインパクトを放つシーンがある。マルコムXが刑務所の図書室の中で、同じ受刑者のベインズと、ウェブスターズ・カレッジエイト辞典を引き、それを読みながら、会話する場面だ。以下、その場面の会話を紹介する。

ベインズ: 黒 ― 光の欠如した状態。色彩のないこと。暗黒で、『未来は暗黒』のような形容に使われる。

マルコムX: 君は言葉に強いな。

ベインズ: (黒は)汚れていて、不潔、陰気、敵意。『暗黒の日(ブラックデー)』のような形容もある。極悪とか残酷さを連想させる言葉。恥、不名誉、過失等を暗示する。脅迫(ブラックメール)、除名(ブラックボール)、不良(ブラックガード)。

マルコムXこれはひどいな。

ベインズ: 次に白を見てみよう。ここを読んでくれ。

マルコムX: 白 ― 汚れのない雪の色。あらゆる色彩の原点。黒の反対。けがれのない状態。無垢(むく)、純粋、悪意のないことの象徴、無害、正直、公正、名誉。。。これを書いたのは白人だな?白人だろ?

ベインズ: 白人だよ。


今、日本でブラック企業という言葉を使って、記事を書いたりしているのはどのような人なのだろう。もし仮に自分がアフリカ系アメリカ人だったり、家族にアフリカ系アメリカ人がいたりすれば、ブラック企業という言葉を書いたり、使ったりすることに少しはためらうのではないか。

実は筆者の妹は、スリランカ人の男性と結婚した。将来、甥っ子や姪っ子が生まれた時は、一般的な日本人より、肌の色が濃い子供となる。「ブラック」や「ホワイト」という言葉を、当たり前のごとく蔑称や称賛の脈略で使っている社会に生まれる子供の未来を個人的にも案じてしまう。

確かに、日本でも昔から犯罪容疑者が犯罪の事実がありと判断する時を「黒」、事実がない場合を「白」と言うなど、黒と白に善悪の価値をつけているのは事実だ。しかし、既に日本は急速な少子高齢化社会に突入し、外国人労働者に頼らざるを得なくなっている。多民族社会に入るなか、「ブラック」や「ホワイト」といった色の有無を善悪の基準にいつまでも平然と使っているのはいかがなものか。

スリランカ人の義理の弟は以前、道端で、通りすがりの中年男性からいきなり「黒んぼ!」と言われ、しばらく落ち込んでいた時期があった。

米国における根深い人種問題

「私には夢があります。いつの日にかこの国が、私の4人の子どもたちが、肌の色でではなく、その人となりで評価されるようになるという夢です」

マルコムXと同年代の米国を代表するアフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者、キング牧師は1963年8月28日、リンカーン記念堂の前で行った有名な演説「I Have a Dream(私には夢がある)」でこう訴えた。しかし、それから51年後の今日、米中西部ミズーリ州セントルイス近郊のファーガソンでは、銃を持たないアフリカ系アメリカ人の青年が警察官に射殺される事件が発生、米国社会の根深い人種問題が改めて浮き彫りになっている。

一方、太平洋の反対側の日本では、既に大勢の外国人が共存する社会になっているにもかかわらず、メディアが「白人」「黒人」「ブラック企業」「ホワイト企業」と書き、アフリカ系アメリカ人の書かれる側の気持ちを十分に忖度(そんたく)しているようには思われない。

実は日本メディアが使う言葉で、気になるものはまだある。「極東」という言葉だ。筆者が働くジェーンズ・ディフェンス・ウィークリーは、極東(Far East)という言葉はpolitically incorrectだとして、すべて「アジア太平洋地域(the Asia-Pacific region)」と置き換えて表現している。欧米メディアでは以前は西欧中心の世界観で、日本の存在する地域を「極東」と呼んでいたが、既に使わなくなっている。関東地方でAM810ヘルツで流れている英語放送のラジオAFN(American Forces Network、米軍放送網)も、かつてはFEN (Far East Network 、極東放送網)と呼ばれていたが、1997年からそれをやめ、AFNが正式名称となった。

言葉は言論の自由を守る武器にもなるが、時に人権を脅かす凶器にもなる。もろ刃の剣だ。言葉狩りになってはいけないが、言葉の野放図にもなってはいけない。言論に携わる者として、おのおのの言葉が持つセンシティビティー(感覚の鋭さ)には常々十分に配慮し、気を付けていかなければならないと自戒している。

東洋経済オンラインより)


「ブラック企業」は人種差別か?(今野晴貴) - 個人 - Yahoo!ニュース(2014年9月3日)

ブラック企業」は人種差別か?
今野晴貴 | NPO法人POSSE代表。雇用・労働政策研究者。
2014/9/3(水) 18:56


ブラック企業」は人種差別だという意見がネットをにぎわせている。昨年流行語大賞トップ10を受賞するなど、私はこの言葉の普及に深くかかわった経緯がある。こうした意見について、経過や事実関係を踏まえて、私なりの見解を述べたいと思う。

そもそも「ブラック企業」とは?

ブラック企業」という言葉は、もともとネット上のスラング(悪口)であり、2000年代後半に、ネットユーザーが会社の劣悪な労働条件を非難するために使い始めた言葉である 。しかし、当時は定義が判然とせず、なぜこの言葉が世の中に広がったのか、誰にも理解されていなかった。

私は2006年からNPO法人POSSEを運営し、これまで数千件の若者からの労働相談に関わってきた。その経験から、この「ブラック企業」という言葉の背景には、「正社員雇用」の劣化があると直感的に理解した。当時、新卒正社員から「長時間労働鬱病になった」とか「パワーハラスメントで退職に追い込まれる」といった事案が殺到していたからだ。

せっかく正社員になっても働き続けることができず、使い潰されて身体を壊し、キャリアを台無しにしてしまう。これは大変恐ろしいことである。だから、就職活動をする大学生の間でも「ブラック企業」という言葉が広がっていった。

なぜ「ネットスラング」だったのか

このように、「ブラック企業」とは正社員雇用の劣化を批判する言葉である。では、なぜそれが「ブラック」というネットスラングとして現れたのだろうか。

2000年代後半当時、世間では辞めてしまう若者に対し、むしろ「人間力が低くなった」、「やる気がないから離職率が高い」などとばかり言われていた。政府も対策を取らず、研究者も深刻にとらえていなかった。文科省は「厳しさを教えろ」とばかり声高に叫んでいた。

あるいは、パワハラの労働相談の増加は「若者の捉え方が変わったからだ(NHK)」という分析がされたり、鬱病の増加は「新型うつ(仮病)」の広がりが原因であると説明されていた。

だから、当事者たちはネットに「悪口」を書くしかなかったのである。こうした経緯が、本当は「正社員雇用の変化」として説明されるべき事実が、「ブラック」というスラングで表現されてしまった理由である。そこには人種差別があったのではなく、専門家の怠慢、行政の怠慢があったのであり、「ブラック」という言葉でしかこの問題が表現されなかったのは、不幸だというべきなのかもしれない。

私が2012年に執筆した『ブラック企業』(文春新書)は、この言葉の「発生の背景」を明らかにすることで、「ネット上の都市伝説」から、「ブラック企業」を労働問題・社会問題とした。2013年には流行語大賞トップ10を受賞した理由は、「この言葉の意味」、「社会的な背景」を明らかにしたからである。

現実に広がった「ブラック企業」という言葉の背景を分析し、問題提起をし続けることは、今なお研究者としてすべき価値のある仕事であると思う。

ブラック企業」という言葉を使うべきか?

厚労省も現在では私の定義を受け入れ、「若者の「使い捨て」が疑われる企業」と表現している。「黒人差別」であるかどうかは別として、行政が「ブラック」というスラングをそのまま使うことは明らかに不適切だ。行政用語としては「若者の「使い捨て」が疑われる企業」というのは適切である。

また、海外での受け止められ方には特に注意が必要だ。日本とは異なる文化的文脈があるからだ。確かに、米国の方が「ブラック企業」と聞けば、黒人差別を想起する可能性がある(ただし、それはあくまで米国での話で、日本での話ではない)。

今後外国語に翻訳する場合は“dark business” と意訳するとか、 “black kigyou” とそのまま表記するのが適切であろう。私も国際学会や翻訳などの際に表記にいつも困っているが、試行錯誤しているところである。

一方、一般の人が日本で「ブラック企業」という言葉を使うことに、それほど過剰反応する必要があるのかには、強い疑問を持つ。もちろん、他の言葉でこの問題を論じられるようになる方が望ましいだろうが、すぐには難しい。それにエネルギーを費やすよりも、この気運を逃さずに「ブラック企業」による長時間労働、過労死・過労自殺を止めることの方がよっぽど大切であると思う。

「黒人差別だ」という批判の問題点

さらに続けよう。私は、「黒人差別だから使うな」という主張に強い違和感を覚える。

過労死、過労自殺、長時間に苦しむ労働者に、「言葉が適切ではない」という批判をする前に、やるべきことがあるのではないか? と思うからだ。端的にいって、この批判者は「どの立場」から、「何を目的」としてこういうことを言っているのだろう?

こういう「言葉の上での批評」は、社会学や社会思想において痛烈に批判されている(それはしばしば「知識人」の傲慢さの帰結であると捉えられる)。

例えば、「妻」という言葉がある。この言葉は、女性差別的な近代家族制度に深く組み込まれているために、社会学者や人権運動家の多くは、あえて使わない。「パートナー」とか「連れ合い」と言い換えるのが習わしだ。私自身、「妻」とか「家内」という言葉は普段使わない。

だが、こうした「言葉」に専門家がこだわるのは当然としても、一般人社会にとっての優先順位は低くて然るべきだ。非正規雇用で差別され、家庭内でDVを受ける女性にとっては、「言葉」の批評どころではない。もしみんなが「妻」を使わなくなったとしても、セクハラや女性労働者への差別がなくなるわけではない。むしろ「言葉」ばかりが争点になれば、現実の差別構造を軽視することにもつながりかねない。

だから、「言葉の批判」ばかりを繰り返す人は、本当は差別をなくすことに興味を持っていないのではないか、と学問的にも疑問が投げかけられてきたのである。

もちろんだからといって、「言葉」への批判がまったく無意味だというわけではない。現実の改善と結びつく「言葉の批判」はむしろ極めて有意義である。

だから、「言葉」への批判が現実の社会批判、社会を改善する取り組みに接合する方法をこそ、考えるべきなのだ。そして、これは意外と難しい作業なのである。

Yahoo!ニュースより)