kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

新垣隆はなぜ佐村河内守の「ゴーストライター」になったか

週刊文春』2月13日号に掲載された「ノンフィクション作家・神山典士氏+本誌(週刊文春)取材班」による佐村河内守の「ペテン」の暴露記事を読んだ。

既に新聞やテレビが大々的に報じている通り、佐村河内守の「全聾」は「真っ赤な嘘」だった。そのことは、一昨日にテレビの映像と音声で視聴した佐村河内の喋りぶりから想像していたが、その通りだった。

開会式に先立って一部競技が始まっているソチ冬季五輪とのからみで話題になっているのは、男子フィギュアスケート高橋大輔選手が、佐村河内が「作曲」したとされてきた、実は新垣隆作曲の「ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ」を選曲したことだが、これはもともと「みっくん」との愛称を持つ、義手でヴァイオリンを弾く少女に佐村河内が「捧げた」曲だったが、みっくんの家族と新垣は古くからの知り合いであり、新垣はみっくんが4歳の頃からみっくんが弾くヴァイオリンのピアノ伴奏を務めていたという。それに目をつけたのが佐村河内で、彼はみっくんに音楽を捧げる「美談」をでっちあげてNHKスペシャルやTBSのドラマの題材にさせて金儲けをした。

ところが昨年春にNHKとTBSの番組が放送されたあと、佐村河内はみっくんの家族に、「お宅は私のお蔭で娘がテレビに出られたにもかかわらず、私への感謝の気持ちがなさすぎる」というメールを送りつけ、驚いたみっくんの家族が新垣に相談した。その内容に思い余った新垣がみっくんの家族に謝罪し、18年にわたった詐欺行為のからくりを語ったという。

神山典士氏は、みっくんを題材にした児童書『みっくん、光のヴァイオリン』の著者だった。その本の帯には佐村河内の写真を掲載し、佐村河内のコメントも書かれている。神山氏は当時佐村河内の嘘に全く気付かなかったとのことだが、「言わば、善意の被害者だが、読者からすれば『共犯者』でもある」という懺悔の言葉を週刊文春の記事に書いている。

記事によると、新垣は現代音楽、民族音楽のほか「アイドル歌謡曲や演歌にも詳しい」、「音楽オタク」とのこと。だからマーラーショスタコーヴィチアルバン・ベルクの音楽を混ぜ合わせたようなキッチュな音楽を作ることができたのだろう。佐村河内が「作曲」したとされてきた交響曲第1番「HIROSHIMA」を私は聴いたことがないが、元々は別に広島原爆をテーマにした作品ではなく、「現代典礼」というタイトルだったという。このタイトルから連想されるのは、フランスの作曲家オネゲル交響曲第3番「典礼風」であり、第2次世界大戦終結前後の1945〜46年にかけて書かれた。ネット検索をかけて、この曲に関するブログ記事を見つけたので、以下に引用する。


オネゲル交響曲第3番「典礼風」第2楽章「深き淵より」 - ワーグナー聴けば聴くほど

この曲は『典礼風』(フランス語でLiturgique。「リトゥルジク」というのかな?フランス語の発音ってちょっとかじっただけの私にはすごく難しいです。)というタイトルですが、日本語にするとピンと来ないので、第2楽章のタイトル『深き淵より』をそのままタイトルにしたほうが日本では一般受けしたのではないか?と思います。こういう変更をしても、決して作曲家の意図を傷つけないどころか、この曲を結果的に多くの日本人に聴いていただくことになったのではないかと思います。

この曲は第2次世界大戦の最中に書かれました。楽章ごとに全てラテン語のタイトルがついています。第1楽章が『ディエス・イレ(怒りの日)』、第2楽章が『デ・プロフンディス・クラマヴィ(深き淵より)』、第3楽章が『ドナ・ノービス・パーチェム(我らに平和を与えたまえ)』です。

第1楽章は壮絶な音楽。「怒り」が渦を巻いている感じですが、標題音楽ではないので「何に対する」「誰の」怒りなのかはわかりません。第2楽章のタイトルの理由は、第1楽章の終結地点がまさに「深き淵」そのものだからだと思います。

第2楽章は悲しみの中でひたすら一筋の光明を探し求めるのですが、心の安らぎを得たが早いか、第3楽章は再び「軍楽マーチ」が執拗に繰り返されます。私は、この「マーチ」のリズムというのは、初めて聴いた時からベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』の最終場面からの引用(というよりはオマージュ?)じゃないかと思っています。『ドナ・ノービス・パーチェム』という歌詞も一致するので、まさに「オマージュ」でしょう。オネゲルの解説書があればいいのですが、これだけの作曲家のわりに余り見当たらないのが不思議です。

感動的なのは、曲の最後にもう一度、第2楽章を思わせる静かな音楽となり、フルートが小鳥の鳴き声のようなフレーズを天に向けてかのように歌うことです。プラッソンの演奏は、この箇所も素晴らしいです。したがって、やはりこれが最高の名演だと私は思います。

オネゲルの作品では、アルトゥール・オネゲルという人物の高潔な人格がそのまま音楽に現れているように思えます。私はかねがね音楽を通して「過去の偉大な人物」が肉声をもってしてかのようにそのまま語り出すところに西洋音楽の素晴らしさがあると考えているのですが、モーツァルトワーグナーヤナーチェクなど主にオペラ作曲家が「矛盾を含んだ有りのままの人間」(マーラーもそうですね)を表現するのに対して、オネゲル交響曲は「より高い目標を目指して進歩向上しようとする人間」を表現していると思います。この点で最も近いのは、彼が尊敬してやまなかったベートーヴェンであり、例えばニールセンもこの路線だと思います。


私はこの曲のCDを2枚持っている。しかし、現在の私は、過去にヘッドフォンで音楽を聴きすぎたせいか、数年前から耳鳴りを伴う難聴に苦しめられている。耳鳴りはおそらく8kHz以上の高周波数成分が多くて帯域が広い雑音であり、それが音楽に含まれる高調波と共振でもするのか、音に耳障りな高周波成分の雑音が混ざり、濁って聞こえるのである。それと関係があるのかどうか、大きな音も苦手である。昨年QVCマリンフィールドでプロ野球の試合(千葉ロッテ対ヤクルト戦)を観戦した時には、スタンドに響く大音量に耳が耐えられず、耳がずきずきと痛んだ。仕方ないから、耳栓で高周波成分をカットしている。そうすれば、耳鳴りは消えないけれども、音楽や物音から耳障りな雑音は消え、大音量にも耐えられる。しかしそうすると、今度は1kHz以上の音が聞きづらくなり、特に2〜4kHzの高音はほぼ聞こえないので*1、ヴァイオリンが活躍する交響曲など聴けた状態ではないのである。しかし日常会話をする分には難聴は特に問題ない。そんな事情もあるから、なおさら佐村河内や、今なお佐村河内を擁護しようとする吉松隆*2らに対する反感が増すのである。

佐村河内守も、過去にロックをやっていたらしいから、耳鳴りや難聴に苦しめられたことがあるというのはおそらく事実だろうと推測するが、それが日常会話に支障のない程度のものであろうこともまた確信している。佐村河内に限らず、耳鳴りや難聴はクラシックやロックなどの演奏家サウンドエンジニア、ピアノ調律師などの「職業病」とも言われており、耳元で音量の大きな高音を鳴らすヴァイオリン弾きには特に「耳鳴り・難聴持ち」が多いとも聞く。この症状には、一説には世の人々の5%とも15%とも言われる人が悩まされているとされるようだが、多くの場合原因不明で、従って有効な治療法もなく、耳鼻科でも邪険に扱われることが多い。私もその経験を持つ。いわば一種の「難病」なのである。

いずれにせよ佐村河内とは迷惑きわまりない人間であるが、新垣隆にとっては、キッチュな音楽しか作れない自らの才能を(佐村河内の)「全聾」という神話によって補って世に送り出せるという利用価値があったのだろう新垣隆の行為もまた許されるものではないが、私はオーケストラの団員の貧乏物語などを聞き知っているので、新垣の気持ちは(佐村河内とは違って)全くわからないでもない*3。一般に音楽で食っていくことが困難であるのは厳然たる事実だし、幸運にも音楽で食っていける人たちも、低賃金(や聴覚障害)に苦しむことが多い。

だから私はプロの指揮者やオーケストラが、コンサートで佐村河内の「作品」を取り上げてきたことを悪く書く気にはなれないのである。なぜなら、コンサートに客が入らなければ彼らの商売はあがったりだからである。だから、気が進まなくとも、人気の高い(高かった)佐村河内の「作品」をプログラムに載せざるを得なかったのであろう。そうでなくとも、橋下徹のようにオーケストラや能・文楽などに敵意を燃やす獰猛な新自由主義者が世の中にはゴロゴロしていて、そんな輩に限って世の人々から拍手喝采を浴びたりしている。

いずれにせよこの件、久々に好奇心をかき立てるニュースではある。オネゲルの他、ペンデレツキとか松本清張(笑)とか、いろんなことを思い出させてくれた。当ダイアリーの読者の多くは普段、政治について書いた記事をお読みだろうから、「ちっ、また佐村河内の話か」と思われるかもしれないが、私は今後もこのニュースに注目してしまうだろう(笑)


[追記](2014.2.9)
この記事に、「新垣隆にとっては、キッチュな音楽しか作れない自らの才能を(佐村河内の)「全聾」という神話によって補って世に送り出せるという利用価値があったのだろう」と書きましたが、この部分を取り消します(本文に赤の削除線を入れました)。その理由を下記記事に書きました。

*1:2〜4kHzの音域の音は、ある程度以上の音量があれば聞こえるが、実際の音よりも周波数が高く聞こえ、音感が狂ってしまっている。実に悲惨である。

*2:http://yoshim.cocolog-nifty.com/tapio/2008/01/post_ce52.html, http://yoshim.cocolog-nifty.com/tapio/2014/02/s-02c6.html, http://yoshim.cocolog-nifty.com/tapio/2014/02/s-379a.html

*3:もちろん週刊文春の記事は新垣隆の立場から書かれているので、佐村河内守の「心の闇」をうかがうことはできない。