kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

「佐村河内守=新垣隆」と『砂の器』

佐村河内守の一件、好奇心をかき立てられたのでいろいろ記事を書いたが、アクセス解析を見ると、その中で下記2件の記事へのアクセス数が多いようだ。


しかし、上記2件のうち最初の記事で、私は大きな思い違いをしていた。上記記事の最大の問題点は、「佐村河内守」名義で書いた新垣隆の音楽は、彼が本来書きたかった音楽では全くなかったという視点が、上記記事からは完全に抜け落ちていることだ。それは新垣隆自身の言葉を読めば明らかだったのだが、うかつにも考えを致さなかった。

新垣氏をよく知る伊東乾氏が下記記事を公開し、話題になっている。


以下引用する。

 数万円のギャランティで、この「断片から楽曲を組み上げ、オーケストレーションして納品する」仕事を請け負った新垣君に対して、偽ベートーベンはこんなふうに言ったそうです。

 「この作品はぼくの名前で発表したい。君の名前は演奏家としてクレジットするし、将来必ず引き上げるから、しばらく協力してほしい」

 これに対して新垣君は、

 「私は、お金とか名声が欲しいのではありませんでした。(偽ベートーベン)の依頼は現代音楽ではなく、調性音楽(和音をベースにした音楽、と注がついていますが、週刊文春としてこういう表現しか取れなかったのでしょう。これは誤りですが)でしたから、私の仕事の本流ではありません」

 この「私の仕事の本流ではありません」という短い一言に、多くの本質が集約しているのです。

 つまり、自分自身が一から創意を持って創作する真剣なチャレンジとしての「仕事」(ライフワーク)ではなく、初歩的な、既存の、別の表現を取れば、さんざん手垢のついた既成のスタイルでの楽曲書き、これは言ってみれば、「作曲課題の<実施>」に近いものと言えるでしょう。


つまり、「佐村河内守」名義で作曲された新垣隆の音楽は、新垣隆が本当に書きたかった音楽ではなかったということだ。だから、私が一昨日(7日)に書いた、

新垣隆にとっては、キッチュな音楽しか作れない自らの才能を(佐村河内の)「全聾」という神話によって補って世に送り出せるという利用価値があったのだろう。

という文章は誤りだった。当該記事のこの部分に赤の削除線を加え、追記の文章を書いておいた。

ただ、新垣隆は憶測で個人ブログに好き勝手書かれても仕方ないことをやらかしたんじゃないかと思っていることも正直に白状しておく。


以下は無駄口である。というかそれが本論なのだけれど。


今回の事件から、松本清張の『砂の器』を思い出された方も少なくなかろう。私はつい最近まで松本清張を「食わず嫌い」していたのだが、昨年11月のある時に『Dの複合』を読み、それ以来ちょっとした「マイブーム」になっている。松本清張推理小説は、トリックはお粗末だし、刑事は信じられないほどの間抜け揃いだが、読者をぐいぐい引っ張って行く力があって読み始めたら読むのを止められない。だから何度も睡眠不足になった。そして、昭和30年代や40年代の鉄道の旅に関する記述が、一時期「乗り鉄」だった私の琴線に触れるのである。私は映画もテレビドラマもほとんど見ないので、映画化された清張作品も見たことがない。それが幸いして、犯人が誰かは小説を読む前には知らない。

砂の器』は昨年(2013年)一番最後に読んだ本である。以下にネタバレを書くので、『砂の器』を未読でこれから読みたいと思われる方がもしおられるなら、ここで読むのを止めていただきたい。


砂の器(上) (新潮文庫)

砂の器(上) (新潮文庫)


砂の器(下) (新潮文庫)

砂の器(下) (新潮文庫)


この小説の犯人は音楽家の和賀英良(わが・えいりょう)だが、和賀は「ヌーボー・グループ」なる芸術家集団に属している。このグループに関して、Wikipedia「砂の城」には下記のように書かれている。

  • 小説中の「ヌーボー・グループ」のモデルに関して、音楽評論家の小沼純一は、1951年に結成された実験工房(作曲家の武満徹などが参加)と推定している。また、文芸評論家の郷原宏は、1958年頃から運動の始まった若い日本の会(作曲家の黛敏郎などが参加。正式な創立集会は1960年5月)がモデルと推定している。


Wikipedia「実験工房」より。

実験工房(じっけんこうぼう)は、詩人の瀧口修造の下にさまざまな分野の若手芸術家約14人が集まって結成された総合芸術グループ。命名は瀧口による。活動期間は1951年から1957年まで。ただし、正式な解散はしていない。第二次世界大戦後の前衛芸術運動にて先駆的な功績を残した。

瀧口を顧問格として、それぞれの友人知人関係が連携して出来上がったグループだが、結果としては皆が反アカデミックで前衛的な気質を持っていた。


活動

様々な芸術ジャンルで活動するメンバーによる集団であり、その活動もジャンルを越境したものであった。

最初期の活動として、作曲・装置・衣装を担当した創作バレエ「生きる悦び」の上演が挙げられる。音楽分野では作曲家の武満徹湯浅譲二らの最初期の作品発表の場としても活動し、またアルノルト・シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」、オリヴィエ・メシアンの「前奏曲集」、「世の終わりのための四重奏曲」、「アーメンの幻影」などの日本初演も手がけた。特にメシアン作品の研究は実験工房の音楽関係メンバーに大きな影響を与えた。

フランス文学に関する関心も深く、瀧口修造シュルレアリスムの日本における第一人者でありアンドレ・ブルトンと交流があったことをはじめ、秋山邦晴もフランス文学に造詣が深かったため、これらのフランス文学および芸術の研究は特に熱心だった。

1953年にはソニーの前身である東京通信工業から開発されたばかりのテープレコーダーおよびそれとスライドを連動させる教育用装置オートスライドを借りてきて、スライド写真の映像を伴うミュージックコンクレート作品を発表した。1956年にはテープ音楽(ミュージックコンクレート、電子音楽およびオートスライドも含む)のオーディションを主催した。


メンバー

最も広く使われている集合写真の並び順による。


Wikipedia「若い日本の会」より

若い日本の会(わかいにほんのかい)はかつての社会運動団体である。


概要

1958年に当時の自民党が改正しようとした警察官職務執行法に対する反対運動から生まれた石原慎太郎永六輔谷川俊太郎ら若手文化人による組織。1960年の安保闘争で安保改正に反対を表明したことで知られる。
従来の労働組合運動とは違って、指導部もない綱領もない変わった組織であった。

メンバーには黛、江藤、浅利、石原など後に保守派の転じた人も少なくない。


その他のメンバー

など


小説を読んだ私が判定すると、「ヌーボー・グループ」のモデルは間違いなく「実験工房」であろう。ただし、Wikipediaの引用から明らかなように、「実験工房」には複数の作曲家が参加していたから、誰か特定の作曲家がモデルになっているわけではない。

小説には、諸井誠が書いた、確かミュージック・コンクレートの定義か何かについての文章が引用されていた*1。このことからも想像がつくように、犯人の和賀英良は現代音楽の作曲家という設定である。従って、和賀が行うコンサートでは、前衛音楽が演奏された。

この『砂の器』は、小説よりも野村芳太郎監督の映画の方が高い評価を得ているようだ。映画では音楽が下記のように使われている(Wikipedia「砂の器」より)。

映画版では、和賀英良が原作の前衛作曲家ではなく、天才ピアニスト兼、ロマン派の作風を持つ作曲家に設定変更された。劇中での和賀は、過去に背負った暗くあまりに悲しい運命を音楽で乗り越えるべく、ピアノ協奏曲「宿命」を作曲・初演する。物語のクライマックスとなる、捜査会議(事件の犯人を和賀と断定し、逮捕状を請求する)のシーン、和賀の指揮によるコンサート会場での演奏シーン、和賀の脳裏をよぎる過去の回想シーンにほぼ全曲が使われ、劇的高揚とカタルシスをもたらしている。原作者の松本清張も「小説では絶対に表現できない」とこの構成を高く評価した。

原作と違う点がいくつかあり、今西・吉村が利用した列車が時代にあわせて変化しているほか(亀嵩へ向かう際、原作では東京発の夜行列車で1日かけてもたどり着かなかったが、映画版では当時の主流であった新幹線と特急を乗り継いで向かっている)、和賀英良の戸籍偽造までの経緯も異なっている。また、原作では、ハンセン(氏)病への言及は簡潔な説明に止められているが(言及箇所は第六章・第十七章中の2箇所)、映画版では、主に橋本忍のアイデアにより、相当の時間が同病の父子の姿の描写にあてられている。また、今西がハンセン(氏)病の療養所を訪問するシーンは原作にはなく、映画版で加えられた場面である。

「宿命」は音楽監督芥川也寸志の協力を得ながら、菅野光亮によって作曲された。なお、サウンドトラックとは別に、クライマックスの部分を中心に二部構成の曲となるように再構成したものが、『ピアノと管弦楽のための組曲「宿命」』としてリリースされた。


つまり、小説で描かれた和賀英良の作品が、新垣隆が本来書きたかった音楽、映画に用いられた菅野光亮の音楽が、「佐村河内守」名義の新垣隆の音楽にそれぞれ対応するのではないかと私は思ったのだった。

難解な現代音楽は、普段クラシック音楽を聴く人さえも敬遠されやすい。そのことは、本記事の最初に、「アクセス数の多い記事」の2件目にあげた記事で取り上げた「佐村河内信者」のコメント群から明らかである。彼らの一人はこう書いた。

ベト、ブラ、ブル、マラ、タコ・・・・聴き飽きました。確かに佐村河内守は現代唯一の異端でしょうが、それが何でしょうか。私たちは佐村河内のような現代人が書いた調性の傑作を何十年も待っていたのです。


世の中には、商業的な理由からではなく、自らの芸術を追及した結果、調性音楽に回帰した作曲家も少なくない。シェーンベルクの晩年の作品にも調性を持つ音楽があるとのことだし(未聴)、武満徹の晩年の作品にも調性感を持つものがある。1977年に書かれたグレツキの『悲歌のシンフォニー』(交響曲第3番)もその一例かもしれない。3楽章構成のこの曲の第2楽章の歌詞は、ゲシュタポ収容所の壁に書かれた言葉に取材されている。この曲は、例の稲田朋美が検閲しようとした李纓(リ・イン)監督の映画『靖国 YASUKUNI』に用いられた。この作品は、映画館で見たことのある数少ない映画の一つだからよく覚えている。映画を見たのは2008年だが、その数年前にCDを買って聴いたことがあったから、映画に使われているのがグレツキの音楽であることは、見ていてすぐにわかった。グレツキは2010年に76歳で亡くなったが、若い頃はバリバリの前衛音楽作曲家だった。

しかし残念ながら、佐村河内守名義の新垣隆の音楽は、芸術的な必然性から生まれたものではなく、作曲者自身が認める「やっつけ仕事」であった。それでも本当に良い音楽であれば後世に残るだろうし、そうでなければ「佐村河内守新垣隆」の音楽を持ち上げてきた人たちは、戦前に蓑田胸喜アジテーションに乗せられた文化人たちと同様、後世の人々に笑いものにされるだけだろう。


ここからは余談だが、上記Wikipediaの引用文からもわかる通り、松本清張の小説には、「反差別」を隠し味に使うという独特の作風がある。余談だが、『砂の器』以上に差別問題を題材にしていることが顕著なのが『眼の壁』であって、犯人は長野県の被差別部落出身の右翼の大物だが、自らの出自を隠すために、朝鮮人であるとの噂を自分で流させたという、ぎょっとさせられる設定になっている。しかし、このことは意外と読者に意識されにくいのか、11件あるアマゾンの「カスタマーレビュー」には差別問題に言及した書評が1件もない。これは、松本清張が「反差別」をあくまでも「隠し味」として控えめに用いたためだろうと私は思っている。『砂の器』においても、

原作では、ハンセン(氏)病への言及は簡潔な説明に止められているが(言及箇所は第六章・第十七章中の2箇所)

という程度の言及であり、本当の「隠し味」なのだ。それをクローズアップしたのが映画版という位置づけになるのだろう。但し、これには必然的に「差別を助長するものではないか」との問題を伴う。引き続きWikipedia砂の器」より引用する。

  • この映画において、ハンセン氏病の元患者である本浦千代吉と息子の秀夫(和賀英良)が放浪するシーンや、ハンセン氏病の父親の存在を隠蔽するために殺人を犯すという場面について、全国ハンセン氏病患者協議会(のち「全国ハンセン病療養所入所者協議会」)は、ハンセン氏病差別を助長する他、映画の上映によって“ハンセン氏病患者は現在でも放浪生活を送らざるをえない惨めな存在”と世間に誤解されるとの懸念から、映画の計画段階で製作中止を要請した。しかし製作側は「映画を上映することで偏見を打破する役割をさせてほしい」と説明し、最終的には話し合いによって「ハンセン氏病は、医学の進歩により特効薬もあり、現在では完全に回復し、社会復帰が続いている。それを拒むものは、まだ根強く残っている非科学的な偏見と差別のみであり、本浦千代吉のような患者はもうどこにもいない」という字幕を映画のラストに流すことを条件に、製作が続行された。協議会の要望を受けて、今西がハンセン氏病の患者と面会するシーンは、シナリオの段階では予防服着用とされていたが、ハンセン氏病の実際に関して誤解を招くことから、上映作品では、背広姿へと変更されている。


ハンセン氏病で思い出されるのは、小泉純一郎が総理大臣在任中になした唯一の善行ともいえる「らい予防法違憲国家賠償訴訟」の控訴断念である。またまたWikipediaより引用する。

らい予防法違憲国家賠償請求訴訟(らいよぼうほういけんこっかばいしょうそしょう)とは、日本の著明な国家賠償訴訟のひとつ。ハンセン病に罹患した患者を伝染のおそれがあるとして隔離することを認めたらい予防法が、日本国憲法に違反するとして提起した国家賠償訴訟である。

(中略)

1998年(平成10年)7月31日、熊本地方裁判所に提訴され、2001年(平成13年)5月11日に原告全面勝訴の判決が下された。判決は、らい予防法は日本国憲法に明らかに違反すること、遅くとも1960年(昭和35年)以降は厚生大臣(当時、現厚生労働大臣)の患者隔離政策が、また、1965年(昭和40年)以降は国会議員の立法不作為が、いずれも違法且つ有責であって不法行為が成立するとし、すべての患者に対して、隔離と差別によって取り返すことのできない極めて深刻な人生被害を与えたと認定した。日本の裁判史上において、これほど厳しく国のらい予防法と政策による非行を断罪した類例はほとんどない。

国は当初、事実認定や立法不作為の正当性を巡って控訴を検討した。しかし控訴するに足るほどの正当な理由を見いだすことができず、5月25日に小泉純一郎内閣総理大臣が総理大臣談話を発表して控訴を断念し、判決は確定した。6月7日に衆議院で、6月8日には参議院で謝罪決議が採択された。6月22日にはハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律が施行された。また判決が出された直後に日本弁護士連合会も判決を高く評価する声明を会長名で出している。


控訴断念を小泉に強く働きかけた1人として、筑紫哲也がいる。小泉が談話を発表した日の『NEWS23』で、筑紫は感極まった様子だったという。この日は確か金曜日だった。私も、へえ、小泉もやるじゃん、と思ったものだ。しかしその2日後、大相撲夏場所の千秋楽で小泉がやらかしたのが、「痛みに耐えてよく頑張った! 感動した!!」というあのパフォーマンスだった。これに日本国民は熱狂したが、私の背筋には冷たいものが走った。いくら小泉に「感動」されたところで、貴乃花の負傷はもしかしたら再起不能につながるものではないか、そうなっても貴乃花は一文の得もしないのではないかと直感したからである。そしてその予感は現実のものとなった。貴乃花は長い休場から土俵に復帰したものの、再び優勝することなく引退した。そして、小泉は国民に「痛みに耐える」ことを求め、空前の悪政を展開していったのだった。

佐村河内守の件からすっかり離れてしまったが、意図的にそうした。今日は東京都知事選の投開票日であり、小泉純一郎のメッキが、一昨年から昨年にかけて明らかになった小沢一郎同様、完全に剥がれ落ちていることが示される。これと結びつけたかったのである。

*1:本は図書館で借りて読んだため、手元になく確認できない。