kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

またまた「佐村河内信者」の妄言コレクション

25年ほど前をピークにした音楽ヲタの時代と比較すると、もはや「ヲタ」と自称できなくなっている私は、恥ずかしながら「佐村河内守」はおろか、吉松隆の音楽も知らないのだった。だから、「稀代のメロディーメーカー」であるらしい吉松隆武満徹を批判した文章も、初めて読んだ。

下記ブログ記事に、『レコード芸術』1996年8月号に掲載された吉松隆武満徹批判の文章が紹介されている。そのうちの一節を引用する。

http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20070514(2007年5月14日)より

(前略)

 それはちょっと考えれば誰でもすぐわかることだったのだ。もし「普通の音楽を聴く耳」を持っているのに現代音楽の作曲家などになってしまったら、「音楽が聞こえなくなる耳」を持ったベートーヴェンのように苦悩するに決まっているのだということは。

 そもそも「音楽」は人間という生物の「音に反応する感覚」の上に成り立った行為なのだから、感性を切り離して知性で作る音たちは「音群」ではあっても「音楽」ではない。「音楽」の領域を極めるための実験として「音群」を知性で制御してみようと試みるのは勝手だが、それは「音への試み」ではあっても「音楽」ではないのだ。

 ところが、この一般社会から遊離した実験行為がその「芸術性」を振りかざして逸脱し、大衆の支持を得られないのを逆手にとって一般の音楽を大衆音楽とか娯楽音楽と呼んで低いものと見なし始めると、この弱小集団は「現代音楽」という名のファッショのカルト教団化してゆく(この思考がが生みだした最近のおぞましい例を私たちは知っている)。

 武満さんが、現代音楽のこのファッショ・カルト化に反感を持ちながらも結局は終生「現代音楽教」の大幹部であり続けたのは、ソヴィエト政府に反感を持ちながらも結局は終生国家権力サイドの御用作曲家の地位にあり続けたショスタコーヴィチを思い起こさせて、作曲家もまた人間であるということを悲しく思い知らされる。

 そのあたりのことについて、私はものわかりよさそうな顔をして理解したいとは思わない。いくら知性がたわごとを思い付いても感性はごまかせないはずだし、音については人一倍鋭敏で繊細な感性の持ち主だったはずだ。それなのに彼は「現代音楽」の一線で活躍し続け、ご丁寧にも海外の「現代音楽」を紹介する任まで買って出て、「先鋭的な音楽芸術を社会に認知させるべく働く知性的な文化人」を演じ続けた。その矛盾に耐えた偉大なる精神力には驚嘆するしかない。その苦悩は、たぶん耳が聞こえなくなったベートーヴェンの苦悩に匹敵するに違いない。私はそう思う。

 そんな武満さんの作品が80年代を境に甘く退嬰的なサウンド指向に片寄っていったのは、彼自身が本来求めていた「音楽」をそういったストレスを振りきって書こうとした証だった。それは60年代の名作《テクスチュアズ》で既に「歌」を憧れとして秘めていた武満さんにとっては当然の帰結だったのだ。

 しかし60年代70年代と作曲家の一番脂の乗りきった時期にメロディを書かなかったツケは厳しい。甘いサウンドは書けるようになったが、その「核」となるメロディだけはどうしても書けなかったのだ(訃報を聞いて以後、彼の残した多くの作品を聴き直したうえでそう断定せざるを得ないことは、彼を敬愛し畏敬しながら作曲家を志した私にとっては悲しくつらい)。

(後略)


この吉松隆武満徹評には全く賛同できない。ショスタコーヴィチを引き合いに出しているくだりには強い反感を覚える。「御用音楽の皮を被った抵抗の音楽」の時期を経て、後年のショスタコーヴィチは一種独特の境地に至っており、その音楽の訴求力はきわめて強いからである。吉松はショスタコーヴィチの音楽を批判しているわけではなく、彼の生き方を批判しているのではあるが。

また、

「音楽」は人間という生物の「音に反応する感覚」の上に成り立った行為

というのはその通りだと思うが、調性音楽を支える「機能和声」とは、果たして人工物とはいえないのだろうか。自然に生まれてくるものだったら、なぜ東洋からは「機能和声」の音楽が生まれてこなかったのだろうか、等々疑問は尽きない。

さて、このエントリが最近アクセス数を集めたのは、この記事についた「佐村河内信者」のコメント群が理由らしい。どうやら、「佐村河内信者」は吉松隆を目の敵にしていたようだ。吉松隆とは、「小沢信者」にとっての菅直人(「空き菅」)や野田佳彦(「「野ブタ」)に対応する人物らしい。

同じエントリのコメント欄より拾う。

あきら 2011/08/03 20:22
佐村河内守交響曲第一番《HIROSHIMA》に比べたら吉松隆交響曲はゴミ屑同然。


『クラシック作曲界の快挙』大手CD店クラシック売り上げ集計第1位=佐村河内守交響曲第一番《HIROSHIMA》(CDジャーナル調べ)
邦人作曲家作品のCDがクラシック部門で売り上げNo.1になったのは佐村河内守が史上初。
あの武満徹ですら成し得なかった。


名実ともに日本一の作曲家:佐村河内守

マーヤ 2012/07/04 12:34
平清盛 最低視聴率がニュースに!

音楽の責任は重い。

美川 2012/12/10 16:04
そもそも吉松隆オーケストレーションは滅茶苦茶だ。調性を書けばそれでいいという訳ではない。

20世紀はロクな音楽がなかった。21世紀は優れた音楽が書かれなくてはならない、その尖兵が佐村河内守さんだ。by 三枝成彰