kojitakenの日記

古寺多見(kojitaken)の日記・はてなブログ版

現代音楽に関するノビー(池田信夫)の妄論を嗤う

これはひどい。ノビー(池田信夫)が書いたこの文章はひど過ぎる。

http://blogos.com/article/80165/ より。

佐村河内守という耳の聞こえない(と自分ではいっている)人の曲が、別の「ゴーストライター」のつくった曲だったという騒ぎが話題になっています。でも耳の聞こえる人が「聞こえない」と嘘をついて障害者手帳をだまし取るのはよくあることだし、誰がつくろうといい曲ならいいじゃないですか。

――と思ってYouTubeに残っている「交響曲第1番」の終楽章の最後の部分を、マーラー交響曲第3番の第6楽章の最初の部分と聞き比べてみました。びっくりするほど似ています。これはパクリというのではないでしょうか。

でもそんなことを言い出したら、みなさんのきいているイージーリスニングなんてみんなハイドンモーツァルトのパクリだし、ビートルズだって自分ですべて編曲したわけではありません。楽譜の書けないメンバーが歌ったのを、プロが譜面に書いてオーケストラなどをつけたのです。そういう意味では、ポップスも歌謡曲も「ゴーストライター」だらけです。

「でもそんなことを言い出したら」以降の文章を添削してみる。

でもそんなことを言い出したら、マーラー交響曲第3番の第1楽章の最初の部分はブラームス交響曲第1番の第4楽章のパクリだし、そのブラームス交響曲第1番の第4楽章は、ベートーヴェン交響曲第9番の第4楽章のパクリです。さらにベートーヴェン交響曲第3番の第1楽章は、モーツァルトが子どもの頃に書いたオペラのパクリになります。そういう意味では、クラシック音楽の世界も「ゴーストライター」だらけです。

あれ?

今回の件で、「佐村河内守新垣隆」の音楽を、ガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」にグローフェがオーケストレーションしていたことにたとえた人がいるが、両者は全く異なる。そんなことを言うのは、音楽の何たるかを知らない人間である。ビートルズをこき下ろすノビーもそれと同じことを言っている。これだけでも、ノビーが音楽に関して全くの無知であることがよくわかる。

作曲した新垣隆さんは現代音楽の世界では有名な人だそうですから、自分の作品でこんなことはしないでしょう。マーラーは100年前に死んだ作曲家で、現代音楽の否定したロマン派の巨匠です。こういう調性音楽(ドミソなどの和音のある曲)は19世紀までにやりつくされてしまい、現代の作曲家がそういう曲を書いても評価されないのです。

現代音楽と呼ばれるのは「無調」とか「前衛」とか、いかにもむずかしそうな音楽です。これは美術の世界も同じで、20世紀に入ってからの「現代美術」とか「抽象絵画」と呼ばれるものには、小学生の落書きと区別のつかないものもあります。

これもでたらめである。マーラー交響曲第10番第1楽章のトーン・クラスターばりの不協和音をノビーに聞かせてやりたい衝動に駆られるが、それはさておき、そもそも調性音楽とは「ドミソなどの和音のある曲」ではない。私も音楽の専門的な教育を受けた人間ではないが、一般的な定義では、機能和声に基づいた音楽を指すのではなかったか。そう定義するなら、ラヴェルの「ボレロ」も「調性音楽」の範疇には入らない。そう私は認識している。

こういう「前衛芸術」が出てきたのは、20世紀初めの社会主義がはやっていたころでした。描いていたのもピカソとかカンディンスキーとか、左翼的な人が多かったのです。現代音楽を書いたシェーンベルクバルトークなどの作曲家も、音楽の進歩を信じていました。

そういう意味では現代音楽も現代美術も、社会主義とともに生まれて社会主義とともに終わったのかもしれません。前衛という言葉は、もう政治の世界では誰も使いません。日本共産党の『前衛』という雑誌だけは続いていますが、党の綱領からは削除されました。

進歩というのは、疲れるものです。会社はイノベーションを続けていないともうからなくなりますが、音楽が進歩する必要はありません。今でも200年以上前のモーツァルトを世界中の人がきいています。よい子のみなさんはむずかしいことを考えないで、きいて楽しくなる音楽をきけばいいのです。

ノビーが書きたかったのはこのくだりなのだろうが、それならショスタコーヴィチは? 彼は「音楽の進歩」なんか信じていたんだろうか?

なぜ「共産主義大嫌い」のはずのノビーがショスタコーヴィチを無視するんだろうか? 単に知らないだけかな?

個人的には、「社会主義リアリズム」は人類が犯した最大の誤りの一つであったという信念を、私は持っている。かつてのソ連文革時代の中国を、私が蛇蝎のように激しく嫌う理由の一つがこれである。